2019年8月3日土曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その13)

お昼のお弁当をいただいたので、午後の街道歩きの再開です。
ここからは松原、荒田という集落が続きます。このあたりも旧甲州街道沿いの集落らしく、落ち着いた雰囲気の歴史を感じさせる大きな家が建ち並んでいます。
石尊大権現の常夜燈です。石尊権現(せきそんごんげん)は、相模国(現在の神奈川県)にある大山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、不動明王を本地仏としています。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、相模国雨降山大山寺から勧請されて全国の石尊社で祀られました。石尊大権現、大山石尊大権現とも呼ばれます。江戸時代、大山は江ノ島と並んで江戸近郊の半ば観光地となって各地で大山講が組成され、大山詣が盛んに行われました。大山講は相模国、武蔵国を中心に安房、下総、上総、常陸、下野、上野といった関東一円から磐城、甲斐、信濃、越後、遠江、駿河、伊豆にも及んで、総講数約15,700、総檀家数約70万軒にも達したと言われています。ここにも大山講があったってことですね。しかも、かなり熱心な大山講だったようで、この常夜燈を曲がった先には大山寺から勧請された石尊神社も建てられているようです。
このあたりの現在の地名は山梨県北杜市白州町。「白州」と聞いて察しのいい方なら気づかれたと思いますが、ここにシングル・モルト・ウィスキー「白州25年」及び「白州18年」「白州12年」「白州10年」などを生産しているサントリーの白州蒸溜所があります。この白州蒸溜所はサントリーウィスキー誕生50周年を記念して、京都府にある山崎蒸溜所に次ぐ同社2つ目の蒸溜所として昭和48(1973)に設立されました。敷地内には国産ミネラルウォーターの1つであるサントリーフーズが販売する「南アルプスの天然水」のボトリング工場が併設されています。サントリーの白州蒸溜所は神宮川(濁川)に沿って広大な面積の敷地があるようで、ここからは国道20号線に面した正面玄関しか見えません。
白州町は山梨県北杜市(旧北巨摩郡)で最も西側、南アルプス、釜無川、大武川に囲まれた地域に位置し、大部分を南アルプスの山地が占めています。 甲斐駒ケ岳を源とする名水百選に選ばれた尾白川や湧水(伏流水)が点在し、ミネラルを豊富に含んだ豊かな水に恵まれているところです。その南アルプスの甲斐駒ヶ岳の伏流水があるため、台ヶ原宿には甲斐国山梨県を代表する銘酒『七賢』を販売する蔵元「山梨銘醸」がありましたが、サントリーもこの白州の水に注目したようです。お酒に弱い私も多少ウィスキーは飲むので、是非立ち寄って工場を見学してみたいところなのですが、甲州街道歩きの旅なのでそれは断念です。しかし、この日、水分補給用に持ち歩いているペットボトル入りのミネラルウォーターは、もちろんサントリーフーズが販売する「南アルプスの天然水」です。

