公開日2020/03/06
[晴れ時々ちょっと横道]第66回:
伊予八藩紀行【大洲藩】(その2)
【少彦名神社】
次に訪ねたところは地元の人達から「おすくな様」の愛称で呼ばれている「少彦名(すくなひこな)神社」でした。少彦名神は日本神話にも登場する神で、穀霊・酒造りの神、医薬の神、温泉の神として信仰され、全国各地に伝説やゆかりが多く残されていますが、この大洲の少彦名神社は少彦名命が終焉を迎えた地とされ、境内(簗瀬山)に埋葬したとされる御陵が山頂付近にあるのだそうです。藩政時代は藩主の命により「入らずの山」として、境内(簗瀬山)が秘密にされていたという歴史を持っているのだそうです。気分が悪くなる人が出たり、写真が撮れなかったりといった報告もある知る人ぞ知るパワースポットなのだそうですが、私はスピリチュアルは弱いようなので、全然平気でした。
いくら平地が少ないとはいえ、何故こういう建て方をしたのか、非常に興味深いところです。 |
そんな少彦名神社の参籠殿ですが、歴史的な建築物や遺産の保存運動を推進する米ワールド・モニュメント財団(WMF)が2014年版「世界危機遺産リスト」の中で、この愛媛県大洲市の『少彦名神社参籠殿』を選定しました。世界でも名立たる建築物や名所がリスト入りする中で、なぜこの日本の小さな町の神社が選定されたのか…謎です。2016年にはユネスコのアジア太平洋文化遺産保全賞の最優秀賞も受賞しています。
【高山ニシノミヤ巨石遺跡】
次に向かったのは大洲藩の藩港があった長浜です。その長浜に向かう途中で立ち寄ったのは、大洲城下を見下ろす高山寺山の中腹、標高約300メートル付近の高山西地区にある「高山ニシノミヤ巨石遺跡」です。高さ4.7メートル、幅2.3メートル、厚さ0.6メートルの巨石の立石で、「石仏」「メンヒル」とも呼ばれています。この高地にこの巨石が、いつ、何の目的で建てられたかは全くの謎であり、考古学的な検証を待たねばなりませんが、古くから信仰の対象となっていたことは事実のようです。
標高約300メートル、眼下に大洲の市街地が見えます。こんな山深い高地に、誰が何時、いったい何の目的でこの巨石を建てたのか、実に興味深いところです。 |
【JR五郎駅】
肱川に沿って伸びる愛媛県道24号大洲長浜線を長浜に向けて北上します。JR五郎駅です。今は予讃線海線(愛ある伊予灘線)にあるメチャメチャ鄙びた田舎の無人駅ですが、かつてはこの駅が予讃線と内子線の分岐駅で、かつては木造の駅舎があり、駅員も配置されていました。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみです。また現在は1面1線の単式ホームだけですが、内子線の分岐駅だった頃にはさらに島式ホーム1面2線があり、あわせて2面3線の立派な駅でした。今でも使われなくなった島式ホームは残っていて、構内は意外なほど広いです。
かつては内子線の分岐駅だった五郎駅です。鉄ちゃん(鉄道マニア)の私としては、子供の頃から一度は訪れてみたいと思っていた駅の1つでした。現在は鄙びた無人駅です。今は使われていませんが、島式ホームにかつての分岐駅だった頃の栄光を感じます。 |
内子線の開業は大正9年(1920年)。昭和61年(1986年)、予讃線の向井原駅〜内子駅間、新谷駅〜伊予大洲駅間が開通し、現在はJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線になっていますが、かつて予讃線が伊予灘の海岸線を走っていた頃は、予讃線の五郎駅から分岐して内子駅に至る盲腸のような路線でした。現在でも、正式には内子駅を境にして伊予市方面が予讃線、伊予大洲方面が内子線と分かれているのですが、運転系統上は予讃線として一体化されています。予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)が開通した以降は五郎駅〜新谷駅間は廃止されたため、五郎駅も分岐駅の役割を終え、予讃線海線(愛ある伊予灘線)の鄙びたローカル途中駅になってしまっています。
