2021年6月17日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その3)

 公開日2021/08/05

 

[晴れ時々ちょっと横道]第83回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その3

 

【9.伊予武田氏の終焉】

 

地図はクリックすると拡大されます


(その1)で述べたように、天正10311日、織田信長・徳川家康連合軍の怒涛の侵攻を受けた武田勝頼・信勝父子は笹子峠の手前の甲斐国都留郡の田野において滝川一益率いる織田軍に追われて自刃。ここに「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田氏宗家は滅亡しました。甲斐武田氏宗家を滅亡させた織田信長ですが、いまだ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国征伐の出兵準備のため安土城から京に上洛し本能寺に逗留していたところ、明智光秀の謀反に遭って燃え盛る炎の中で自害して果てました。享年49歳でした。これが甲斐武田氏宗家滅亡から3ヶ月も経っていない62日のことです。

この時期、河野氏でも大きな動きがありました。当時の河野氏は毛利氏と深い同盟関係・姻戚関係を構築していたのですが、前述の鳥坂峠の戦いの最中に急死した村上道康の家督を継いだ来島村上氏当主の村上(来島)通総が、天正10(1582)、中国攻めをしていた織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返るという重大な事態が発生しました。この村上(来島)通総の謀反は織田信長が本能寺で自刃し、羽柴秀吉が主君の仇明智光秀を討つべく全軍をもって中国路を京に向けて取って返すため毛利氏と和睦したことで、一時的に終息に向かいます。それまで村上(来島)通総は毛利氏や河野氏に攻められて本拠地・来島を追われ、一時は羽柴秀吉の元に身を寄せていたのですが、この和睦によって旧領の来島城に復帰しました。これにより、河野氏内で起きていた重大な事態もめでたく収まったかのように見えたのですが……

128日、理由は定かではありませんが、その村上(来島)通総が伊予武田氏の居城である龍門山城を奇襲しました。村上(来島)通総の軍勢450騎が夜陰に乗じて龍門山城へ攻め登り、城に火を放ちました。完全に不意をつかれた城主武田信勝は「敵は誰か、名を名乗れ」と叫びながら奮闘するも多勢に無勢。龍門山城は落城し、武田信勝は深手を負いながらも城を出て落ち延びを図るも、鮎返の滝(あいがりのたき:現在の朝倉ダム付近)にて討ち死にしたと伝えられています。これで武門としての伊予武田氏宗家は応仁の乱のグダグダの中で伊予国朝倉郷に移り住んできてから約110年で終焉を迎えます。

 

【10.伊予武田氏のその後】

討ち死にした武田信勝には5人の男子がいて、次男の清若丸は幼くして亡くなったものの、この時、4人が龍門山城で暮らしていました。この4人のうち三男の彦三郎信則(のぶのり:彦八郎信行とも。幼名不明)は落ち延びる途中の朝倉郷浅地木戸にて討ち死にしたものの、長男の真三郎信吉(幼名:富若丸)、四男の政五郎信鳳(のぶおう:幼名不明)、五男の源三郎信猶(のぶなお:幼名不明)は落ち延びることに成功します。

 

伊予武田氏の菩提寺であると同時に我が家の菩提寺でもある龍門山無量寺(今治市朝倉 水之上)です。


このうち長男の武田真三郎信吉
(幼名:富若丸。当時16)は伊予武田氏の菩提寺である朝倉 水之上の無量寺が匿って隠棲。10年間養育の後、当時の伊予国今治領113千余石の領主であった福島正則に召し出され、福島正則の推挙で水之上郷の代官(大庄屋役)を勤めました。ちなみに、大庄屋役は通常の庄屋・名主と異なり、数か村から10数か村の範囲を管轄する役職で、身分としては農民ではあるものの、一般農民よりは一段高い階層に属し、3人扶持、長く在籍すると5人扶持が与えられ、格式も武士並みに苗字帯刀が許されていたのだそうです。その屋敷に門を構えたり、母屋に式台を設けることもでき、着衣や履物にも特例が許されていました。江戸時代に入ってからも彼の子孫が代々大庄屋職を継いだのですが、明治の時代に入ってこの直系の家系(嫡系)は途切れているとのことです。ちなみに、水之上一帯は江戸時代には幕府直轄の天領であり、そのため、水之上郷の大庄屋役の家は「天領」という屋号で呼ばれていました。


