公開日2020/04/02
[晴れ時々ちょっと横道]第67回:
伊予八藩紀行【大洲藩】(その3)
第66回に引き続いて、伊予八藩紀行【大洲藩】の第2弾です。
一口に大洲藩と言っても旧愛媛県喜多郡や伊予郡一帯を指すので、面積がかなり広いです。調べてみると、前回に訪れた大洲市内中心部以外にも、私の好奇心を刺激する魅力的なところがいっぱいあります。第2弾で訪れたのは、木蠟(もくろう)や、その原材料となるハゼの流通で財をなした白壁の商家が建ち並ぶ町並みが保存されていることで知られる内子町(喜多郡内子町)と、あの幕末の英傑・坂本龍馬が土佐藩を脱藩し、維新動乱の渦中に身を投じた最初の地である大洲市河辺町(旧喜多郡河辺村)です。
【内子・八日市護国地区】
まずは内子町。ここは江戸時代から明治・大正にかけての雰囲気が色濃く残る町並みが人気のスポットで、ノスタルジックな旅が大好きな方には絶対お薦めの場所です。
愛媛県喜多郡内子町は県都松山市から南西に約40km。一級河川・肱川の支流である小田川に沿った盆地にある人口1万5千人ほどの小さな町です。古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町です。江戸時代から明治時代にかけては和紙と木蠟の生産で大いに栄え、特に木蠟は品質の高さで海外でも高く評価されるほど名を馳せ、最盛期には全国生産の約30%がこの山あいの小さな町で産み出されました。
大正時代以降は、石油や電気の普及によって木蠟生産は衰退したのですが、当時の繁栄ぶりを伺わせる漆喰塗りの重厚な商家が数多く建ち並ぶ町並みが、今でも八日市・護国地区に残っています。この歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57年(1982年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、現在でも地元の人々の努力により保存されています。女性観光客が喜びそうな竹細工のお店があります。
これは理髪店(床屋)です。常夜灯がいい感じです。
国の重要文化財に指定されている上芳我邸です。上芳我邸は、江戸時代から明治時代にかけて木蠟生産で大いに栄えた豪商です。内子の木蠟生産の基礎を築き、その発展の中心となった芳我(はが)家の分家で、文久元年(1861年)にこの地に出店を構えました。本家を本芳我家と呼ぶのに対して、上芳我家と通称されています。
主屋は内子の木蠟生産が最盛期であった明治27年(1894年)に上棟された建物で、往時の豪商の暮らしぶりを窺うことができます。邸内には釜場や出店倉、物置などの木蠟生産施設も一体で往時のままで残されており、居住施設と木蠟生産施設合わせて10棟がまるまる国の重要文化財に指定されています。
大変な豪商だったようで、建物はどれも極めて良質の材を用いた立派なもので、敷地も往時の面影をよく残しています。敷地も含め建物は現在も芳我家の所有のままですが、内子町が管理しています。
生蠟(きろう)です。ハゼノキ(櫨の木)の実を粉にして、蒸して搾ったものです。 |
木蠟の原料はハゼノキ(櫨の木)の実です。この実を粉にし、蒸して搾ったものを生蝋(きろう)、これを漂白したものを白蠟(はくろう)または晒蠟(さらしろう)と言います。いずれも総称して木蠟(もくろう)と呼ばれます。生蠟は和ロウソクや鬢付け油、白蠟はかつては石鹸、光沢剤、蠟細工等の原料として使用され、近年では化粧品、医薬品、文房具(クレヨンや色鉛筆)等に使用されています。
こちらは白蠟(はくろう)。生蠟を漂白したものです。内子産の白蠟は品質の高さで海外でも高く評価され、明治時代から大正時代にかけて、日本の重要な貿易商品でした。最盛期には全国生産の約30%がこの山あいの小さな町で産み出されました。 |
内子の背後の四国山地の高い山々は良質なハゼノキが自生していた産地で、内子は白蠟の生産が多く、品質が良いことでも知られ、その多くが海外に輸出され、大きな利益をもたらしました。明治時代、白蠟は絹糸と並ぶ日本の代表的な外貨獲得商品で、首都圏から遠く、教科書にも載っていないのでほとんど知られておりませんが、ここ内子は日本の近代化を支えた極めて重要なところでした。
生蠟、白蠟の原料となるハゼノキ(櫨の木)の実です。内子の背後にある四国山地の高い山々は良質なハゼノキの産地でした。 |
中庭を囲むように、主屋、炊事場、仕舞部屋、便所、産部屋、離座敷、風呂場棟が配置されています。
和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに装飾として設置される板状の瓦、通常は鬼瓦であったり鯱鉾であったりするのですが、上芳我邸のそれは船の舳先の形をしています。これは広く海外に木蠟を輸出していたことで、海上輸送の安全を願ったものです。よく見ると、屋根の最も高い位置に設置される棟瓦には、細かい波の装飾が施されています。
建物はどれも極めて良質の材を用いた立派なもので、贅を尽くしています。主屋の内部です。