石尊神社の鳥居です。この鳥居の先に相模国雨降山大山寺から勧請された石尊神社があります。
進行方向右側、八ヶ岳方向を見たところです。やはり雲がかかって、特徴的なその山容は拝むことができません。
荒田の集落を進みます。
常夜燈が立っています。よく見るとこの常夜燈は中段の部分のみ新しい石でできています。このような石造りの常夜燈は、単に石を積み重ねただけで、石同士を接着していないので、かつて地震などで倒壊したのでしょう。その際、中断の部分の石だけが破損してしまったのではないか…と思われます。そこを積み直す際に新しい石に替えたのではないか…と思われます。
こちらは「甲子塔」です。
松山沢川橋で松山沢川を渡ります。
松山沢川を渡ったところに道祖神が祀られています。
田圃と畑の間の道を進みます。
次に流川橋で流川を渡ります。
流川橋を渡りきったところが教来石(きょうらいし)宿の江戸方(東の出入口)です。教来石宿は江戸の日本橋から42番目の宿場です。江戸時代後期の天保14(1843)の宿村大概帳によると、教来石宿の宿内の長さは430(490メートル)。宿内人口は684人、宿内総家数は144軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠7軒。下教来石が本宿で上教来石は加宿でした。宿駅業務を行うというよりは甲斐・信濃国境の防備が主の宿場で、この先に山口関所が設けられていました。 地名となった教来石は日本武尊(やまとたける)が東征の帰りに座った石、教来石に由来していると伝えられています。村の西に教来石と呼ばれる高さ7(2.1メートル)、横3(5.4メートル)、横2(3.6メートル)の巨石があり、昔は石の上に小祠があり日本武尊を祀ってあったと言われています。現在、その祠は近くの諏訪神社へ移設されているのだそうです。日本武尊がこの石の上で休息したといわれ、村人が「経て来石(へてこいし)」と呼び、後年、「経」が「教」と誤記されて「教来石」になったと伝えられています。
石塔があります。教来石宿の入口だけに道祖神でしょうか。
宿場らしく宿内に枡形があります。まず左にほぼ直角に曲がり、すぐ次に国道20号線と合流する下教来石交差点を右に曲がります。
進行方向左手、この先に教来石宿の地名の由来となった教来石があるのだそうですが、そこまで行くのは時間の関係でパスしました。
ここに「明治天皇御小休所趾碑」が立っています。ここは教来石宿の本陣、河西家本陣があったところです。現在はその明治天皇御小休所趾碑が立っているだけで、敷地は更地になっています。
教来石宿は宿内距離も短く、国道20号線が開通する際にほとんどが取り壊されたようで、残念ながら、往時を偲ぶめぼしいものはほとんど何も残っていません。で、すぐに諏訪方の枡形になります。旧甲州街道は国道20号線を右折し、すぐに緩やかに左折します。


……(その14)に続きます。

2019年8月2日金曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その12)

白州町前沢の集落を進みます。この日の区間は旧甲州街道らしいなかなか雰囲気のいいところばかりを歩きます。
「白須松原趾」の碑が立っています。かつて北杜市松原と白須の中ほどを流れるこの神宮川(濁川)の周辺には「白須の松原」と呼ばれる長さ1(4km)に及ぶ広大な松原がありました。幾つもの老松の名木があったそうなのですが、第二次世界大戦中に松根油採取のためにすべて伐採されてしまったのだそうです。
今年90歳になる母から、第二次世界大戦中の逸話として、松ヤニなどを集め、航空機を飛ばすための燃料にしようとしていたという話を聞いたことがあります。その話を聞いた時、松ヤニで飛行機が飛ぶのかと思ったものですが、本当だったのですね。松根油(しょうこんゆ)は、マツ(松の木)の切り株を乾溜することで得られる油状液体です。調べてみると、昭和19(1944)7月、ドイツではマツの木から得た航空ガソリンを使って戦闘機を飛ばしているという断片的な情報が日本海軍に伝わりました。日本でも東シナ海の制海権を連合国軍に奪われ、南方からの原油輸送が困難な状況に陥ってしまって、燃料事情が極度に逼迫していたため、国内で同様の燃料を製造することが検討されました。当初はマツの枝や材木を材料にすることが考えられたのですが、日本には松根油製造という既存技術があることが林業試験場から軍に伝えられ、松根油を原料に航空燃料用揮発油(ガソリン)を製造することとなったようです。実際、戦前には専門の松根油製造業者も存在し、松根油は塗料の原料や選鉱剤などに利用されていたようです。国家総動員での取り組みだったにもかかわらず、松根油から航空機を飛ばせるほどのオクタン価の高い航空ガソリンを精製するためには非常に労力がかかり、収率も悪いため、残念ながら終戦までに実用化には至らなかったようです。

