2020年8月14日金曜日

伊予八藩紀行【大洲藩】(その4)


公開日2020/04/03

晴れ時々ちょっと横道]第67回

 伊予八藩紀行【大洲藩】(その4)


喜多郡内子町内子と西予市野村町惣川を結ぶ愛媛県道56号内子河辺野村線を通って、大洲市河辺町(旧喜多郡河辺村)に向かいます。この河辺は皆さんよくご存知の幕末の英傑・坂本龍馬が、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや、青雲の志しを胸に抱いて土佐藩を脱藩し、最初に足を踏み入れたところです。私も息子の名前に坂本龍馬からの字を貰って「馬」と付けたほどの坂本龍馬ファンで、第1弾で長浜港を訪れた際に、「そうだ! 龍馬が脱藩した時に通った道を訪ねてみよう」と思い立ったわけです。

 

【屋根付橋】

クリント・イーストウッド監督・主演で1995年に公開された映画『マディソン郡の橋』に出てきたような屋根付橋があります。小田川の支流・柿原川に架かる常盤橋です。

愛媛県の南予地方のうち、喜多郡内子町、大洲市河辺町(旧喜多郡河辺村)などには、木造の屋根付橋が現存しています。小河川に架けられているもので、農道として使用されていた道につけられており、歩行者専用です。たいていは中央が半円形に反った太鼓橋で、屋根が付いた珍しい形状の橋です。幅員は2メートル程度、長さも510メートル程度のものがほとんどですが、なかには長いものもあります。かつては、生活道路としてだけでなく、農作物の保管場所などとしても使用されていたのですが、今日では、かつての農村風景をとどめる産業遺産の1つとして、多くは地域の人々の手により、管理・保存されています。


ドンドン山の中に入っていきます。かなり標高も高くなってきました。

眼下に見えるのは、つい先ほど走ってきた道で、このあたりはクネクネ坂を登って、高度を急激に上げていきます。

愛媛県道56号内子河辺野村線で大洲市河辺町に向かう途中で、脇道に入り、山道を登っていきます。私も大好きなテレビ朝日系列の人気番組『ポツンと一軒家』のロケのようなドライブです。この先に本当に目的とする◯◯はあるのだろうかと、ちょっと不安になってきます。前から対向車がやってきたら、どうしよう


【泉谷の棚田】

細い山道を走り目指したのは、ここ。「日本棚田百選」の1つに認定されている「泉谷の棚田」です。平均標高470メートル、北西に向かって開けた約4ヘクタールの斜面に、95枚の棚田が広がっています。幾重にも等高線を描きながら広がる石積みの棚田の風景は絶景です。冬季の今はこんな感じですが、緑が映える夏季にはメチャメチャ美しい風景が広がることでしょうね。

愛媛県道56号内子河辺野村線は県道といってもこんな感じの道路です。山が多い四国では、「酷道ヨサク」で有名な国道439号線をはじめ、国道や県道(険道)でもこんな感じの対面通行不能の細い山越えの道路が幾つもあります。進行方向右側は岩肌が剥きだし、左側は高い崖になっています。運転には注意が必要です。

写真は走行中ではなく、ちゃんと停車してサイドブレーキを引いた状態で撮影しています。


【泉ヶ峠】

内子町と大洲市(旧河辺村)の境のある泉ヶ峠の最高地点(標高約850メートル)あたりは濃い霧に覆われていました。文久2(1862)326日、国境の韮ヶ峠を越えた坂本龍馬、沢村惣之丞、那須俊平の3人は、その夜、この泉ヶ峠に着き、脱藩後、伊予路での第一夜を過ごしました。現在、この峠には、樹齢450年の杉が生茂るのみで、その昔、宿が建っていた面影は何も残っていませんが、この泉ヶ峠は、土佐国と伊予国を結ぶ街道のうち大洲の城下町を通らずに長浜港まで抜ける抜け道が通り、宿となる施設もあったところでした。本当はここで脱藩のため坂本龍馬達が歩いた道の痕跡を少しでも辿りたかったのですが、周囲にクルマを駐車する適当なスペースが見つからなかったのと、あまりに霧が濃いので、危険と判断し諦めました。確かにここは人目を忍んで脱藩するにはいい場所かもしれません。


【河辺ふるさとの宿】

ここ河辺は今は大洲市に属していますが、喜多郡東部に位置し、肱川の支流の一つである河辺川の上流域にあたります。四方を山に囲まれ、東は小田町(現在は内子町)、西は肱川町(現在は大洲市)、南は野村町(現在は西予市)、北は内子町・五十崎町(現在は内子町)に接していますが、肱川町との境を除きいずれも山で接しており、それぞれの町との往来も険しい峠道を越えてになります。地形急峻で、全面積の8割以上が山林です。