【長浜港】
途中寄り道したものの、まだ陽があるうちに長浜に入りました。長浜は肱川河口に位置し、肱川の舟運によって古くから栄えたところです。明治時代には、木材を筏に組み河口へと運ぶ筏流しが盛んになり、肱川を下ってきた木材や蝋の集散地・積み替え港として大いに繁栄しました。集散地としては、日本の木材の三大集散地の1つに数えられていました。かつては山口県の上関へのフェリー航路も長浜港から就航していました。
この長浜港は、かつては大洲藩の藩港で、司馬遼太郎先生の長編時代小説『竜馬がゆく』でお馴染みのあの幕末の英傑・坂本龍馬が盟友・沢村惣之丞とともに脱藩した港でもあります。坂本龍馬達はこの長浜港を母港としていた大洲藩所有の蒸気船いろは丸に乗って出帆し、長州の三田尻(防府市)へ向かいました。ちなみに、大洲藩所有の蒸気船いろは丸は、坂本龍馬が海援隊を興した時、大洲藩から海援隊に貸与され、明治維新にいたる幕末の動乱において、大きな役割を果たしました。この背景としては、大洲藩はもともと勤王の気風が強く、幕末期には早くから勤王で藩論が一致していました。このため勤王藩として慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでも小藩ながら新政府軍に参陣し、活躍しました。このように、脱藩により直接土佐藩の庇護を受けられなくなった坂本龍馬に対して、密かに後ろからバックアップしていたのは、実は大洲藩だったと言うことが出来ようかと思います。このことは、もっとアピールしていいのではないか…と、私は思っています。坂本龍馬の黒幕は、実は大洲藩だったと。
【長浜大橋】
長浜大橋です。長浜大橋は昭和10年(1935年)に県道橋として完成した、現役で動く国内最古の跳ね上げ式道路可動橋で、通称「赤橋」と呼ばれ、地元の人達に親しまれています。肱川の河口付近に架けられており、建設当時は船による輸送手段が重要であったため、船が通るたびに開閉をしていましたが、現在では点検を兼ねて定期的に開閉しているそうです。この長浜大橋(赤橋)は、国の重要文化財に指定されています。
【串】
長浜からは国道378号線(通称:夕やけこやけライン)を通って松山に戻りました。この国道378号線は伊予灘(瀬戸内海)の海岸線沿いを走る大変に快適なドライブルートです。
その途中に伊予市双海町串を通ります。この串から日本最大の断層帯である中央構造線が作り出したナイフでスパッと切ったように直線状に山が並ぶ断崖壁を中腹まで登ったところにある臨済宗東福寺派の禅寺「北海山 慶徳寺」です。この慶徳寺は室町時代初期の応永4年(1396年)、鎌倉建長寺の末寺として開山。安永7年(1788年)、火災のため全焼したものの、安永9年(1790年)に造営されたものです。従って、現在の本堂は築後230年以上が経っています。
臨済宗東福寺派の禅寺・北海山慶徳寺です。慶徳寺には、日を改めて訪れました。 |
山門のところに「瀧山城主菩提所 大洲城主宿坊所」という大変に気になる札が掛けられています。瀧山城はこの近くにある壷神山の北東に聳える標高725.9メートルの瀧山の山頂に築かれていた山城です。治承2年・正平18年(1363年)に土豪の久保氏によって築かれたと言われています。戦国時代まで長く久保氏による統治が続いたのですが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐において小早川隆景の降伏勧告に応じて開城し以後廃城となったとなりました。以降、城主であった久保氏は江戸時代にはこの近隣の今坊村・串村の庄屋を勤めました。その瀧山城主・久保氏代々の菩提寺がこの慶徳寺ってことですね。
問題は「大洲城主宿坊所」のほうです。江戸時代、現在の伊予市一帯は大洲藩の領地でした。大洲城主宿坊所というのは、大洲藩主・加藤家が参勤交代の途中で宿泊するところでした。なので、この慶徳寺の前を通るつづら折りの坂道は、大洲藩の参勤交代の際に使われた道でした。地図を見ると、この道をさらに内陸部に進むと愛媛県道54号串内子線に合流します。その県道54号線を使うと内子町に出、内子町からは肱川の支流・麓川、さらに肱川本流に沿って進むと城のあった大洲市中心部に至ります。山の中のクネクネ道が続きますが、さほど距離はありません。
