2018年10月3日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その9)

外堀通りと江戸通りが交差する新常盤橋交差点です。


龍閑橋架道橋で何本も通っているJRの線路の下を潜ります。このあたりはJR山手線、京浜東北線、東北本線(上野東京ライン)、中央線、東北(上越、北陸)新幹線と通っているので、架道橋もそのぶん長いです。


昔、このあたりを龍閑川という人口の川(運河)が流れていて、龍閑橋という名の橋が架かっていました。


ここをその龍閑川が流れていました。龍閑川は自然河川ではなく、人口の河川、堀です。江戸時代に掘られたもので、当時は神田堀という名称でした。神田堀が開鑿されたのは明暦3(1657)の大火(振袖火事)の直後、または元禄4(1691)と言われています。

龍閑川はここからまっすぐ直線で馬喰町付近まで流れ、そこで直角に折れて浜町で隅田川に流れ込んでいました。龍閑川の元となった神田堀は日本橋川にあった、鎌倉河岸の東端から馬喰町まで東北方向に掘られた下水道でした。その後、江戸時代初期からあった浜町の入堀を拡張したものと合流します。神田堀は幅三間(5.4メートル)ほどと狭く、防火、下水としての役割に利用されました。一方浜町の入堀(浜町堀)は浜町河岸という物揚げ場が広がり、水路として利用されたようです。

神田堀はその後幕末にその役割を終え、埋め立てられます。しかしその後、明治16(1883)再び堀が開かれます。神田駅近くに神田下水という明治17(1884)に作られたレンガ造りの地下下水がありますが、その排水先として再度神田堀が注目されたようです。神田堀はその後龍閑川と名前を変え、浜町堀も浜町川という名前になります。浜町川は神田川方面にも堀進められて、明治以降に岩井河岸という物揚げ場が作られています。

その後、戦後の残土処理のため、龍閑川、浜町川はともに埋め立てられてしまいました。町の変化に振り回され続けた竜閑川ですが、現在もその流路は神田、日本橋の境(千代田区の境)となっていますし、龍閑橋、今川橋などの名称も交差点名として残っています。


竜閑橋交差点です。かつてここに竜閑橋という橋が架かっていました。長さ約8メートルほどの橋で、神田堀の両岸の町民がお金を出し合って作った橋でした。


「神田鎌倉町・鎌倉河岸」という案内看板が立っています。それによると、

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天正18(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東240万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌が築いた城塞を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長8(1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。
家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸(かまくらがし)」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦3(1657)の「新添江戸之図」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。
江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。(以下略)
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なのだそうです。江戸に最初に出来た繁華街のようです。鎌倉河岸と言えば、佐伯泰英さんの時代小説「鎌倉河岸捕物控」があり、NHK土曜時代劇「まっつぐ鎌倉河岸捕物控」と題して放映されました。



鎌倉橋を渡ります。



このあたりには江戸時代の石垣が数多く残っています。ここには荷降ろし場と荷受けのための石段が残っています。この神田界隈の日本橋川沿いには江戸城に物資を運び込むための同様の荷降ろし場(河岸)が何箇所もありました。


この鎌倉橋から神田橋付近の親水公園には神田橋御門で使われていた石垣の石がモニュメントとして展示されています。


このベンチの下に金網に囲まれて入れられている石は“グリ石”、“割栗石(わりぐりいし)”と呼ばれる石です。割栗石は岩石を割って直径12㎝~20cmくらいの小さな塊りにした石材のことで、基礎工事の際に地盤を固めるために、基礎の下に並べ、十分に突き固めるのに使用します。また、石垣の隙間を埋めるためにも用いられました。



……(その10)に続きます。




2018年10月2日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その8)


JR東京駅の八重洲北口を出て、ほんの少し東方向に歩きます。


呉服橋交差点です。現在、呉服橋は外堀通りと永代通りが交差する交差点の名称になっていますが、江戸時代、ここには江戸城の外濠に面して呉服橋御門があり、後藤橋とも呼ばれる外濠を渡る橋が架かっていました。門の外側には幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤橋の名称はこの呉服商の後藤縫殿助に由来します。また、呉服橋とも呼ばれました。この周辺は第二次世界大戦前までは地名も呉服橋13丁目と呼ばれていましたが、戦後外濠は埋められてしまい、橋と同様に地名も消失してしまいました。


