2018年10月13日土曜日

甲州街道歩き【第8回:上野原→犬目】(その5)

昼食を終え、甲州街道歩きに戻ります。中央高速バスの「中央道 野田尻」バス停への連絡通路を通って、野田尻宿の街並みのところまで戻ります。


野田尻宿は明治19(1886)の大火で宿内の町並みはほとんど焼失し、往時の面影を偲ぶことはできないということのようなのですが、往時の旅籠の面影を残す建物もあって、とてもいい雰囲気を醸し出しています。


かつて野田尻宿の問屋場を勤めていた上篠家です。もちろん建物は明治19(1886)の大火以降に建て直されたものなのですが、かつての問屋場を勤めていた家らしくドッシリと風格のある建物です。このようにかつて旅籠を経営していたのであろう面影を残す建物が幾つか建っています。


「野田尻宿」と刻まれた石碑が置かれています。


向かいの空地の隅に「明治天皇小休所跡」の碑がポツンと立っています。ここが野田尻宿の宮田本陣跡です。本陣の建物も明治19(1886)の大火で焼失しました。


明治19(1886)の大火で建物のほとんどが焼失して、その後に建てられた建物ばかりなのですが、かつて宿場町だった雰囲気は色濃く残っています。


簡易郵便局。古い郵便ポスト。「このポストには郵便は出せません」と書かれています。


犬鳴神社の赤い鳥居があります。中は訪れませんでしたが、立派な拝殿があるのだそうです。


このあたりが野田尻宿の諏訪方(西の出入口)でした。犬嶋神社の前を過ぎたあたりから旧甲州街道は左に曲がっていきます。


宿場のはずれに、長峰砦にあった長嶺の池の龍神にみそめられた旅籠「恵比寿屋」の女中・お玉が龍神との恋が成就したお礼として、水不足で悩む野田尻の一角に、澄んだ水をこんこんと湧き出させたという伝説を記した「お玉ヶ井の碑」という石碑が建っています。


野田尻宿を出て中央自動車道の手前に、西光禅寺があります。甲州霊場の第7番札所で、天長元年(824)に真言宗の寺院として創立したと言いますから、相当に由緒のある古寺です。鎌倉時代に建長寺第9世管長・智覚禅師を勧請して開山。臨済宗に転宗したと言われています。中央自動車道の開通により移転したため、本堂を含めて境内の建物は新しいものです。通行人の願いを叶えてくれるという「かえる大明神」が寺の入口に置かれているのだそうです。カエル信仰というのがあるようで、「無事に帰る」、「貸したものがかえる」など縁起ものとされているそうです。門前には「甲州道中遍路みち」という案内板が立っています。


旧甲州街道は西光寺の右手を進みます。曲がりくねった登り坂を上っていきます。


北久保橋で中央自動車道の上を渡ります。陸橋付近からは、左手奥にある談合坂サービスエリア(下り線)がよく見えます。 



陸橋を渡ると、森の中の砂利道を進みます。


山梨県道30号大月上野原線に出たところに「嶽 大先達白倉宝行」と刻まれた石碑が立っています。富士山登山の大先達、すなわち、優れたガイドの業績を讃えた石碑のようです。


山梨県道30号大月上野原線に合流し、次の「犬目宿」へ向かいます。

道は日陰がほとんどない登りの舗装道路は照り返しが厳しく、暑さが堪えます。野田尻宿から萩野集落に入る手前に江戸の日本橋を出てから20番目の「萩野の一里塚」跡があります。説明板によると、「この一里塚は、江戸の日本橋を出てから2020里にあたり、甲斐国(山梨県)に入って、3番目の一里塚です。一里塚の標柱が現在地から東に約10㍍の県道脇に建てられていますが、古老の話によると、北側の塚の上に「ヒラマツ」と呼ばれた老松がありました。今は伐採されて残っていません。一里塚は、旅人が、もう1里、もう1里と距離を知りながら旅をしたり、塚の木陰でひと休みをする場所でした。また、人夫や馬を借りる時の駄賃を決める基準にもなり、明治34(1901)、鉄道(中央本線)が開通するまで大いに利用されました」とのことです。実際の一里塚はこの説明板よりも50メートルほど西にあったのだそうです。



……(その6)に続きます。




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