大洲藩の参勤交代のうち瀬戸内海部分は船による航路が使われていました。その大洲藩の表玄関となる本港は肱川の河口にある藩港の長浜港だったのですが、長浜港は、前述のように、特に初冬の朝、大洲盆地で発生した濃い霧が肱川を一気に下る「肱川あらし」が発生して見通しが悪く使えないことがあり、その際の予備港としてこの伊予市双海町に大洲藩第2の藩港・串港が整備されていました。まさにこの串がその大洲藩の予備港・串港があったところで、大洲藩主・加藤家の領内見廻りや参勤交代の途中で潮待ちのために宿泊するための宿坊として使われたのがこの慶徳寺ということのようです。(ちなみに“串”という地名自体、“港”という意味があるそうです。)
安永9年(1790年)に造営された本堂に入ると慶徳寺が大洲藩主の宿坊であったことの痕跡が色濃く残っています。玄関を入ると高い天井からぶら下がっているのは2基の駕籠。1基は大洲藩の藩主が乗る駕籠で、もう1基は家老が乗る駕籠ということのようです。そして玄関脇には、その駕籠に乗り込む際に使う平らな大きな一枚石が今も残っています。本堂は横に細長く、襖(ふすま)で幾つもの部屋に分けられる構造になっています。また、仏壇正面には大洲藩主加藤家代々の位牌が祀られています。
この慶徳寺は高い断崖壁の中腹にあるので、眼下には穏やかな瀬戸内海(伊予灘)が広がっています。一般にはJR下灘駅から見える伊予灘の風景が絶景と言われていますが、海抜100メートル以上のここから見える風景は、その数倍の絶景です。遠くに高縄半島の先端部も見えます。この地形を活かし、この慶徳寺の裏手には、大洲藩の狼煙(のろし)台が置かれていました。高縄半島の先端付近にも同じく大洲藩の狼煙台が置かれ、この両者間で狼煙による通信が行われていたそうです。
【下灘・上灘】
途中、日本一夕陽が綺麗な駅で知られるJR下灘駅に立ち寄りました (日没の時刻になんとか間に合いました)。下灘駅はホームから広い海 (伊予灘) を眺めることができ、駅周辺は鉄道写真の撮影名所の1つとして鉄道ファンの間で全国的に知られている絶景駅です。海面を埋め立てる形で国道378号(夕やけこやけライン) が開通するまでは、ホームの下にすぐ波が打ち寄せるほど線路と海岸が近接した「日本一海に近い駅」と呼ばれていました。この下灘駅は小さな無人駅であるにもかかわらず、「青春18きっぷ」のポスターに3度も使われ、木村拓哉さん主演の人気TVドラマ『HERO』のロケ地にもなったという数々の伝説を持つ駅で、周りに観光施設があるわけでもないのに、この駅を訪れる人は後を絶ちません。
下灘駅訪問のお薦めの時間帯は夕方。下灘駅を含む伊予市双海町一帯は「沈む夕日が立ち止まる町」というキャッチフレーズが付けられるほどの夕日の名所です。ホームからは季節によっては瀬戸内海(伊予灘)の水平線に沈んでいく夕日を見ることもできます。伊予灘は島も少なく、西側の対岸である九州の大分県まで距離があるので、夕日が水平線に沈んでいく光景が見られるのです。しかも、下灘駅で夕景を撮影する場合はホームの向こうに沈む夕日を見ることができます。とてもシンプルな造りのホームのため夕焼けの雰囲気がマッチして、その夕日を背景にホームを狙うだけで印象的な一枚が撮影できるということで知られています。この日もその伊予灘に沈む夕陽を目当てに、鉄道マニアだけでなく一眼レフカメラを手にした大勢の観光客が押し寄せてきていました。
しかし、冬季のこの時期はJR下灘駅から水平線に沈む夕陽は、残念ながら山にかかって見えません。ジモティだから知っていることで、私はすぐに隣の上灘に移動。「道の駅ふたみシーサイド公園」から、伊予灘(瀬戸内海)の水平線に沈む夕陽を楽しみました。息を呑むほどの素晴らしい光景でした。
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