2019年11月18日月曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その2)

江戸の日本橋を出てから51里目の「四賀神戸(よつがごうど)の一里塚」跡です。現在は一里塚跡を示す石碑が立っているだけで、塚は現存していません。かつて塚上には高さが89メートルくらいあるエノキ()の大木があって、甲州街道を旅する旅人にとってはよい目標になったり休憩所になっていたそうなのですが、残念ながら明治時代になってから取り崩されたのだそうです。
ですが、「かりんちゃんバス」と称する市内巡回バスのバス停に「一里塚」という名称が残っています。バス停の背後の少し高くなっているところが、もしかすると一里塚の跡なのかもしれません。ちなみに、このあたりは諏訪大社の神域への入口という意味で「神戸(ごうど)村」と呼ばれていました。その神戸村には4つの集落があったそうで、「四賀(よつが)神戸」なのだそうです。
歴史を感じさせる大きな民家も建ち並ぶのに加えて、この微妙なS字カーブ。旧街道らしい道が続きます。前日まで長野県地方の天気予報には雨マークが出ていたのですが、朝から見事な秋晴れです。気温も30℃近くまで上がり、半袖ポロシャツで歩きました。ちょっと陽に焼けちゃいました。
これはこれは立派な常夜燈です。この常夜燈のところで右に分岐し、小高い山の上に登ると岩久保観音堂があります。この岩久保観音堂は、大隅流の名匠・柴宮矩重による彫刻が見事な江戸時代に建てられた建築物なのだそうです。また、左に分岐する道を真っ直ぐに下って行くと、諏訪大社の上社本宮に行くことができます。
遠くに諏訪湖が見えてきました。甲州街道歩きのゴールである下諏訪宿は、あの諏訪湖の対岸にあります。
諏訪湖の湖畔を目指して緩い下り坂を下っていきます。
柿の木ですね。まだ色づいてはいないようです。この柿の木の先の小高い丘の上に、かつて桑原城がありました。桑原城は、戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な城でした。天文4(1535)、惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れし、諏訪・武田両家は同盟関係を結んでいました。その関係が崩れたのは、惣領を継いだ諏訪頼重が天文10(1541)に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだことに対する報復として、翌天文11(1542)、父信虎を追放した武田晴信(のちの信玄)が諏訪に攻め入ったことによります。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き、民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ勢力には差が歴然としていたといわれています。にもかかわらず、諏訪頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。72日夜、劣勢のまま居城である上原城に火をかけて桑原城へ退却、翌3日の夕方、戦闘に備えるために検分をしようと「つるね」(足長神社へ続く尾根)を下った頼重の姿を見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い込み、ことごとく逃げて行ってしまったため、残った20人ほどの家臣とともに夜を明かし、4日、甲州勢の使者を受け入れ、城を明け渡すことにしました。その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。このように桑原城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。

この日のコースは基本諏訪湖の湖畔に向かっての下り坂なのですが、中にはこんな急な上り坂も。144段の急な石段を登った上にあるのは足長神社です。祀られている祭神は脚摩乳(あしなづち)神。諏訪大社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)の曽祖父にあたる神様です。日本神話で、この建御名方神は大山祇神(おおやまつみのかみ)の子とされています。脚摩乳(あしなづち)神の妻は手摩乳(てなづち)。その間に生まれた末娘の奇稲田姫(くしなだひめ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の妻となり、その間に産まれたのが大国主神(おおくにぬしのかみ)です。諏訪大社の祭神である建御名方神はその大国主神の子なので、4代前は大山祇神ということになります。ちなみに、愛媛県の大三島にある大山祇神社は越智氏族の氏神。そういうのを聞くと、何か諏訪大社には親近感を覚えてしまいます。
この足長神社はこの近隣の桑原郷の郷社として手長神社とともに祀られたと考えられています。拝殿の彫刻は大隈流棟梁の矢崎専司の作で、舞殿の虹梁の唐獅子の木鼻に大きな足の裏が彫られていて、その神は足の長さが10メートルもあったと言われています。
144段の急な石段を用心しながら下って、街道歩きに戻ります。石でできた祠の中に一対の双体道祖神が祀られています。
白い漆喰壁の土蔵があったりして、旧街道らしさを漂わせる家並みです。
旧街道の証し、石塔石仏群です。いつ頃建てられたものかは分かりませんが、石の表面の風化具合から推定するに、相当古いものと思われます。
大きな古民家があったりして、旧街道らしい道路です。
これは……! 共同浴場ならぬ「共同温泉」です。地元に住む人専用の共同温泉のようです。各家庭に温泉を引くのは難しいので、共同で使える温泉場を建てたのでしょう。先ほど街道脇に足湯場がありましたが、さすがは温泉地 諏訪らしい施設です。
かなり坂道を下って比較的平坦な道に変わってきました。このあたりは四賀の1つ、武津の集落です。
双体道祖神です。比較的新しい感じの道祖神ですが、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わしている像になっています。これは長野県安曇地方が発祥の道祖神で、神々の装束を身にまとっているものが通例な中にあって、このような宮廷風の造りは非常に珍しく、「祝言道祖神(しゅうげんどうそじん)」と呼ばれています。
ここで国道20号線と合流します。
が、すぐに左側の側道に入り、「清水12丁目交差点」で再び国道20号線と合流します。