等高線に沿って微妙なカーブを繰り返す、いかにも旧街道と思える道を歩いていきます。かつては美しい松並木が続いていたはずの街道脇には、今は杉の木が植えられています。
ここに数本の松が植えられているお宅があります。林屋商店の古い方の建物です。少しでもかつての「白須の松原」を再現しようとされているのでしょうか。手入れが行き届いた立派な松です。
松原の集落を進みます。このあたりは第二次世界大戦後、伐採された松林の跡に開発された集落のようで、歴史を感じさせるような建物は少ないのですが、それでも築50年以上のお宅が建ち並んでいます。その中に家紋入りの土蔵を備えた家があります。庭先の草花もよく手入れされ、目を楽しませてくれます。
玉斎吾七なる人の句碑が立っています。玉斎吾七はこのあたりの地元で活躍なさっていた俳人のようです。刻まれた俳句は達筆すぎて読めません。「槍もちの おくれて通る 日長かな」と刻まれているらしいです。この甲州街道を通る参勤交代の様子を詠んだ句でしょうか。
前沢集落を進みます。目の前に見える山々は甲斐駒ケ岳から連なる南アルプスの雨乞岳(標高2,037メートル)や日向山(1,660メートル)でしょうか。雨乞岳や日向山は南アルプスの最西端に位置する山々で、初心者向けの縦走路(登山コース)として知られています。
石塔石仏群です。
前沢上交差点で国道20号線と合流し、濁川橋で濁川(神宮川)を渡ります。濁川は釜無川の支流で、南アルプス最西端の雨乞岳(標高2,037メートル)の南側山壁にある花崗岩の白ザレ(そこだけ白くてまるで雪が積もっているように見えることから水晶薙とも呼ばれています)に源を発する河川です。大雨が降ると流れが白く濁ったことから長らく濁川と呼ばれていました。しかし、後述するように、近くにサントリーのウィスキー工場が出来た時、濁川から神宮川への改名がなされました。この神宮川という命名はこの川の河原で採れた玉砂利を明治神宮の参道に献納していることからでした。この改名は地域住民の改名要望をバックに企業イメージアップを図るため、サントリーが後押しして実現したと言われています。きっと、ウィスキーに使われる水が‘濁り’というイメージでは困るという“大人の事情”が働いたのでしょう。この日の濁川(神宮川)は前日の夜にそれなりの量の雨が降ったにもかかわらず、澄んでいて、まったくの透明でした。
旧甲州街道は濁川橋を渡り終えて5分ほど歩いたところでY字路を右に入ります。Y字に分岐する2つの道の間に辛うじて松の並木が残っています。
そのY字路の先にある白州総合運動場の駐車場、そこに駐車した観光バスの車内でお昼のお弁当をいただきました。観光バスには、こういう使い方もあります。便利です。


……(その13)に続きます。

2019年8月1日木曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その11)

ここで右側の道に入っていきます。ここは台ケ原宿の諏訪方(西の出入口)の枡形になっていたのでしょう。この緩やかなカーブが、この右側の道のほうが元々の旧甲州街道であったことを物語っています。
ここから白須集落(白州町白須)に入ります。
この白須集落も歴史を感じさせる古くて立派な建物が幾つも建ち並んでいます。
中でもひときわ立派なのがこのお宅。このあたりの名主だったお宅のようです。
ここでちょっと右手にそれて寄り道。

曹洞宗の寺院、白砂山自元寺です。寺院の門前に三界萬霊塔が立っています。三界とは輪廻転生する領域を3つに大別する概念のことで、無色界、色界、欲界の3つを指します。なので、三界萬霊とはこの3つの世界、すなわち、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものです。寺院では時々この三界萬霊塔を見掛けます。
この自元寺には武田二十四将と呼ばれた武田信玄・勝頼期の重臣達のうち猛将として知られ「武田四天王」の1人に数えられた馬場美濃守信房(信春)の墓があります。

