2018年9月19日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第5回:虎ノ門→浜離宮】(その3)

かつての銀座の象徴であった柳並木を復活させようとしているのでしょう、まだまだ若い柳の木が立ち並ぶ御門通りを歩きます。


芝口御門跡の碑が立っています。先ほども書かせていただきましたが、その説明書きに書かれていることを以下に書き写します。

「ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には昭和39年まで新橋が架かっていました。宝永7(1710)、朝鮮の聘使の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづき、我が国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現在、外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋に改称されました。城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9(1734)正月に焼失して以来再建されず、石垣も撤去され、芝口橋はもとの新橋の旧称に復しました。

昭和5210月 中央区教育委員会 」


首都高速道路の新橋出入り口のあたりに「三十間堀跡」の碑が建っています。かつてここから首都高速道路の新京橋出口付近にかけて三十間堀川(さんじっけんほりかわ)という河川(外濠の1)が存在していました。現在の中央通りと昭和通りの間にあたり、外濠(汐留川)と京橋川をほぼ直線で繋いでいました。川幅が約30(55メートル)もあったため、「三十間堀」と呼ばれていました。

三十間堀川は慶長17(1612)に江戸の舟入堀を整備するために、西国大名に工事を命じて開削された運河(人口の河川)で、江戸前島の東の海岸線を利用して造られました。周辺には舟運の荷揚げ場として河岸地があり、近年に至るまで物品を輸送する商船や屋形船などで大変賑わっていたといわれています。昔の江戸の地図を見ると、堀に沿って肥後国熊本藩細川家や備中国松山藩板倉家、下総国佐倉藩堀田家、伊予国吉田藩伊達家、近江国膳所藩本多家等の大名屋敷が建ち並んでいました。また、川の両岸は全体が西豊玉河岸、東豊玉河岸という荷揚げ場となっていました。


このように江戸時代には舟運の荷揚げ場として大いに栄えた三十間堀川でしたが、第二次世界大戦後、東京の中心地である銀座に残された空襲の瓦礫処理を急ぐよう連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から東京都へ命令があり、都は手近な三十間堀への残土投棄を決定しました。昭和23(1948)6月から埋立が始まり、翌昭和24(1949)7月には埋め立てが完了し、水路としての三十間堀川は完全に消滅してしまいました。戦前の三十間堀川を撮影した貴重な航空写真を今回もガイドを務めていただいた大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんに見せていただきました。

外濠から三十間堀川が分岐するところには今は昭和通りと交差する「蓬莱橋交差点」があります。蓬莱橋は古くは汐留橋と呼ばれていた木橋でした。明治7(1874)に蓬莱社の資金で石橋に改架され、蓬莱橋と名付けられました。蓬莱社は、明治6(1873)、征韓論を主張して敗れ下野した旧土佐藩士・後藤象二郎を中心に士族たち、島田組・鴻池組などの関西商人、上杉・蜂須賀などの旧大名など後藤象二郎の幅広い人脈によって設立された会社で、金融・為替業および高島炭鉱経営の他、海運業、洋紙製紙業、近代的機械精糖業、神岡鉱山の経営など…と幅広く業務を手がけたのですが、経営は不振で明治9(1876)に僅か3年半ほどの期間で倒産してしまいました。蓬莱橋も関東大震災で被災し、震災復興橋梁として昭和4(1929)RCアーチの眼鏡橋として架け替えられ、さらには昭和35(1960)から始まった外濠の埋め立てによって廃橋となってしまいました。


ちなみに、明治5(1872)に日本最初の鉄道路線の起点の駅として開業した旧新橋停車場(初代・新橋駅)はこのあたりにありました。長らく東京のターミナル駅として機能していたのですが、大正13(1914)に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止されてしまいました。駅構内が広大だったこの初代・新橋駅は貨物駅として再使用されることになり「汐留駅」と改称され、それち同時に、電車線(山手線)の駅であった烏森駅が、2代目の新橋駅に改称されました。

蓬莱橋を渡った先、旧新橋停車場(初代・新橋駅)があったところには、次に訪れる浜離宮庭園に面して、かつては陸奥国仙台藩伊達家の上屋敷、同じく陸奥国会津藩松平家の中屋敷、京都所司代を務めていた播磨国竜田藩脇坂家の上屋敷等の江戸藩邸がありました。また。蓬莱橋のこちら側には豊前国中津藩奥平家の上屋敷がありました。