……(その3)に続きます。

2019年11月17日日曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その1)

929日、このところ趣味としている『甲州街道あるき』の最終回【第16回:茅野下諏訪追分】に参加してきました。今回(16)は前回(15)のゴールだった茅野市の頼岳寺の駐車場を出発し、上諏訪宿を経て、甲州街道の終点である下諏訪宿内にある中山道との合流地点(追分)まで歩きます。昨年の1月に江戸の日本橋をスタートして1年と9ヶ月。全16回。ほぼ毎月にように尺取り虫のように距離にして532420(210.8km)の距離を歩き、いよいよ45宿目の宿場で終点である下諏訪宿に到着します。

615()16()に歩いた前回【第14回】韮崎宿蔦木宿も、714()15()に歩いた【第15回】蔦木宿茅野も2回連続であいにく梅雨前線が日本列島のすぐ南の海上に停滞していて、おまけに低気圧が接近する中での街道歩きで、事前の予想では降りしきる大雨の中を歩くのかと覚悟したほどだったのですが、いずれも、日中、歩いている間はほんの霧雨程度でたいした雨にはならず、夜間、ザァザァ降りになるという天気で、「晴れ男のレジェンド」ぶりを遺憾なく発揮させていただきました。
この日(929)も日本列島の上を前線が停滞し、南の海上を台風18号が西進している関係で、前線に近い東日本も大気の状態が不安定になることが予測され、長野県地方の天気予報はここ数日ずっと「曇り時々雨」でした。この日のコースは山道でもないので途中は雨でもいいけど、せめてゴールの時くらいは雨が降らないでいてほしいなと思いながら前日に四国松山から戻りその日を迎えました。午前8時にさいたま新都心駅前を観光バスで出発した際には天気予報どおりに低い雲が垂れ込めていたのですが、小仏トンネルを抜けて山梨県に入ったあたりから空は明るくなり、途中、富士山もその雄大な姿を見せてくれました。