この大洲市河辺町を目指したのは、ここを訪ねてみたかったからです。「河辺ふるさとの宿」です。この「河辺ふるさとの宿」は廃校になった小学校の建物をそのまま利用した宿泊施設です。残念ながらこのあたりを通っている道路は土佐藩と大洲藩を結ぶ旧街道で、実際には坂本龍馬達が脱藩に使っておらず、もう少し山の中の抜け道を通って脱藩したのですが、ここには坂本龍馬脱藩に関する資料館等があるので、訪れました。


河辺ふるさとの宿」の横に、幕末の英傑、あの「坂本龍馬」の銅像が立っています。この河辺は坂本龍馬が土佐国の高知から梼原村を抜け、宮野々関所を破り、韮ヶ峠にあった土佐藩・大洲藩(伊予国)の藩境を越えて最初にやって来た(すなわち、脱藩した)ところです。文久2(1862)324日、土佐藩の郷士・坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや、決然として土佐藩を脱藩し、ここから維新動乱の渦中に身を投じ、脱藩後僅か5年間という短い生涯でしたが、幾多の活躍により「幕末の英傑」と呼ばれるようになります。

「飛翔の像」と題されたこの銅像に、坂本龍馬と一緒に立っているのは、龍馬と一緒に脱藩した盟友の沢村惣之丞()と、脱藩の道案内をした那須俊平()です。実は大洲藩と坂本龍馬の繋がりは深く、脱藩の際に領内を通過することをスルー(黙認)したばかりでなく、長浜港から長州の三田尻港(防府市)まで藩船「いろは丸」に乗船するのもスルー(と言うか、大洲藩が脱藩の手助けをしたのかもしれません)。さらには、坂本龍馬が海援隊を設立した際には、大洲藩が所有していたイギリス製の最新蒸気船「いろは丸」を海援隊に貸与したりして、坂本龍馬の活躍を陰で支えました。この「いろは丸」は海援隊による運航中に紀州藩の明光丸と衝突事故を起こしたことで知られています。

このように、脱藩したことで土佐藩の直接援助を得られなくなった坂本龍馬を、脱藩後に後ろから支えたのは、実は大洲藩でした。外様の大洲藩はもともと勤王の気風が強く、幕末期には早くから勤王で藩論が一致していました。このため勤王藩として慶応4(1868)の鳥羽・伏見の戦いでも石高6万石の中規模藩ながら新政府軍に参陣し、最前線で活躍しました。大洲藩って、薩摩や長州、土佐と言った大規模な外様藩と比べると目立たないので、幕末を舞台にした小説やドラマなどではほとんど取り上げられることはないのですが、坂本龍馬をキーワードにして眺めてみると、幕末期において、実に素晴らしい働きをしているのですよね。もっと脚光を浴びていい藩だと、私は思います。内子の木蠟のところで触れましたが、明治維新後は木蠟の輸出という財政面で日本国の近代化にも大いに貢献しているし。

 「坂本龍馬脱藩之日記念館」です。坂本龍馬の脱藩に関する様々な記録が展示されています。


坂本龍馬と言えば、この方ですね。フォークグループ「海援隊」の武田鉄矢さんです。現在、坂本龍馬脱藩の道は地元の人達の手で昔のままに整備されていて、そこを歩けるようです。武田鉄矢さんもその道を歩かれたようです。さすがに武田鉄矢さん。この大洲が坂本龍馬にとって重要な意味を持つところだということを、お分かりのようです。坂本龍馬を英雄へと導いた「坂本龍馬脱藩の道」、旧街道歩きを趣味にしている私の好奇心を大いに擽りました。いつか歩いてみようと思っています。

ちなみに、坂本龍馬は、この河辺から大洲を抜け、肱川の河口にある長浜から大洲藩の藩船いろは丸に乗って瀬戸内海を渡り、長州の三田尻港へと至りました。最終目的地は下関にある白石正一郎邸でした。この脱藩の道は、龍馬が脱藩する時、高知から下関まで同行した沢村惣之丞の口述を記録した文書に基づいています。

坂本龍馬の土佐藩を脱藩して長州に向かった脱藩路のルート上には、実は大洲藩しか存在しません。このルートを眺めていると、坂本龍馬の脱藩には大洲藩が深く関わったとしか思えません。

「坂本龍馬脱藩之日記念館」の隣は「才谷屋」。才谷屋は坂本家の本家で、高知城下でも屈指の豪商の屋号です。純日本建築造りの昔ながらの日本の民家を再現して建てられた宿泊施設です。いいですねぇ。いつか泊まりたい。

「河辺ふるさとの宿」の近くにも屋根付橋が幾つかあります。この橋は豊年橋。「河辺ふるさとの宿」がオープンした際に架けられた観光用の橋のようです。このあたりの屋根付橋は長さが長いです。


愛媛県道56号内子河辺野村線は、現在、この大洲市河辺町三嶋と西予市野村町惣川の間は通行不能区間になっているのですが、その野村町惣川からは愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線が伸びています。この愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線は野村町惣川を出るとすぐに愛媛県と高知県との県境を越えます。その県境は四国山地の標高1,0001,400メートル以上の尾根にあり、日本三大カルストの1つ四国カルストが広がっています。カルストとは、石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が、雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵食されてできた地形で、鍾乳洞などの地下地形も多く形成されています。