外濠のうち蓬莱橋から浜離宮庭園に向かう海岸通りの高速道路の高架下の部分が汐留川と呼ばれていました。ここに変な形のビルが見えます。建築家の故・黒川紀章氏が設計した「中銀カプセルタワービル」で、昭和47(1972)に竣工した世界で初めて実用化されたカプセル型の集合住宅(マンション)です。鳥の巣箱を積み重ねたような特異な外観は、ユニット工法によるマンションという設計思想を明確に表現したということで、そのデザイン性が専門家の間では高く評価されているのだそうです。私はその方面のセンスはいっさいないので、よく分かりません。ただ奇抜な…ってだけにしか映りませんし、住みたいとも思いません。おぉ〜っと、ここには今も人がお住いのようです。


ここに「検査業務開始の地」という碑が立っています。碑の説明文には「明治9(1876)617日、この地に工務省電信寮の碍子試験場が発足して、電信用碍子の電気試験が行われた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである」と書かれています。昭和516月にこの碑を建てたのは郵政省と日本電信電話公社。当時の電電公社検査部ですね。昭和51年当時、電電公社の技術局という部署でディジタル伝送装置の導入を担当していた私は、いっつもその検査部から新たに導入する伝送装置の検査手順書と検査基準書の提出を急かされていた記憶があります。


おや? 中銀カプセルタワービルから海岸通りを少し進んだところに、線路もないのに踏切の信号機が立っています。「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」という表示が立っています。


この信号機は、昭和6(1931)から昭和62(1987)131日までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場との間を結ぶ貨物引込線の踏切用として使用されていた信号機なのだそうです。最盛時には、1150輌に達する貨物車がこの踏切を通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅の廃止と共に引込線も撤去されることになりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになったのだそうです。

「保存理由」に関する説明書きが立っています。それによると…、

< 保存理由 >
「元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架かっていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3(1914)、東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運送のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。都民の暮らしの台所を支えてきたこの信号機を、国鉄廃止に当たり捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。
  昭和62年(1987年)12月  銀座御門通り会  銀座金春通り会 」

なるほどぉ〜。



浜離宮庭園に向かう角が汐先橋の交差点です。ここも昭和351960)からの埋め立てによって外濠(汐留川)が埋め立てられているので、橋は残っていません。江戸時代に描かれた地図にも橋が架かっていた記録が残っています。波切橋との表記も見られます。名前の由来は汐留橋よりも海に近い橋だったからと推察されます。

ここから外濠(汐留川)は浜離宮庭園の北西側に沿っている水路のような形で残っています。汐留川は浜離宮庭園に沿って浜離宮庭園の南西側を通り隅田川に合流します。浜離宮庭園の北東側に沿って隅田川に真っ直ぐ流れている川は築地川になります。築地川の右岸が徳川将軍家の別邸であった浜離宮庭園で、左岸は徳川御三家の1つ、尾張国名古屋藩徳川家の広大な蔵屋敷があり、その奥に山城国淀藩稲葉家の中屋敷、安房国館山藩稲葉家の上屋敷、伊勢国長島藩増山家の中屋敷があり、その跡地が現在の東京中央卸売市場(通称:築地市場)となっています。


浜離宮庭園の入り口の築地川に架かる2連のアーチ橋が大手門橋(浜大手門橋)です。浜離宮庭園が徳川将軍家の浜御殿だったことから大手門橋となっています。昔の大手門橋は大正12(1923)の関東大震災の際に焼失し、現在の橋は関東大震災の翌年の大正13(1924)に架けられたものです。




……(その4)に続きます。

2018年9月18日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第5回:虎ノ門→浜離宮】(その2)

全国の「◯◯銀座通り」の発祥の地とも言える銀座中央通りの一筋西側に「金春通り」という通りがあります。「金春」と書いて「こんぱる」と読む珍しい名称の通りです。この「金春」という珍しい名称は、江戸時代、ここに幕府の儀礼に深く関わる能楽の金春流の屋敷があったことに由来します。江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、なかでも最も歴史のあり筆頭格であった金春家は室町時代以来繁栄し、江戸時代初期から観世太夫とともに江戸で能を演じていた名家でした。金春家が寛永4(1627)に幕府より拝領した屋敷が現在の銀座8丁目にありました。

金春家の屋敷は安永9(1870)頃に麹町善国寺谷(現在の千代田区麹町)に移転されたのですが、その後、幕末の頃には現在の銀座7丁目と8丁目の西側の辺りは一大歓楽街となり、「金春芸者」の名が知られるようになります。ここが一大歓楽街になった背景には、能役者・金春家の存在があります。能役者は幕府御用達の町人として一般の町人とは別格の扱いを受けていました。しかし、能役者は武士ではないので、拝領地に町人を住まわせてはならないという決まりもなかったようで、能役者の貸長屋には町人が住むようになりました。しかも、能役者は若年寄の直接支配を受けなかったので、次第に芸者が住むようになり、芸者置屋や料理屋が集まり花街として発展したといわれています。彼女達は唄や舞などの芸に秀いで、おもてなしの才能にも長けていたことから、江戸芸者の草分けの「金春芸者」として生業をはじめ、金春通りは昭和40年代まで多くの芸者の集る花街として賑わいました。