ここは離座敷。客人用で、大事な商談もこの部屋で行われました。
主屋2階は座敷とする計画だったのですが、間仕切や造作が作られないまま現在に至っているため、小屋組がよく分かります。
主屋3階です。ここは倉庫として使われていたようです。
蠟という非常に燃えやすい商品を扱っていたので、自前の消火設備も保有していました。
約30坪もの広さがある炊事場です。屋敷の使用人や職人達の食事も賄っていました。内部には井戸、流し、戸棚、かまど(竃)、煙突など、炊事に必要な設備が揃っています。
邸内には木蠟生産の工程を紹介する展示棟(木蠟資料館)もあり、豪商の暮らしぶりと木蠟産業について見学できます。
内子の製蝋業は、享保年間、大洲藩が殖産興業のため櫨蝋(はぜろう)の生産を奨励したことに始まります。その後、本家の本芳我家初代・弥三右衛門が独自の晒し技術「伊予式蠟花箱晒法」を開発したことにより、生産量、品質が向上。日本有数の産地となりました。「伊予式蠟花箱晒法」とは、弥三右衛門が深夜厠に立った際、手に持った蠟燭からこぼれ落ちた蠟が手水鉢の水に触れて白く弾けたことにヒントを得て開発したと伝わっている独自の晒し技術です。水に弾けた蠟の小片(蠟花)を箱(蠟蓋)に入れ、棚に並べて天日に晒しました。
最盛期である明治時代中期には、山間部でハゼ(櫨)の実の収穫、生蠟の生産が行われ、内子の市街地では主に白蝋の生産、出荷が行われていました。しかし、大正期以降は安価なパラフィン蠟や電気の普及により需要が激減。内子では大正13年を最後に全ての製蠟業者が廃業し、製蠟業は終焉を迎えました。
内子の木蠟は、その品質の高さで、当時、パリやシカゴ、セントルイスなどで開催された複数の万国博覧会で上位表彰を受け、内子の木蠟は日本を代表するブランドになっていました。 |
こちらは本芳我家住宅。木蠟生産で大きな財を成した豪商、芳我家の本家(本芳我家)の屋敷です。豪商の屋敷らしく、建物は贅を尽くしたもので、随所に漆喰を使った鏝絵(こてえ)、懸魚(げぎょ)、海鼠壁(なまこかべ)、弁柄(べんがら)の出格子(でごうし)、鬼瓦などに上質な意匠が見られます。また、主屋に隣接する土蔵にも、当時の商標「旭鶴」の鏝絵が今も輝いています。この本芳我家住宅も国の重要文化財に指定されています。
本芳我邸は現在も芳我家が住居としてお使いなので、内部を見学することはできませんが、お庭の一部だけは見学することができます。とても個人のお宅のお庭とは思えない立派な庭です。
ちなみに、「懸魚」とは屋根の“妻”の破風板の部分に施される装飾のこと。「鏝絵」とは漆喰を塗る鏝の技術で描かれるレリーフ状の装飾のこと。「海鼠壁」とは、漆喰の壁が雨で流れるのを防ぐため、壁の腰の部分に瓦を貼り、目地を漆喰で固めた装飾のことです。
本芳我家に隣接する大村家住宅です。この大村家の母屋は、寛政年間(1789年〜1801年)に建てられたものと言われ、内子の古い町並みの中でも最も古い民家の1つです。平成21年〜24年(2009年〜2012年)にかけて修理が行われ、建てられた当初の姿に復元されました。この大村家住宅も国の重要文化財に指定されています。現在も大村家が住居としてお使いなので、内部を見学することはできません。
こちらは中芳我家住宅です。この中芳我家も芳我家の分家です。
内子は古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町で、宿場の役割も果たしてきました。その証しが残っています。八日市・護国地区の趣きのある町並みの端には、道路が鈎形(クランク状)に曲げられた「枡形」があります。
この八日市・護国地区の歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57年(1982年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、また、昭和61年には「八日市道路」として「日本の道100選」にも選定されています。
私は旧街道歩きを趣味の1つとしていて、これまで中山道や甲州街道、日光街道などを歩いてきましたが、これほど歴史的情緒溢れる町並みはほとんど見たことがありません。強いて挙げれば中山道の奈良井宿や妻籠宿ですが、真っ白い漆喰壁の建物が建ち並ぶ美しさという点では、この内子の八日市・護国地区の町並みが一番です。これは、和紙や木蠟といった非常に燃えやすい商材を扱う商家が多かったことで、各家が漆喰壁や卯建(うだつ)といった防火設備が当初から整っていたことと、田舎だったために第二次世界大戦中に空襲の被害を受けていないことが挙げられます。
【内子座】
次に訪れたのは『内子座」です。内子座は、大正5年(1916年)に、大正天皇の即位を祝い、地元の商家の旦那衆が建てた劇場です。木造2階建て瓦葺き入母屋造りで、回り舞台や花道、升席等が整えられました。かつてこの内子が大いに栄えた証しのような建物です。
老朽化で取り壊されるところを町並み保存運動に連動して、地元の人達の手で昭和60年(1985年)に開業当時の姿に修理復元され、劇場として再出発を果たしました。現在でも歌舞伎をはじめ、各種演芸で使われています。平成27年(2015年)に国の重要文化財に指定されました。