【御幸の橋】

愛媛県道56号内子河辺野村線をさらに奥に進みます。屋根付橋の1つ、「御幸の橋」です。現在、河辺地域には八つの屋根付橋が存在しており「河辺浪漫八橋」と呼ばれていますが、その中でも、この御幸の橋が最も古く、現在架かっている橋は明治19(1886)に完成したと伝えられています。

御幸の橋は向こう岸にある天神社の参道を横切って流れる河辺川(肱川の支流)に架かる屋根付橋で、桁行8.3メートル。屋根は切妻造りの杉皮葺きで、欄干には擬宝珠(ぎぼし)と呼ばれる装飾が付けられ、「御幸乃橋」と刻名されています。平成22(2010)には屋根の葺替え修理が行われました。

この御幸の橋の向こう側には坂本龍馬が脱藩時に通ってきた山道があります。この山道を登った先に脱藩路中最高地点の榎ヶ峠があり、土佐藩を脱藩した坂本龍馬達はこの山道を下り、ここに架けられていた当時の御幸の橋を渡って、また山の中を通る抜け道を歩き、まずはここに来るまでに通った内子町と大洲市(旧河辺村)の境のある泉ヶ峠を目指しました。なので、多くの龍馬ファンに親しまれている橋です。

これがその抜け道のようです。

天神社に参拝して、大洲市方面に下ることにしました。ここの天神社は菅原道真を祀った神社なのだそうですが、随分と寂れています。ただその分、不思議なオーラを感じさせる神社です。


河辺川に沿って愛媛県道55号小田河辺大洲線を大洲に向かいます。この道路も県道といっても道幅が狭く、ところどころに前からやって来るクルマを退避するための場所があります。

鹿野川大橋のところで河辺川は肱川の本流と合流するのですが、同時に鹿野川大橋を渡ったところで愛媛県道55号小田河辺大洲線も国道197号線と合流します。この国道197号線は高知県高知市を起点としていて、幕末の頃、土佐国から伊予国へ抜け長州に渡る利便性によって志士たちの脱藩ルートと多くの区間で重なり、坂本龍馬や吉村寅太郎ら土佐勤王党の志士たちも脱藩するために通った道が、現在の国道197号だとも言われています。このことから、このルートは「脱藩道」や「維新の道」とも呼ばれており、特に、高知県高岡郡津野町から同郡檮原町梼原までの30.8kmの区間は、土佐勤王の志士脱藩の歴史ある道として、「日本の道100選」にも選ばれています。このあたりから大洲市肱川町(旧 喜多郡肱川町)に入ります。大洲市も平成の大合併で随分と広くなったものです。

 

【八大龍王神社】

その鹿野川大橋を渡った左手に赤い大きな鳥居があり、「八大龍王神社」の文字が掲げられています。日本では古くから龍(や大蛇)は雨や川といったものと深く関係する水の神だとされており、竜王(竜神)を祀った八大龍王も昔から雨乞いや治水の神様として祀られ、日本各地に八大龍王に関しての神社や祠が点在しています。この八大龍王神社もその1つのようです。

今は穏やかな流れの肱川ですが、一昨年の7月に起きた西日本豪雨では、この鹿野川大橋のすぐ上流にある鹿野川ダム、さらにその上流にある野村ダム(西予市野村町)も耐えきれずに緊急放流を余儀なくされ、その結果、この辺り一帯を含む下流域の大洲市内でも氾濫を起こし、9名の流域住民が犠牲となったほか、建物や田畑に甚大な被害が出ました。

 その肱川、そして鹿野川ダムに極めて近いところにある八大龍王神社ですので、一昨年の西日本豪雨で犠牲になられた方々のご供養と、二度とこういう災害が起こらないことへの祈りのため、参拝させていただきました。

二の鳥居をくぐったところからは苔むした道が続きます。前日からの雨で滑りやすくなっているので、足元を用心しながら進みます。

八大龍王神社の拝殿です。神殿はこの奥の山の上にあるようで、さらに赤い鳥居が見えます。


冬の陽は短く、かつ山あいの場所なのであたりは徐々に暗くなりかけてきています。大洲市内で訪れてみたいところはあったのですが、明るいうちにそこまで到着するのは時間的に無理と判断し、今日は緩やかな肱川の流れを右手に見ながら、松山に帰ることにしました。

いやぁ〜、大洲藩は見どころたっぷりです。しかも、道後温泉や松山城といった松山市とは全く異なる魅力が溢れるところで、面白いです。愛媛県の魅力はこの“多様性”にあると、改めて再認識しました。

現在の重信川の西側が概ね大洲藩で、大洲藩の藩領には現在の伊予市や伊予郡砥部町といった地域も含まれるので、まだまだ大洲藩を見て回って、大洲藩の魅力が分かったとは言い難い状況なのですが、キリがないので、このくらいにして、次の藩に移ります。

さぁ〜、『伊予八藩紀行』、次はどこに行こう?


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