この龍門保育園のあるところに、越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』家の屋敷がありました。その『天領』家の初代が、伊予武田氏第7代・武田信勝の長男の武田真三郎信吉です。

越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』家の庭園は景観優美なところで、江戸時代、今治藩主もたびたび訪れたのだそうです。現在は龍門保育園の園庭の中にあり、見ることができません。

現在、武田信勝が討ち死にした鮎帰(あいがり)の滝近くに建てられている武田信勝の墓碑は、宝暦年間(1750年)に水之上大庄屋らによって建てられたものです(この墓碑はもともとは朝倉ダムのところにあったのですが、朝倉ダムを建設する際に現在のところに移設されたのだそうです)。この武田真三郎信吉から始まる「天領」の屋号で呼ばれる水之上郷の代官(大庄屋)の家系を含め伊予武田氏代々の墓所は無量寺の境内にあり、広大だった屋敷の跡の一部は無量寺が運営する龍門保育園になっており、園庭を少し上がった高台の上に神を祀る小さな社殿が残されています。また、木陰に見え隠れする屋敷内の滝は「木がくれの滝」と呼ばれる景観優美な滝で、江戸時代、今治藩主が度々訪れ、「里山の山滝」と誉め讃えたと伝わっています。


朝倉ダムの近くにある伊予武田氏宗家最後の当主第7代・武田信勝の墓です。もともとは武田信勝が討ち死にした鮎帰の滝近くに建てられていたのですが、朝倉ダム建築時にこの地に移されました。墓碑は、宝暦年間(1750年頃)に水之上大庄屋ら伊予武田氏の子孫によって建てられたものです。


武田信勝の墓碑には討ち死にした「天正十歳()十二月八日」の日付が刻まれています。


ちなみに、この無量寺は我が家の菩提寺でもあります。無量寺の正式名称は龍門山無量寺。この寺は第
37代の斉明天皇(在位:655年〜661)が朝倉の地に僥倖なさった時にお伴の僧侶として随伴した無量上人により、現在のところよりもう少し奥に入った(龍門山城にほど近い)浅地の車無寺 (くるまんじ)というところ開創されました。本尊の阿弥陀如来像は秘仏で、聖徳太子による一刀三礼の御作と伝えられています。開創当時は三論宗で、後に真言宗醍醐派に改め今に至っています。無量上人の後を継いだ第二世の宥量上人は当時伊予国の領主であった越智玉輿の子供(すなわち、河野氏の祖とされる河野玉澄とは兄弟)で、その縁により、 以来この無量寺は長く河野家の祈願寺を務めていました。天正年間(1573年〜1593)のはじめ、当時の住職・宥実上人はこのあたりを治めていた龍門山城城主・武田信勝の外護を得て、寺を現在の場所に移転しました。また、前述のように、宥実上人は天正10(1582)に龍門山城が落城し、城主武田信勝が討ち死にしたおり、その子、富若丸(当時16)を無量寺に隠潜させ、約10年間養育し、ついに天領の大庄屋職に就かせました。この「天領」の屋号で呼ばれる大庄屋の代々の記録は『無量寺文書』、または『武田家文書』とも呼ばれ、今治市朝倉の歴史の謎を紐解く貴重な古文書として、現在もこの無量寺に残されています。私は無量寺を訪れた際、住職から『武田家文書』の話を聞き、そこで初めて伊予武田氏の存在を知り、伊予武田氏について調べてみようと思った経緯があります。


無量寺は“枝垂れ桜”が有名です。私が取材に訪れた日は枝垂れ桜が見頃を迎えていて、多くの人が見学に訪れていました。


無量寺の隣はJFAアカデミー今治になっています。このJFAアカデミー今治は、日本サッカー協会(JFA)が愛媛県今治市と連携して推進する中学校3年間を対象としたサッカーエリート教育機関で、全国4校目。中四国地方初の施設です。20143月に廃校となった今治市立上朝小学校跡地を寮として開校しました。現在は女子のみを受け入れています。


武田真三郎信吉から始まる“天領”水之上郷の大庄屋役としての武田氏ですが、当然のこととして時代を経るにつれ分家が幾つも枝分かれしていきます。その分家筋の中に私の好奇心を大いにくすぐる面白い人物がいたので、ご紹介します。その面白い人物とは武田徳右衛門。