この呉服橋交差点のあたりが呉服橋御門の跡です。この呉服橋御門も寛永6(1629)に東北地方の諸侯によって築かれました。ここから見える東京メトロの大手町駅の入り口あたりに御門がありました。御門の左手に先ほど訪れた北町奉行所がありました。


一石橋(いちこくばし)です。この一石橋は皇居(旧江戸城)外濠と日本橋川の分岐点に架橋され、江戸時代を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋の1つでした。北橋詰の本両替町には幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町には幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤家の援助により再建されました。そのため、後藤の読みから「五斗(ごと)」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から「一石橋」と名付けられたと伝わっています。


現在の橋は平成12(2000)に架け替えられたものですが、その前の橋は大正11(1922)に架けられた橋で、鉄筋コンクリートRC花崗岩張りの見事なアーチ橋でした(それまでは木橋でした)。橋長43m、幅員27mで親柱は4本、袖柱は8本。中央部には市電(路面電車)を通す構造で、完成の翌年の大正129月に発生した関東大震災にも耐え抜きました。この橋は関東大震災以前のRCアーチ橋としては都内最古のもので、貴重な近代文化遺産であることが認められ、平成14(2002)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されています。




この一石橋の南詰に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」なる碑が建っています。江戸時代~明治時代にかけてこの付近はかなりの繁華街で、迷い子が多く出たのだそうです。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4(1857)にこの「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられました。しるべの右側には「志()らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られていて、上部に窪みがあります。使用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたと伝わっています。この「満よひ子の志るべ」はここのほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたそうなのですが、現存するものはこの一石橋のものだけだそうです。この一石橋の「満よひ子の志るべ」は昭和17年に東京都指定旧跡に指定され、昭和58年に種別変更されて東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。


この一石橋のところでやっと外濠が姿を見せます。外濠の上を通っているのはもちろん首都高速道路です。一石橋を渡ります。


ここを流れる川は日本橋川です。日本橋川は、東京都千代田区および中央区を流れる一級河川で、下流には「日本国道路元標」がある日本橋が架かっています。東京都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分流し南東へ流れ、中央区の永代橋付近で隅田川に合流します。15世紀から17世紀にかけて数次の水利工事が行われた結果、現在の流路が形成されました。外濠の一部を形成し、現在はほぼ全流路に渡って首都高速道路の高架下を流れています。

JR水道橋駅西口近くで神田川から真南に分岐し、直後に首都高速5号池袋線の高架下に入ります。靖国通りと交差後、南東方向に流れを変え、雉子橋周辺では皇居の内堀(清水濠)に約30メートルの距離まで接近します。直後に首都高速都心環状線の高架下となります。川面が開けるのは、日本橋を通過後、亀島川が分岐してから河口に至る僅か500メートル弱でしかありません。

関東移封後、徳川家康は江戸城普請の一環として日比谷入江に直接流れ込んでいた平川を道三堀・外濠に繋ぎ替えました。この内、明治以後に道三堀の西半分と外濠(現在の外堀通り)が埋め立てられた結果、残った流路が現在の日本橋川となりました。なお、江戸幕府開幕に伴う天下普請による神田川開削で日本橋川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ外堀から切り離されていた時期もあるのですが、明治36(1903)に再びこの区間が開削され現在に至っています。

日本橋川流域は水運の便がよかったことから、江戸から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として栄えた。周辺には河岸(かし)が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わいました。現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っています。

向こうに見えている美しい石造りの二連アーチ橋が常盤橋です。


この歴史ある石積みレンガ(煉瓦)造りの重厚な建物が日本銀行本店の本館です。完工したのは明治29(1896)2月。設計者は、他に東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけた当時日本の建築学界の第一人者であった辰野金吾博士。ネオ・バロック様式にルネッサンス的意匠を加味した建築で、秩序と威厳が表現されています。外観はベルギーの中央銀行を模範に設計したと言われています。当初は総石造りとする予定でしたが、明治24(1891)に発生した濃尾大地震の被害状況から、地震が多い日本では欧米のような総石造りは無理であると判断。積み上げたレンガの外側に、外装材として石を積み上げるという方法に変更し、建物の軽量化を図りました。石の種類は、地階と1階は厚い花崗岩、2階と 3階が薄い安山岩です。これにより大正12(1923)に起きた関東大震災では、建物自体はびくともしませんでしたが、近隣の火災が日本銀行にもおよび、シンボルである丸屋根は、焼けてしまいました。現在のものはその後復元したものです。この日本銀行本店本館の建物は昭和49(1974)に、国の重要文化財に指定されました。