自元寺の総門は、現在の白州町白須にあった馬場美濃守信房(信春)の屋敷(通称:梨子の木屋敷)から移してきたもので、四脚門流造り、屋根は今は鉄板葺きになっていますが元は茅葺きであったと思われます。棟の前後に奥方の家の家紋である紋笹竜胆が付けられています。この総門が造られたのは信房(信春)が生涯何度か改名した中の、教来石景政から馬場民部少輔信房に改名した天文15(1546)あたりと推定されています。戦国武将の屋敷の構えが偲ばれる貴重な遺構です。
自元寺の開基は馬場美濃守信房(信春)。元亀元年(1570)、この近くの白須坊田に寺を建立したのですが、天保年間の初期に火災で焼失し、天保14(1843)、現在の地に再建されました。馬場美濃守信房(信春)は、あの織田・徳川連合軍との長篠の戦いで壮絶な最後を遂げたのですが、その墓所はこの自元寺にあり、位牌も安置されています。
戦国時代、この釜無川右岸のいわゆる武川筋は、甲斐武田家を支える家臣団の中でも精鋭部隊として「武川衆」と呼ばれた土豪集団(地域的武士集団)の本拠でした。武川衆は武田氏の支流である甲斐一条氏に連なる一族で、台ヶ原宿の南、北を尾白川、南を大武川というともに釜無川の支流に挟まれた独立丘陵である中山(標高887メートル)の山頂に中山砦という拠点を築き、甲斐国北西部(現・山梨県北杜市域)の釜無川以西、御勅使川以北地域を領地として分拠し、甲斐国と信濃国の国境防衛の任を担っていました。また、川中島の戦い等で様々な武功をあげ、戦国時代最強と言われた武田軍団の中にあって、最精鋭部隊の1つでもありました。

武田二十四将と呼ばれた武田信玄・勝頼期の重臣達の中でもひときわ猛将として知られ「武田四天王」の1人に数えられ、「一国の太守の器量人」「智恵の武将」と高く評価された武将・馬場美濃守信房(信春)はこの武川衆の一族である教来石(きょうらいし)氏を出自とし、はじめは教来石景政と名乗っていました。武田信虎(信玄の父)の時代から武田氏に仕え、武田晴信(信玄)の初陣である海ノ口城攻めに参加し、敵将・平賀源心を討つという功績を挙げたといわれています。天文10(1541)の信玄による父・信虎追放計画にも参加していたといわれています。

信玄が武田氏の当主となり、その直後から信濃国の諏訪・伊那攻めが始まると、これに参加して武功を挙げました。この武功により信玄にその才能を見出され、天文15(1546)に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを命じられ、名を馬場民部少輔信房と改めました。その後も信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げたため、永禄2(1559)には譜代家老衆の一人として列せられました。永禄4(1561)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任されたと言われています。永禄5(1562)には前年に隠退した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名し、周囲から鬼美濃と恐れられることになりました。

永禄11(1568)の駿河攻めにも参加。永禄12(1569)の三増峠の戦いでは、先鋒として後北条氏軍と戦い、目覚ましい武功を挙げました。さらに、元亀3(1572)の武田信玄による西上作戦にも参加し、信玄から一隊の指揮を任されて只来城を攻略しました。三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという華々しい武功も挙げました。

元亀4(1573)に信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐することになったのですが、山県昌景と同じく、主君・勝頼からは疎まれたといわれています。天正3(1575)5月の長篠の戦いでは山県昌景と共に何度も撤退を進言したのですが勝頼に受け容れられず、代わりに出した策も勝頼の寵臣であった長坂長閑、跡部勝資ら側近達に退けられてしまいました。