余談ですが、金春通りのある銀座78丁目あたりの芸者が「金春芸者」と呼ばれました。さらに銀座4丁目の松屋の裏手にいた芸者が「銀座芸者」、並木通りにいた芸者が「鍋町芸者」と呼ばれ、これらを総称して「新橋芸者」と呼ぶようになりました。これら新橋芸者衆の芸事の発表の場として造られたのが「新橋演舞場」です。

この金春通りの花街で、明治の末期から金春芸者の間で流行した色が「金春色」です。青色に緑がかった色で、正式には「新橋色」という日本の伝統色に指定されており、金春通りの銘板にもシンボル色として使用されています。そういうこともあり、金春屋敷なき後も、この地にその名を留めているわけです。長さおよそ130メートルほどの今では極々普通の裏通りなのですが、江戸情緒を残す「銀座の最後の砦」と言われている由緒ある通りなのです。


ここに煉瓦(レンガ)でできた小さなモニュメントが立っています。ここは明治6(1873)に日本で一番最初の煉瓦街ができたところで、それを記念して建てられたモニュメントです。この銀座と築地の一帯は、明治5(1872)2月、和田倉門付近から出火した火事により、約95ヘクタールを焼く大火が起こりました(銀座大火)。ここ銀座は鉄道の起点で東京の表玄関である新橋に近いこともあり、この銀座大火の復興にあたって明治政府は西洋流の不燃都市の建設を目指しました。焼失地域の道路の幅は拡げられ、大火の翌年の明治6(1873)には拡幅された大通り沿いに英国ロンドンのリージェント・ストリートをモデルとした洋風2階建て建築の家々が建ち並ぶ延べ約10kmに亘る稀有で壮大な煉瓦街を造り上げられました。


残念ながらこの煉瓦街は大正12(1923)91日に発生した関東大震災により崩壊・焼失してしましたが、昭和63(1988)に幻と言われた煉瓦街の遺構が発掘され、江戸東京博物館に収蔵されました。この遺構が、かつての金春屋敷跡内で発掘されたことを重要視し、あえてその収蔵遺構の一部をゆかりの金春通りに建立したのが、この「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」です。日本で建設された煉瓦街はこの銀座と丸の内の2箇所だけです。なので、ここは貴重な煉瓦街の跡なのです。


現在、中央区には10軒の公衆浴場(銭湯)が残されており、そのうちの1軒が、この金春通りにある「金春湯」です(この写真では通りの左側に金春色の看板がチラッと見えています)。銀座に今でも銭湯が残っていること自体非常に珍しいことですが、創業が江戸時代末期の文久3(1863)ということで、155年もの歴史を持つことに驚かされます。昭和32(1957)に現在の建物に改築されましたが、江戸時代から存続している都内の老舗銭湯3軒の内の1軒で、その意味で重要文化財級の銭湯と言えます。


銀座8丁目の交差点です。ここで交差する中央通りがかつての江戸五街道の1つ「旧東海道」です。


江戸時代にこのあたりに芝口御門があったことは前述の通りです。芝口御門は宝永7(1710)に朝鮮からの聘使の来日に備えて、我が国の威光を顕示するために旧東海道に設けられた御門です。同年に高輪大木戸を設け東海道の表門としたので、その内門のような門でした。幸橋の下流に架かる芝口橋を渡り冠木門から枡形に入るあたりは、現在の銀座8丁目の中央通りの交差点になっています。汐留川の芝口門に架橋された橋は当初は新橋(あたらしばし)呼ばれていたのですが、のちに芝口橋と改称されました(土橋より新しくできた橋だから新橋と呼ばれたのだそうです)。芝口御門は15年後の享保9(1734)に焼失して以来再建されず、石垣も撤去され、芝口橋はもとの新橋の旧称に戻りました。この橋が現在の新橋の地名の発祥の地となっています。

その「新橋」の親柱が残されています。これは江戸時代の木橋であった「新橋」が明治32(1899)に単アーチ鉄橋となり、さらに大正14(1925)に同型のコンクリート橋に架け替えられたときの親柱です。昭和39(1964)に外濠を埋立てて橋を撤去した際に親柱をモニュメントとして残したのだそうです。