常盤橋を渡ります。常磐橋は、天正18(1590)の架橋と伝えられ、東京では最も古い橋の1つです。第3代将軍徳川家光の時代までは「大橋」とも、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれました。寛永6(1629)、常盤橋の前に常盤橋御門(見附)が設置され、この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられています。「常盤橋」の名称の由来については諸説あり、明確ではありません。常盤橋御門は、江戸五口のひとつ奥州道の出口で、浅草に通じていることから浅草口、あるいは追手口、あるいは大橋ともいわれ、江戸時代を通して江戸城の正門である大手門へ向かう外郭正門でした。中世には江戸と浅草を結ぶ街道(奥州街道)の要衝でもありました。江戸の交通の中心は日本橋でしたが、常盤橋から浅草方面へ繋がる江戸通りの途中には「伝馬町」「馬喰町」など運送業者に由来する名称の町が続き、大いに栄えていたことが窺えます。


江戸時代には、この常盤橋御門には木橋が架けられていたのですが、明治10(1877)に石橋に改架されました。都内で現存する最も古い石橋です。この石橋は、一部に小石川御門の枡形石垣を転用して造られた石造りのアーチ橋でした。その特徴は、大理石による八角形の親柱や唐草の意匠が施された鋳鉄の手摺柵など、同時期に築造された他の石橋にはみられない近代的石造橋の先駆けとなりました。伝統的な石造技術を基盤としつつ、西洋近代的な意匠を取り入れた最初の折衷様式の石橋でした。


しかし、手狭であったことから関東大震災後に下流に現在の常盤橋が造営されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになりました (般の字の下が皿から石に変わりました。これは皿は壊れやすいが、石だと壊れにくいという願いが込められてのことだそうです)。平成19(2007)に常磐橋(旧橋)は常盤橋とともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。


常磐橋(旧橋)は経年劣化と東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により大きく変形し、落橋の危険が生じていたため、平成23(2011)より通行禁止となっていましたが、平成25(2013)より大規模な修復工事が行われています。この修復工事の工事期間は平成28112日~平成301228日となっていて、今年の年末には美しい石造りの2連アーチ橋を見ることができそうです。橋の向こう側には御門の石垣が現存しています。石垣の高さが高く、常盤橋御門の立派さが窺えます。橋詰に北町奉行所があったこともありました。



常磐橋のたもとに明治時代の偉大な実業家・渋沢栄一の像が立っています。渋沢栄一は天保11(1840)213日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びました。「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。栄一は27歳の時、第15代将軍となった徳川慶喜の実弟で後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学したほか、欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。


明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。明治6(1873)に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったと言われています。渋沢栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら昭和6(1931)1111日、91歳の生涯を閉じました。


……(その9)に続きます。

2018年10月1日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その7)

JR東京駅八重洲北口の横に遠山の金さんこと、名奉行・遠山金四郎景元で知られる「北町奉行所」の跡を示す碑が建っています。TVドラマの『遠山の金さん』で、番組の終了間近になって悪人達のほぼ全員が金さん一人の手によって気絶させられ、その気絶した悪人達を同心達が捕縛するため「御用だ!!御用だ!!  北町奉行所だ!!  神妙にせぃ!!」と言いながらその場に駆けつける。後日、その捕縛された悪人達がお白洲に曳き出され、吟味に掛けられるのですが、奉行の遠山金四郎景元が「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座ぁ~!!」の掛け声と太鼓の音と共に登場するところがこの北町奉行所でした。



遠山金四郎景元は寛政5(1793)、長崎奉行を務めた知行500石の旗本・遠山景晋の長男として生まれました。なので、大岡越前守忠相より100年ほど後の時代に活躍した人物です。天保8(1837)に作事奉行、天保9(1838)に勘定奉行(公事方)を経て、天保11(1840)に北町奉行に就任しました。遠山金四郎景元が北町奉行に就任した天保11(1840)に第11代将軍・徳川家斉が亡くなり、翌天保12(1841)からは(享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つと呼ばれた)幕府財政の再興を目的とした「天保の改革」が始まり、遠山金四郎景元も町奉行として老中首座の水野忠邦のもと、江戸市中においても華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止して、風俗取締りを強化していきました。しかし、遠山金四郎景元は町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対、南町奉行の矢部定謙と共に老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立するようになりました。このため、南町奉行の矢部定謙は失脚、遠山金四郎景元も天保14(1843)2月、僅か3年で北町奉行を罷免され、大目付になりました。大目付への就任は表向きは栄転であり地位は上がったのですが、当時は諸大名への伝達役に過ぎなかったため実質的に閑職でした。結局「天保の改革」は失敗、遠山金四郎景元が北町奉行を罷免された同天保14(1843)9月に老中水野忠邦が罷免。弘化2(1845)3月、遠山金四郎景元は南町奉行として返り咲きました。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例のことです。南町奉行は嘉永5(1852)に隠居して家督を嫡男の景纂に譲るまで続けました。遠山金四郎景元と言うと北町奉行のイメージが強いのですが、実は務めたのは南町奉行のほうが長かったのです。