521日の設楽原における織田・徳川連合軍との決戦では武田軍の右翼の中核に兵約700人で配され、武川衆を中核とした馬場隊は丸山に陣を張った織田方主力の佐久間信盛隊6,000人と対峙。馬場隊は兵を二手に分け佐久間隊に攻撃を仕掛け、ついには10倍近い兵力で守る丸山を奪取することに成功しました。しかし元々、数で劣る味方の攻勢が長続きすることはなく、次第に崩れだした武田軍は、三枝守友(三枝昌貞)、真田信綱、土屋昌次(土屋昌続)、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景といった武田二十四将に名を連ねる名だたる有能な人材(武将)を次々と失い、戦線は崩壊し始め、勝頼は退却の決断に至りました。最後まで戦線を保った馬場隊は武田軍の殿(しんがり)を務めるべく、勝頼が退却を始めると、退路にある山あいの急峻な地形を利用してそこに陣取り、残った兵数百で迫りくる織田・徳川連合軍の大軍の追撃をよく阻みました。勝頼の姿が見えなくなり、無事に退却できたことを見届けると、この時点でも馬場信春はまだ無傷であったのですが、反転して追撃してくる織田・徳川連合軍の主力に正面から総攻撃を仕掛け、壮絶な討ち死にをしたと伝えられています。馬場信春と彼に率いられた武川衆が如何に勇猛であったかが窺える逸話です。

馬場信春は享年61歳。当時としてはかなりの高齢です。この長篠の戦いで大敗北を喫した後、戦国時代最強と言われたさしもの甲斐武田軍団も離反や裏切りが相次ぎ、弱体化し、そしてついには滅亡していくのですが、その原因としてはこの馬場信春の事例からもカリスマ武田信玄の後を継いだ武田勝頼とその側近達の血気盛んな若気が経験豊富な長老達の意見を聞かず、軍団内部に大きな溝が生まれていったことが挙げられるのではないかと容易に想像できます。

これが武田二十四将と呼ばれた武田信玄・勝頼期の重臣達の中でもひときわ猛将として知られ「武田四天王」の1人に数えられ、「一国の太守の器量人」「智恵の武将」と高く評価された武将・馬場美濃守信房(信春)の墓です。
私は還暦を過ぎて以降、この馬場信春(信房)の生き様に共感を覚えるところが大きいのですが、やっぱ、私は司馬遼太郎先生の『坂の上の雲』に登場する郷里松山が生んだ偉人、秋山好古陸軍大将が憧れ……かな?

ちなみに、「武田四天王」とは馬場信春(信房)のほかに内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(弾正:春日虎綱)4人のことです。このうち、前述のように馬場信春、山県昌景、内藤昌豊の3人が長篠の戦いにおいて討ち死にし、高坂昌信だけが勝頼期後期の天正6(1578)まで存命(51歳で病死)。近世初頭に編纂された『甲陽軍鑑』はこの高坂昌信の口述が原本になっているといわれています。なお、武田氏の滅亡後、武川衆は徳川氏に帰属し、天正10(1582)の天正壬午の乱においては中山砦を警固し、後北条氏方を相手に活躍しました。

甲州街道歩きに戻ります。甲斐駒ケ岳の山頂付近はなかなか姿を現してくれません。雲がなければ甲斐駒ケ岳の姿を間近に見られて、絶景のはずです。
旧甲州街道は緩い坂道をドンドン登っていくのですが……
台ヶ原の台地を抜け、この先にある前沢の集落へ向けて一度下って行きます。ここで低気圧の通過の影響か、帽子が飛ばされそうなくらいの強風が前方から吹いてきて、皆さん、帽子を抑えています。
坂を下り終えたところに、道祖神や題目碑といった石塔石仏群が1箇所に集められて祀られています。信濃国が近づいてきたので、道祖神も甲斐国でよく見られた球体道祖神ではなく、信濃国で数多く見られる男女の双体道祖神に替わります。
目の前に七里岩。ほぼ垂直に切り立った高い侵食崖があります。その侵食崖の際まで民家が建っています。さすがに、防災上、大丈夫なのか…と心配になります。この等高線に沿うように微妙にS字を描いて伸びる道。いかにも旧街道らしい道です。渋いです!!
ここからはまた緩い登り坂の道となります。田植えが終わった田圃を左右に見ながら、さらに進みます。やはり甲斐駒ケ岳の山頂付近は見えません。
畑の中にある武田神社です。
ここにも道祖神です。


……(その12)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...