その新橋の親柱の横に「銀座柳の碑」が立っています。この碑は昭和7(1932)に公開された五所平之助監督、田中絹代さん主演の松竹映画『銀座の柳』にちなんで建てられたものです。碑には四家文子さんの歌った同名の主題歌(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)の歌詞が刻まれています。


映画にもなったように柳は昔から銀座の象徴でした。『銀座の柳』だけでなく、昭和4(1929)に公開された映画『東京行進曲』の主題歌(作詞:西條八十、作曲:中山晋平、歌:佐藤千矢子)にも「昔恋しい銀座の柳……♪」と歌われていますし、今も東京ヤクルトスワローズの応援歌として親しまれている「ハァ 踊り踊るなら チョイト 東京音頭……♪」で始まる昭和8(1933)発表の盆踊りの定番曲『東京音頭』(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)にも「ハァ 花は上野よ チョイト 柳は銀座 ヨイヨイ……♪」という歌詞があります。さらには、昭和11(1936)発表の『東京ラプソディ』(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、歌:藤山一郎)は「花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で……♪」という歌詞で始まります。

この銀座の象徴である柳は、明治7(1874)、銀座大火の復興にあたって明治政府が推し進めた西洋流の不燃都市の建設の一環として、銀座通りに日本初の街路樹として、松、カエデ、桜が植えられたことが発祥です。その後、明治10(1877)、このあたりの地下水の水位が高いために松や桜が次々と枯れてしまったため、全面的に柳に植え替えられました(初代柳の誕生)。明治17(1884)には銀座の街路樹はほとんど柳に変わりました。


大正12(1923)の関東大震災により銀座一帯は大火に見舞われ、柳の木もほとんど焼失してしまいました。その後、一時、イチョウに植え替えられてしまったこともあったのですが、前述の昭和4(1929)の「東京行進曲」の大ヒットで、朝日新聞社や地元有志などの寄贈により柳が植樹されました(2代目柳)

昭和20(1945)、第ニ次世界大戦の戦災により、その柳はほぼ焼失したのですが、終戦後の昭和23(1948)、銀座通り連合会の有志により焼失した柳を補植されました(3代目柳)

しかし、昭和29(1954)頃から戦渦を免れた柳が枯死するようになり、昭和34(1959)、東京オリンピックの開催が決定してからのビル建設などによる環境の変化により、柳の枯死が目立つようになってきました。そして、昭和43(1968)、銀座通りの大改修工事の開始及び柳の衰弱が著しいために、銀座の象徴だった柳は全面的に撤去されてしまいました。残った柳は日本各地に「銀座の柳」として移植されたり、接ぎ木されたりして、その遺伝子の維持が図られています。

「銀座の柳二世」という表示があります。この木は昭和43(1968)に銀座の柳が全面的に撤去された際に移植された柳の枝を銀座の有志が持ち帰り、接ぎ木して、二世柳として復活させたものだそうです。


銀座8丁目の交差点の角にある日本最大の玩具店「博品館」です。現在は博品館TOY PARK本店として10階建てのビルになり、地下1階~4階が玩具売場、56階がレストラン街、8階には博品館劇場が設けられています。この博品館は明治32(1899)、「帝国博品館勧工場」として、この地に創業されたもので、時計塔つきの派手な洋風の外観もあって好評を博しました。当時の写真が残っていて、見せていただきました。昔からここは玩具の殿堂だったようです。

この帝国博品館勧工場、大正10(1921)にはエレベーター付きの4階建てのビルに改築されたのですが、昭和5(1930)に一度廃業してしまいました。その後、戦前は著名なカフェーであった「銀座パレス」、戦後は福富太郎の率いる著名なキャバレーチェーン「ハリウッド」の本店「銀座ハリウッド」などがこの地で営業したのですが、昭和53(1978)、創業80年を期に現在の10階建てビルを新築し、玩具店『博品館TOY PARK』として営業を再開、55年ぶりに由緒ある「博品館」の名称が復活しました。



……(その3)に続きます。

2018年9月17日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第5回:虎ノ門→浜離宮】(その1)


811()、『江戸城外濠内濠全周ウォーク』の第5回に参加してきました。今回は前回のゴールだった虎ノ門の金刀比羅神社を出発して、浜離宮(江戸城別邸 浜御殿跡)まで歩きます。今回は距離は短いものの、浜離宮という名所を訪問するので楽しみです。今年の夏は記録的な猛暑。この日もよく晴れて、強い夏の日差しが容赦なく照りつけてきます。とにかく暑い!! なので、熱中症が怖くて、炎天下、長い距離を歩くのは大変に危険です。このくらいの距離がちょうどいいとも言えます。