TVドラマの『遠山の金さん』では、北町奉行、遠山金四郎景元が裁きの途中でそれまでの謹厳な口調とはガラリと変わった江戸言葉で、「やかましぃやい! 悪党ども!!  おぅおぅおぅ、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがってこの桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」と一喝しながら片肌脱ぐと、そこには桜吹雪の彫り物がってのがお約束の定番になっているのですが、これはあくまでも後世の人が講談や歌舞伎、小説、映画やテレビの時代劇で作り上げられたフィクションに過ぎません。

実際、遠山金四郎景元が北町奉行としてTVドラマで描かれているような名裁きをしたという具体的な記録はほとんど残っていません。そもそも前述のように江戸時代は現代のように三権分立が確立していない時代で、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅していました。南町奉行所のところでも書きましたが、言わば町奉行は東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であって、現在でいうところの裁判官役を行うのは、町奉行の役割の一部でしかありませんでした。ましてや天保の改革の真っ最中。なので、激務の合間に自ら潜入捜査を行い、事件の真相と黒幕を突き止める…なぁ〜んてこと、とてもじゃあないけど、できるような話ではありませんでした。やったとしたら、大都市江戸の行政が滞ってしまって、大変なことになった筈です。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施に反対し、南町奉行の矢部定謙と共に老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立する姿は江戸の町民に好感をもって迎え入れられ、江戸の町民の側に立った名奉行として謳われるようになり、数々のエピソードが創作された…と想像できます。また、当時から裁判上手だったという評判は残されており、名裁判官のイメージの元になったエピソードも幾つか存在します。

ただ、遠山金四郎景元は青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたという伝聞が残っています。これが有名な「桜吹雪」に繋がります。大岡越前守忠相は大岡家の四男、遠山金四郎景元は長男ではあったものの遠山家の分家の長男。どちらも平時であれば出自としては偉くなるような人物ではなかったので、若い頃は武家の子息としてはかなりのヤンチャなことをやっていたようです。庶民と交わることで、庶民の暮らしぶりや苦悩を知り、その時の経験が町奉行になってから活かされ、名奉行と呼ばれるまでになったのではないかと想像されます。加えて、大岡越前守忠相は享保の改革、遠山金四郎景元は天保の改革…と、大きな変革を要する時期だったからこそ、この2人が町奉行という江戸幕府にとって重要な役職を託されるに至ったのではないかと思います。そういう意味で、江戸幕府は人材登用において、かなり進んだ組織だったように思えます。

それにしても、そんな限られた人数で、当時世界最大の大都市だった江戸行政・司法全般を担っていたとは。見方を変えると、それだけ当時の江戸って治安が良かったってことなのでしょうね。打ち首獄門の死刑囚に対しても処刑前にその姿を晒す「晒しの刑場」が日本橋のところにあったり、市中引き回しの上…なんて面倒くさいこともやったりしたのも、悪いことをするとこうなるよ…ということを民衆に知らしめるということで、治安の引き締めを行ったということなのでしょう。ある意味合理的で、素晴らしいことだと私は思います。

まったくの余談ですが、TVドラマ『遠山の金さん』で主人公の北町奉行・遠山金四郎景元を演じた俳優さんは中村梅之助さん、市川段四郎さん、橋幸夫さん、杉良太郎さん、高橋秀樹さん、松方弘樹さん、松平健さん、さらには最近ではスペシャル番組でTOKIOの松岡昌宏さんなどがいらっしゃいますが、私は断然松方弘樹さんが好きでした。なんと言っても、遊び人の金さんとして松方弘樹さんが一番粋でしたし。