 武田徳右衛門は、愛媛県越智郡朝倉村上乃村の生まれとされています。現在も今治市の富田地区を中心とした地域に府中二十一ヶ所霊場というものがあって、根強い信者を擁しているといわれていますが、この府中二十一ヶ所霊場の開創者が武田徳右衛門です。この武田徳右衛門のもう一つの大きな業績に四国八十八ヶ所霊場の遍路行をする人達のための遍路道の整備、すなわち、丁石(道標)の建立があります。彼は僧侶ではなく、また格別信仰心が深かったわけでもなく、元々はごく平凡な一人の農民でした。その彼の身に不幸が次々と降りかかりました。天明元年(1781)夏、長男七助が急死したのを始めとし、二女おもよ、三女おひち、四女こいそ、五女おいしと天明元年から寛政4(1792)までの11年間に、愛児一男四女を次々と失ったのです。その相次いだ不幸による悲しみの重さが彼自身を、そして彼の人生を大きく変えるきっかけとなったようです。彼がそこで出会ったものがお大師様であり、四国八十八ヶ所霊場遍路の旅だったようです。

 そして、武田徳右衛門は、寛政6(1794)に「四国八十八ヶ所丁石建立」を発願し、農繁期を除いては、ほとんどを寄付勧募と丁石建立に専念し、13年間を要して文化4(1807)に大願成就したと言われています。丁石は本来の意味では1丁目(109メートル)ごとに建てられる道標の石のことですが、武田徳右衛門の建立した丁石は1丁目ごとではなく、ほぼ1(4km)ごとに遍路道の主たる地点に建立されていました。そして、弘法大師の尊像を刻み、◯◯寺まで里と次の札所までの距離を明記していたという特徴がありました。そこには「里数がわかれば目的地(次の札所)への到着時間が予測できるし、それはまた宿の確保にも役立つだろう」という当時としては画期的なアイデアが盛り込められており、遍路道の途中の至るところにこの丁石(道標)を建立することで、お遍路さんの不安感をぬぐい去ろうとしたものであったのであろうと推定されます。これも、自ら遍路を重ねた経験から得た知恵の一つなのでしょうね、きっと。武田徳右衛門の手によって建立された丁石(道標)は、現在でも四国内で130基ほど現存しているのが確認されているのだそうです。その武田徳右衛門の墓も水之上の無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓の中にあります。


無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓です。

武田徳右衛門の墓もこの伊予武田氏一門の墓の中にあります。

討ち死にした武田信勝の3人の遺児のその後に話を戻します。四男の武田政五郎信鳳(のぶおう:幼名不明)も、おそらくどこかで匿われて隠棲したようで、成人後帰農し、龍門山城にほど近い今治市朝倉の浅地に水之上郷の代官(大庄屋役)に就いた武田真三郎信吉家の分家となっています。武田政五郎信鳳から始まる天領(屋号)”家の分家は代々今治市朝倉南(矢矧神社の近く)にある正善寺を菩提寺にしているので、もしかすると政五郎信鳳は龍門山城から落ち延びた後、この正善寺に匿われて隠棲したのかもしれません。ちなみに、この武田政五郎信鳳の直系の家系は今でも浅地にお住まいのようです。


このあたりが浅地。武田信勝の四男・武田政五郎信鳳はこの浅地で帰農し、水之上郷の大庄屋役に就いた武田真三郎信吉家の分家となりました。向こうに見える山は龍門山です。



武田信勝の四男・武田政五郎信鳳から始まる“天領”家分家代々が菩提寺にしている正善寺です。


五男の武田源三郎信猶(のぶなお:幼名不明)はまだ幼かったため、残った家族や家臣とともに周敷郡石田村(現在の西条市石田。JR玉之江駅付近)に落ち延びました。武田源三郎信猶はこの地で成人して帰農し、農家として暮らしていたようです。武田源三郎信猶の墓所は西条市石田の大智寺にあり、そこには武田信猶に始まる武田一門の墓所があります。


西条市石田の大智寺に武田信猶に始まる武田一門の墓所があります

武田源三郎信猶の墓所は大智寺のすぐ北東の場所にあります

その武田信猶の直系の孫にあたるのが武田彦左衛門信盛。武田信盛は万治元年(1658)、桑村郡古田新出(現在の西条市丹原町古田)に移り、当時の松山藩主・松平隠岐守定頼の命を受けて(松山藩は中予だけでなく越智郡や周桑郡地域にも飛び地のように幾つかの領地を持っていました)この地を開拓しました。現在、武田信盛が新田開拓した丹原町古田新出には「武田信盛頌徳碑」が建てられています。ちなみに、周桑平野の地図を眺めていると、新田新出などの地名が随所に見られます。これらはいずれも江戸時代に入った以降の近世に水田として開拓された新田集落です。