内子座では「奈落」と呼ばれる舞台の床下を見学することもできます。回り舞台や「せり」と呼ばれる昇降装置等がありますが、内子座ではそれらすべて昔ながらの“人力”で動かしています。 |
【JR内子駅】
JR内子駅です。第66回のJR五郎駅のところでも述べましたが、昭和61年(1986年)、予讃線の向井原駅〜内子駅間、新谷駅〜伊予大洲駅間が開通し、現在はJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線の中間駅になっていますが、かつて予讃線が伊予灘の海岸線を走っていた頃は、予讃線の五郎駅から分岐して内子駅に至る盲腸のような路線であった内子線の終着駅でした。現在でも、正式にはこの内子駅を境にして伊予市方面が予讃線、伊予大洲方面が内子線と分かれているのですが、運転系統上は一体化されており、列車はすべて相互に直通するため、運用上は途中駅同様となっています。現在は高架の駅になっていますが、駅舎は往時を偲ばせる建物になっています。
内子線の開業は大正9年(1920年)。開業したのは私鉄の愛媛鉄道で、当初は軌間762mmの軽便鉄道でした。その後、国有化され、現在のような1,067mmの軌間に改軌されたのは昭和10年(1935年)のことです。この愛媛鉄道は大正7年(1918年)には長浜駅〜大洲駅間も開通させており、明らかに内陸部の大洲・内子と港のある長浜を結ぶ鉄道路線でした。
ちなみに、愛媛県における鉄道の歴史は古く、明治21年(1888年)に三津〜松山(現松山市駅)間に開通した伊予鉄道が、全国で3番目の私鉄(四国で最初の鉄道。現存する私鉄では南海電鉄に次いで2番目に古い私鉄)として開業したのが最初です。東海道本線の東京〜神戸間が全通する前の年だということで、いかに早く鉄道が敷設されたかが窺えると思います。その後も、明治26年(1893年)には別子銅山の鉱石や資材を輸送する目的で住友別子鉱山鉄道 が創業。続いて、道後鉄道(現在の伊予鉄道の市内線)、南予鉄道(現在の伊予鉄道郡中線)、松山電気軌道(伊予鉄道城南線・本町線の一部として現存)、宇和島鉄道(現在のJR予讃線の宇和島〜吉野生間)、そしてこの愛媛鉄道と、合計7つの鉄道事業者(私鉄)が大正時代の末までに開業していました。
現在のJR予讃線は伊予鉄道が開通した翌年の明治22年(1889年)に私鉄の讃岐鉄道により丸亀駅〜多度津駅〜琴平駅間が開業したのを皮切りに、明治30年(1897年)に高松駅〜丸亀駅間が開業。山陽鉄道による買収を経て、明治39年(1906年)に国有化されました。その後、西に向かって線路を延ばし、大正5年(1916年)に観音寺駅〜川之江駅間が開業し、愛媛県内にまで線路が延びてきました。伊予北条駅〜松山駅間が開業して、松山市まで線路が延びてきたのは昭和2年(1927年)のこと。愛媛鉄道を買収して伊予大洲駅まで延びたのが昭和10年(1935年)のことで、宇和島鉄道を買収し、宇和島まで線路が延びて、現在の予讃線が予算本線として全通したのは昭和20年(1945年)のことです。
現在は買収や廃止が進み、愛媛県内で営業している鉄道事業者はJR四国と伊予鉄道の2社だけですが、こういう時代背景を考えると、大正時代に愛媛県内に7つの鉄道事業者が営業していたということは特筆すべきことで、それだけ当時の愛媛県人が先取の気運に満ちて、西洋の新しい技術をどこよりも早く取り入れようとしていたことが窺えます。
鉄道を敷設したということは、その区間に人や物の大きな流れがあったということ。内子線(当時の愛媛鉄道)の場合は、内子の白蠟と和紙でした。前述のように、内子の白蠟は、明治時代、絹糸と並ぶ日本の代表的な外貨獲得商品で、日本の近代化を支えた極めて重要な産品でした。なので、それらを内子から長浜港まで運び、そこから瀬戸内海を渡って神戸港へ。そして、神戸港から海外へ…というルートが日本の極めて重要な貿易路だったというわけです。内子が白蠟と和紙の取り引きで大変に栄えたことの証拠が、この内子線だったように思えます。
ただ、前述のように、大正期以降は安価なパラフィン蠟や電気の普及により需要が激減し、内子では大正13年(1924年)を最後に全ての製蠟業者が廃業し、製蠟業は終焉を迎えました。なので、大正9年(1920年)に開通した内子線は、本来の目的を十分に果たすこともなく、ただの鄙びたローカル線として、長く地域住民の皆さんの通勤通学の足として使われてきました。現在は前述のようにJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線になって、再び開業した意義をある程度取り返しているように思えます。
内子駅前には内子線単独時代に走っていた小型の蒸気機関車C12形231号機が静態保存で展示されています。
……(その4)に続きます。
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