さらに余談ですが、私が大好きだった藤田まことさん主演のTVドラマ『必殺仕事人』シリーズ。その中で藤田まことさんが演じた中村主水(なかむらもんど)は北町奉行所の定町廻り同心という設定でした (すなわち、ここが勤務先だったのですね)。定町廻り同心とは江戸の町奉行所配下の役人の名称で、同じく江戸市中を巡回して警備と犯人の探索逮捕を行う臨時廻り、隠密廻りとともに「三廻り」と総称された捕り物(警察)の花形でした。通常江戸を4コースに分け、中間(ちゅうげん)1人と23人の岡引(おかっぴ)きを引き連れて歩き、髷(まげ)を小銀杏(こいちょう)に結い、竜紋裏の黒羽織を着流して、腰に大小と朱房(しゅぶさ)の十手を背中に挟んでいました。途中各所の番所(木戸番、自身番)に立ち寄り、事件および懸案事項の有無を尋ね、必要とあれば犯人逮捕に向かいました。

定町廻り同心は江戸では6名で組織し、南北両町奉行所あわせて12人の同心で勤めていました。広い江戸市中の取り締まりをこの少ない人数で行うことは困難なことで、実際の取り締まりは同心の支配下にあった岡っ引や地域におかれた番所(木戸番・自身番)などが担っていたようです。劇中では中村主水は典型的な「昼行灯」として描かれていましたが、まぁ〜、激務このうえない役職だったわけで、“裏稼業”をやってる時間などなかったのではないでしょうか。南北両奉行所が月替りで業務にあたっていたので、裏稼業は非番の月にでもやっていたのでしょうかねぇ〜?

また、中村主水は仲間からは主に「八丁堀」と呼ばれていました。現在、東京メトロ日比谷線とJR京葉線に八丁堀駅がありますが、そのあたりの地名です。当時は現在の八丁堀から日本橋茅場町、日本橋兜町までを含めた広い範囲を通称して八丁堀と呼んでいました。神田と日本橋との境界となっていた堀の長さが約8(873m)あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀の名称に由来して町名がつけられたのだそうです。江戸時代の初期には、この一帯には多くの寺が建立され、寺町を形成していたのですが、寛永12(1635)、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられ、その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになったといわれています。中村主水も八丁堀組屋敷に住んでいる設定になっていたということのようです。

『必殺仕事人』シリーズは現在も続いていて、主人公の渡辺小五郎役を、大岡越前同様、俳優の東山紀之さんが演じておられます。この渡辺小五郎は中村主水に似た設定になっていますが、架空の本町奉行所の同心ということになっています。今年(2018)17日に放映されたスペシャルドラマ『必殺仕事人2018』には藤田まことさんも久々に中村主水役でビデオ出演なさっていました。ちなみに、藤田まことさんは2010年に76歳でお亡くなりになっています。

それにしても、主にエレキギターやトランペットが軽快に主旋律を奏でる『必殺仕事人』シリーズのオープニングテーマ曲や劇中曲はどれも実に素晴らしい名曲揃いでした。聴いているだけでテンションが上がってきます。作曲は平尾昌晃さん。さすが、いい“仕事”をなさっておられます。

加えて、『大岡越前』、『木枯らし紋次郎』、『水戸黄門』もそうでしたが、芥川隆行さんの独特の節をつけたナレーションがとにかく秀逸でした。実は私、時代劇って大好きなんです。

北町奉行所の東方には寛永13(1636)に築かれた江戸城の外堀がありました。現在この地域の外堀は常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残るだけですが、JR東京駅周辺は昭和30年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名称などに名残りを留めている程度です。北町奉行所も約2,560坪の広大な敷地があったようで、JR東京駅の東にあり外堀通りに面する丸の内トラストタワーN館にも北町奉行所跡の碑があり、かつて存在した外堀をイメージした石積みが再現されています。その一部には鍛冶橋門(東京駅八重洲南口)周辺で発見された堀石垣を使用し、ほぼ当時のままの形で積み直しています。石垣石の表面には、築かれた当時の石を割った矢穴が見られます。またその北町奉行所跡には敷地の北東部の溝から発掘された角を削り面取りした石が展示されています。これは風水的に屋敷の鬼門にあたる艮(うしとら:北東)の方角を護る呪術的な意味が込められていると言われています。