武田信盛が新田開拓した西条市丹原町古田新出にある「武田信盛頌徳碑」です。武田彦左衛門信盛は武田信勝の五男・信猶の孫で、万治元年(1658)、当時の松山藩主・松平隠岐守定頼の命を受けてこの地を開拓しました。


周桑平野は四国山地(中央構造線)、特に西日本最高峰の石鎚山(標高1,982メートル)から続く石鎚山脈と、四国山地(中央構造線)の北側に突き出した高縄山地が形成する狭隘部の西条市丹原町湯谷口を頂点とし、燧灘に向かって扇形に傾斜して二級河川の中山川によって形成された沖積平野で、山麓部には扇状地が発達し、沿岸部は広い遠浅の海岸が広がっています。ここは古来よりの穀倉地帯で、平野部の少ない伊予国においては米や麦の一大供給地でした。そのため江戸時代には、桑村郡26村と周敷郡24村が松山藩領で、残る周敷郡11村が西条藩領を経て小松藩領と領地が複雑に入り組んでいました。これは伊予武田氏が治めていた越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉)にも当てはまり、こちらは松山藩と今治藩の領地に加えて幕府直轄地である天領が複雑に入り組んで存在していました。これはそこがこうやって奪い合いをしたくなるほど米が収穫できる魅力的なところであったことにほかなりません。そのため、松山藩主としては周敷郡・桑村郡の自藩領内における米の収穫量を少しでも増やすべく、高縄山地の山麓部に広がる大明神川、新川、関屋川が形成する砂礫質土壌の扇状地の新田開拓を積極的に進めたようです。そのうち新川流域の扇状地を開拓したのが、武田信盛が開拓した古田新出ということのようです。この古田新出には今も武田信盛の末裔一族がお住まいとのことです。

この周桑郡(周敷郡・桑村郡)に残る伊予武田氏の形跡は武田信勝の五男の源三郎信猶だけではありません。龍門山城が落城した際、落ち延びる途中の朝倉郷浅地木戸にて討ち死にした武田信勝の三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓石が、西条市西部の壬生川(旧周桑郡)の本源寺にあります。その墓石に刻まれた碑文によると、建立したのは「龍門山城主 武田近江守信勝 室 河野左馬助 息女」。龍門山城が落城した際、討ち死にした武田信勝の正室、すなわち5兄弟の母が五男の源三郎信猶と一緒に周敷郡石田郷まで落ち延び、途中で討ち死にした三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓をこの本源寺に建てたのではないかと推察されます。そこから言えることは、当時の周桑郡には落ち延びてきた伊予武田氏一門を温かく迎え入れるための下地が既にできあがっていたということのようです。このあたりの考察は、この後で書きたいと思っています。

龍門山城が落城した際、討ち死にした武田信勝の三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓が西条市壬生川の本源寺にあります。建立したのは武田信勝の正室、すなわち5兄弟の母です。


愛媛県全体で見た場合、「武田」はさして多い苗字であるとは言えないのですが、伊予武田氏の居城・龍門山城のあった今治市朝倉と西条市西部の旧周桑郡地域に限っては異様と思えるくらいに多く見かける苗字です。文明3(1471)に安芸武田氏の武田信友が河野教通(通直)に招かれて瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村に移り住んで伊予武田氏を興してから550年。1代を平均25年として計算すると、その間22代です。なので、一門や武田姓を名乗ることを許された家臣団の末裔を合わせると、現在ではかなりの数になると思われます。その多くが今治市朝倉と西条市の旧周桑郡地域に集中して住んでおられるというところに歴史の“物語”を感じます。清和源氏を祖とし、あの戦国最強と言われた武田信玄を輩出した武門の名族・武田氏の名称と、『武田菱』や『割り菱』と呼ばれるシンプルながら特徴的な形の家紋を使う誇り高き一族がこの愛媛県内にも固まって暮らしていらっしゃるということを、是非知っていただきたいと思っています。

  

……(その4)に続きます。(その4)は第84回として掲載します。






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