さすがに秋の行楽シーズンに入り、途中、トイレ休憩で立ち寄った談合坂サービスエリア(SA)ではブドウ狩りにでも行くのでしょうか、色とりどりの観光バスが停まっています。
おやっ、ポルシェやフェラーリといった「スーパーカー(古いか)」の一団が停まっています。なかなかカッコいいですねぇ~。この後、スーパーカー軍団はブロロロロという大きなエンジン音を轟かせてサービスエリアを出ていきました。
観光バスは談合坂サービスエリアを出て、一路、この日の街道歩きの出発点である茅野市を目指します。空は徐々に青空の割合が多くなり、車窓には南アルプスの山々がクッキリと見えてきました。これまでなかなか拝むことができなかった甲斐駒ケ岳も、そして八ヶ岳も綺麗に見えます。やっぱ、甲州街道ではこれらの山々が見えないと“らしく”ありません。
今回(16)は茅野市の頼岳寺の駐車場がスタートポイントでした。ここからは基本下り坂で、諏訪湖畔にある上諏訪宿、下諏訪宿を目指します。この日はゴールの下諏訪宿の中山道との合流点まで歩くというので、スタート前に全員で「全員でゴールするぞ! エイエイオーッ!!」の掛け声をかけました。
高島藩初代藩主・諏訪頼水が創建した頼岳寺はJR中央本線の線路の先にあります。頼岳寺は前回【第15回】の最後に訪れました。
頼岳寺の駐車場から国道20号線に出て諏訪湖を目指すのですが、すぐに茅野上原郵便局のところで右折して、細い道に入ります。ここは「甲州道中渋沢小路」と呼ばれる道路で、ここがかつての旧甲州街道です。JR中央本線の線路の下を潜ります。
頼岳寺の門前から伸びる道路と合流し、北へ向かいます。
旧甲州街道の証とも言うべき石塔石仏、石灯籠などが集められて祀られています。ここは甲州街道と大門峠を越えて佐久へ向かう大門街道との追分(分岐点)1つだったところだそうです。
さすがに長野県。リンゴの樹に真っ赤な実が幾つもついています。美味しそうです。
この石灯籠の下部の柱(竿と言います)の部分に「象頭山」の文字が刻まれています。象頭山とは四国の象頭山(ぞうずさん)は、香川県の西部の善通寺市に位置する山で、隣の琴平山と合わせた山の形が琴平街道から眺めた時に象の頭を思わせることから、その名前が付けられました。その象頭山(琴平山)の中腹には金刀比羅宮(ことひらぐう:通称 金毘羅さん(こんぴらさん))が鎮座していることから、この石灯籠は江戸時代に庶民の間で伊勢神宮に次ぐ憧れだった金毘羅参りを果たしたこの近隣の方が、金毘羅参りを果たした証しとして寄進したものと思われます。私はその象頭山が間近に見える香川県丸亀市の中学校と高校を卒業したので、一気に親近感が湧いてきます。
この石灯籠の柱(竿)には象頭山のほかにも「白雲山」の文字も刻まれています。この白雲山とは上野国(群馬県)にある妙義山を山の1つのことで、中腹に妙義神社があるので、その妙義神社にも参拝したということなのでしょう。さらにはそれでも足りずに「日本之總社」という文字まで刻まれています。日本にある全ての神社という意味で、大小様々な神社に参拝することを趣味のようにしていた方なのでしょう。信心深いというよりも、きっと旅行を趣味にしていた方なのではないでしょうか。こういうところにも親近感を覚えます。
火燈(ひとぼし)公園です。今はふつうの児童公園になっているのですが、「火燈(ひとぼし)」とは何か謂れのありそうな公園名です。公園に入ったところに、その説明板が立っています。その説明板によると……
「神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)のタ、頼重院の裏山、前山の峰に近い 「火とぼし場(火燈場)」で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい「麻がら」で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ「かがり火」を上げた。この鳥居火は、『太古からの仕来り』で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化15(1818)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼は、天正6(1578)の御柱年に、上社及び下社の大規模な御造営をしており、この時上社の御造営にあたった番匠(大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
鳥居火の鳥居は、笠木の長さ約100m、買の長さ約84m、脚の幅約66mという大仕け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明を、大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。 現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に、火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。 」

と書かれています。なるほどぉ〜。

頼重院です。頼重院は、諏訪大社上社の大祝(おおほうり)を代々務める諏訪氏の総領・諏訪頼重の菩提寺として創建されました。天文11(1542)、信濃国侵攻を目論む武田信玄との戦いに敗れた諏訪頼重は甲府にて無念のうちに自害。諏訪頼重の墓は甲府の東光寺にあるのですが、境内の古い石塔群の中からは諏訪頼重の供養塔が発見されています。これは諏訪一族が頼重の首を持ち帰り、この寺に埋葬して菩提を密かに弔ったものと考えられています。また境内では、武田氏に滅ぼされた諏訪頼重の凄まじい怨念が砕いたと伝わる「割石」などがあるのだそうです。
これは足湯でしょうか。さすがに温泉地・諏訪です。道路脇に何気なく足湯があります。地元の人が日常的に使っているのでしょうね。
諏訪らしさというと神社にも。神戸(ごうど)神社です。小さな祠があるだけの村の鎮守様といった神社なのですが、その四方には諏訪大社と同じように4本の御柱が立っています。


……(その2)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...