虎ノ門交差点を霞ヶ関方向に渡ります。


登録有形文化財に指定されている昭和8(1933)に建設された文部科学省(旧文部省)の旧庁舎です。霞が関に現存する庁舎としては法務省赤レンガ棟(法務省旧本館)に次いで2番目に古い建物で。 中央合同庁舎7号館保存棟とも呼ばれています。鉄骨鉄筋コンクリート造りの6階建て。スクラッチタイル貼りの豪壮な建物です。正方形に近い大きな窓による立面構成と、正面玄関上部の垂直性を強調したデザインに特徴がある建物です。

平成20(2008)、虎ノ門一帯の再開発で誕生したうちの1棟である中央合同庁舎7号館東館(霞が関コモンゲート東館)に文部科学省の主要機関が移転した後、旧庁舎部分は文化庁やその関連団体などが入り、今も使用されています。

その文部科学省(旧文部省)の旧庁舎のちょうど前のあたりで江戸城の外濠はほぼ直角に南東方向に折れ曲り、その折れ曲がる現在の霞ヶ関三丁目交差点のあたりに「虎の御門(見附)」がありました。


「虎の御門」でほぼ直角に曲がったあとの外濠の跡がこの道路です。私達が歩いているところが外濠の左岸(内側)の土手にあたります。


今は道路を渡っていますが、かつてここは外濠だったところなので、外濠を渡っていることになります。


江戸城外濠跡に位置する日比谷セントラルビルの公開緑地には、建設工事中に発見された江戸城外濠の石垣を復元して保存してあります。


さらにかつての外濠沿いを歩きます。このあたりの地名は内幸町。この地名は幸橋の内側にあったので付けられた地名なのだそうです。私が入社した日本電信電話公社の本社は東京都千代田区内幸町一丁目16号にある日比谷電電ビルにありました。そこで4年間勤務しました。現在、日比谷電電ビルはNTTコミュニケーションズの本社が入っているNTT日比谷ビルになっています。


かつて西新橋一丁目交差点に近いこのあたりに江戸城外濠に架かる新シ橋という橋が架かっていました。


このあたりに江戸城外濠に架かる幸橋がありました。現在は外濠は埋め立てられ、幸橋も撤去されています。そういう中、唯一「幸橋」の名前が残っているのが、このJR東日本の高架橋「幸橋架道橋」です。山手線、京浜東北線、東海道本線、東海道新幹線の高架橋が架かるこのあたりは、かつて幸橋御門の枡形があった場所です。

かつて江戸城外堀はこの幸橋の先で現在のJR山手線等に沿うように北方(山下橋、有楽町方向)に分岐していました。今回はこのまま真っ直ぐ幸橋架道橋を抜けて、東方向に江戸湊(浜離宮)へと続く外濠(の跡)に沿って歩きますが、次回【第6回】は、この地点から山下橋方向(有楽町方向)に伸びる外濠の跡を歩きます。


先ほど、幸橋が架かっていたところで江戸城外濠は山下橋方向(有楽町方向)と江戸湊(浜離宮)方向に分かれていたと書きましたが、江戸湊のほうに続く外濠(汐留川)に架かっていた橋が土橋でした。土橋という名称の通り、橋というよりは堰(ダムのようなところ)で、この土橋の堰で江戸湾からの海水が江戸城外濠に逆流してくるのを防いでいました。


土橋の交差点から先は首都高速道路の高架の下を通ります。首都高速道路の高架が通っているということは、かつてここが江戸城の外濠だったことの証明のようなものです。このあたりは高速道路建設のため昭和29(1954)に外濠(旧汐留川)を埋め立てたところです。この首都高速道路沿いの道には「御門(ごもん)通り」という名称が付けられています。これは江戸時代に芝口御門があったことに由来しています。


難波橋交差点です。ここにはかつて難波橋という橋が外濠(汐留川)に架かっていました。その名残りが交差点の名称として残っています。東京(江戸)なのになぜ「難波」なのかということが気になりますが、現在の銀座8丁目あたりに、江戸時代、「南大阪町」という地名の町がありました。どうも大阪南部の難波あたりから移り住んだ商人が住んでいた町のようです。そこから難波橋という名称が付けられたと推察されます。また、この難波橋は泪橋や中の橋と呼ばれた時期もあったらしいです。鈴ヶ森刑場への別れ道だったことから泪橋となり、転じて難波橋となったという説もあるようです。



……(その2)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...