この北町奉行所は元々は常盤橋御門内にあったのですが、この呉服橋御門内に移ったのは文化3(1806)のことです。それ以前にこの場所に屋敷を構えていたのは、『忠臣蔵』で赤穂浪士に討ち入りをされた高家旗本の吉良上野介義央でした。『忠臣蔵』で赤穂浪士が討ち入ったのはこの「江戸城外濠内濠ウォーク」の【第1回】のスタートポイントであった両国に近い本所松坂町の吉良邸でした。ですが吉良上野介義央が本所松坂町の屋敷を幕府から拝領して吉良家の上屋敷としたのは、浅野匠頭守による殿中刃傷事件があった半年後後の元禄14(1701)93日のことで、それまでの屋敷はここにありました。この吉良邸の本所松坂町への移転は、江戸幕府によって計画的に行われたという説が有力となっています。時系列で振り返ってみますと……

江戸城松の廊下において播磨国赤穂藩藩主・浅野匠頭守長矩による殿中刃傷事件があったのは元禄14(1701)314日の午前10時過ぎのこと。浅野匠頭守長矩は事件から約3時間後の午後150分頃に奏者番であった陸奥国一関藩主・田村建顕の芝愛宕下にあった屋敷にお預けとなり、午後610分頃、幕府より即日切腹・改易の沙汰が下され、田村邸で切腹しました。この間、浅野匠頭守長矩に申し開きの機会も与えられませんでした。これは第5代将軍・徳川綱吉が朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに激怒し、加害者である浅野匠頭守長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決したとされています。

その半年後の元禄14(1701)93日に、江戸城に近い呉服橋御門内のこの場所にあった吉良邸を、江戸郊外の本所松坂町に移転させたわけです。これには幕府による謀略の跡が垣間見えます。幕府は赤穂浪士たちの吉良邸討ち入りに関して黙認を決め込んでいたとしか思えません。「どうぞ、吉良邸に討ち入って下さい」といわんばかりの対応です。

外濠の内側、江戸城に近い呉服橋御門内で討ち入り騒動が起きたとなれば、幕府の治安維持の姿勢が疑われますし、権威の失墜にも繋がります。また、浪士たちが討ち入りした場合の火事の発生も心配でした。そのぶん、討ち入りの場所が隅田川を両国橋で渡った先の本所松坂町ならばその心配はありません。遠かったためと言い訳もききます。実際、当時、吉良邸の隣に屋敷を構えていた阿波国富田藩・蜂須賀家は浪士たちが吉良邸に討ち入った時の対処方法を幕府に尋ねているのですが、幕府は「一切かまわずに、自邸を守るように」と答えているのだそうです。

刃傷事件のとき、幕府は吉良に肩入れしたのにもかかわらず、手のひらを返したようなこの吉良に対する薄情とも言える対応を、何故幕府がとったかというと、

①江戸城松の廊下における播磨国赤穂藩藩主・浅野匠頭守長矩による殿中刃傷事件の背景には吉良上野介義央の今で言うところのパワーハラスメントがあったのではないか…ということは広く知られることとなり、刃傷事件に対する幕府の裁定が、あまりにも性急で不公平な裁定であったため、世間の評判が極めて悪かったこと。
②生類憐みの令や貨幣改鋳などの幕政に対する不満、災害の続発により社会不安に拍車をかけていたこと。
③大名取り潰しによってただでさえ江戸の町には行き場を失った浪人が溢れかえっており、不満や不安が渦巻く社会の中で、浪人たちが結集して幕府に歯向かうとも限らないと危惧されたこと。

などが挙げられます。これらのことから幕府はこれ以上の反発を招きたくなかったわけですが、世間の赤穂浪士たちの同情に反比例して、世間の幕府に対する評価は下がる一方でした。これには幕府も焦っており、このまま吉良に肩入れを続ければ、幕府に対する世間の不満はますます増大するのではないかと危惧したのでしょう。ゆえに幕府は吉良を見捨てることに方針転換したと考えられます。吉良は幕府に対する世間の不満を解消するためのスケープゴードにされたのではないでしょうか。

幕府は浪士たちが吉良上野介を襲撃することはうすうす感づいていたようです。家老の大石内蔵助が先頭に立って進めていた浅野内匠頭の弟・浅野大学による浅野家再興の願いが叶わず、その後、浪士たちが続々江戸に集結していることを幕府が事前に察知していない筈はありません。それにもかかわらず、幕府は浪士に対する警戒を特に強めてはいませんでした。そして、運命の元禄151214(西暦では1703130)を迎えることになるわけです。

余談が思いっきり長くなってしまいました。北町奉行所の項、「これにて一件落着!  …です。


……(その8)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...