2018年7月9日月曜日

甲州街道歩き【第3回:仙川→府中】(その1)



317()、『甲州街道あるき』の第3回、仙川駅から府中・大国魂神社を歩いてきました。新宿駅から京王線の特急京王八王子行き(京王8000系電車)で明大前駅へ。


明大前駅で京王相模原線乗り入れの区間急行橋本行き(東京都交通局10-300形電車)に乗り換え、仙川駅に向かいました。



京王線の仙川駅は40年前は各駅停車のみの停車駅だったはずなのですが、いつのまにか区間急行とは言え、優等列車の停車駅に昇格しています。この40年の間に首都東京のベッドタウンとしての住宅開発が進み、そうした方々の最寄り駅としての利用者と、駅周辺に増えた学校への通学者により乗降人員が急速に増加しているってことなんでしょう。

この日は仙川駅を出発して府中の大国魂神社まで歩くのですが、京王線の駅でいうと、つつじヶ丘、柴崎、国領、布田、調布、西調布、飛田給、武蔵野台、多磨霊園、東府中、府中…と11駅先まで歩きます。


この日は東京で桜(ソメイヨシノ)の開花宣言が出されたのですが、仙川駅前の桜(ソメイヨシノ)も蕾が膨らんでいました。朝、開花していたのはこの1輪だけでしたが、これから午後に向かって気温が上がるので、ポンポン開花していくのではないでしょうか。梅はもう見頃を迎えているでしょうし、この日の甲州街道沿いでも各お宅の庭先の花々が楽しめるかもしれません。春を迎えて、街道歩きも気持ちいい季節になってきました。






京王線仙川駅前で集合して少し南にある小さな公園でストレッチ体操をしてから出発です。この第3回もまだまだ“繋ぎの区間”が続きます。鉄道(京王電鉄線)が開通して以降、急激に首都東京のベッドタウンとしての宅地開発が進んだところで、往時の面影を偲ばせる風景は残念ながらほとんど残っていないので、ただひたすら甲州街道を完歩するために歩くって感じの区間です。なので、今回のブログはネタに困りそうで、どこまで書けるか不安です。


国道20号線(甲州街道)に戻ります。ここからはしばらく国道20号線を歩きます。



仙川駅前のコンビニ店頭に江戸の日本橋から数えて5里目の「仙川一里塚跡」の石碑が立っています。石碑の説明文によると、この一里塚は五間(9メートル)四方、高さ一丈(3メートル)の大きさで、榎(えのき)が植えられていたのだそうです。



この仙川から東京都調布市、かつての北多摩郡に入ります。北多摩郡は多摩地域の中心でした。

現在の多摩地域は、律令制において設置された武蔵国多摩郡に相当します。武蔵国は、現在の東京都および埼玉県の葛飾郡以外の地域と神奈川県北東部を含む非常に広い版図の土地でした。多摩郡はその武蔵国の中心地で、武蔵国の中枢機関に当たる国府(現在の府中市)と国分寺(現在の国分寺市)や一宮小野神社(現在の多摩市)、二宮神社(現在のあきる野市)が置かれました。“多摩”は古くは「多麻」や「多磨」と表記されることもあったと言われています。この“たま”の語源ですが、平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚鈔』に「太婆(たば)」の注釈が記されていること、また、多摩川の上流部(現在は奥多摩湖で分断されている)に丹波山村を水源とする丹波川(たばがわ)があることなどから、古くは“タバ”であったとする説があります。ただ、この“タマ”あるいは“タバ”自体の語源ははっきりしていないのだそうです。なお、世田谷区にある玉川の「玉」も同じ語源だとされています。

私は「多麻」と表記されることもあった…という点に注目しています。昨年11月に四国の徳島県を旅行して以来、日本人と麻との関係、さらには高度な麻栽培と加工技術を持った阿波忌部氏の存在を知って、麻という言葉に敏感に反応するようになっていますから。もしかすると、麻栽培と加工の高度な技術を持って徳島(阿波)から千葉県の房総半島南部(安房)に移住してきた阿波忌部氏の方々が、この多摩地方にまで進出して、このあたりに麻の栽培を持ち込んだとも考えられますからね。安房から浦賀水道を渡ると三浦半島。三浦半島に上陸しさえすれば、多摩地方はさほど遠い距離ではありませんから。

加えて、次のような伝承もあります。武蔵国の一部には古代から大陸からの渡来人が移住してきて帰化したところと伝わっているところがあり、現在の埼玉県日高市、鶴ヶ島市、川越市、狭山市、入間市、飯能市周辺にかつてあった高麗郡(こまぐん)は主として高句麗人が集められたとされるところ、現在の埼玉県和光市、朝霞市、新座市、志木市戸田市、東京都練馬区、西東京市(旧保谷市域)周辺にかつてあった新羅郡(新座郡:にいくらぐん)は新羅人が集められたとされるところとされています。この多摩郡域にも大陸からの渡来人が移住してきて帰化したところではないかという伝承が残っているところがあり、この調布市仙川の南にあり亀塚古墳のある狛江郷(狛江市:こまえし)の狛江は高句麗に由来するとする説もあります。もしそうだとすると、この武蔵国というところは、他民族をはじめ日本列島の他の地域からの移住者、さらには彼等が持ち込む文化や技術を受け入れやすい風土を持っていたところということができますからね、なおのことです。

また、武蔵国は平安時代の後期から鎌倉時代にかけては武蔵七党などの武士団が勃興したところでもありました。鎌倉後期の元弘3(1333)には上野国の新田義貞が挙兵し、義貞勢は南下してこの多摩郡の府中(武蔵府中)で鎌倉幕府勢の北条泰家を破り(分倍河原の戦い)、その勢いを駆ってそのまま鎌倉へ侵攻し、鎌倉幕府を滅ぼしました。

戦国時代の多摩郡は、関東管領の上杉氏による支配を経て、江戸を本拠地とする太田氏や小田原(神奈川県小田原市)を本拠地とする戦国大名である後北条氏の地盤となりました。北条氏政の弟・北条氏照は八王子城(八王子市)を築き、西方の甲斐国の武田氏に備えました。その後北条氏も豊臣秀吉の小田原征伐によって没落してしまいました。

江戸時代に入ると幕府の直轄領(御料)や旗本領となります。八王子宿には関東各地の直轄領を支配する代官18人が駐在することとなり、武田氏旧臣の大久保長安が初代の代官頭を務めて、多摩地域の開発と甲州街道や青梅街道の整備に当たりました。また、江戸幕府は、国境警備のため、八王子宿周辺の農村に八王子千人同心を配置しました。このため、多摩地域は江戸幕府への忠誠心がことのほか厚かったとされています。近藤勇(現在の調布市出身)や土方歳三(現在の日野市出身)など新選組の主要隊士を数多く輩出しているのもこの多摩地域です。

明治維新後の多摩地域の歴史は既に渋谷区や杉並区、世田谷区のところで書いた通りで、西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡という三多摩地域に限って言えば、次のようになります。明治2(1869)には品川県、明治4(1871)に品川県を廃止して東京府(2)が発足すると一旦は東京府へ編入されるのですが、多摩郡内が横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるとの神奈川県知事・陸奥宗光の上申によりすぐに全域が神奈川県に移管。明治11(1878)に施行された郡区町村編制法により、旧多摩郡のうち神奈川県管下の区域は3分割され西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡となり、「三多摩地区」という呼び名が生まれます。この後、神奈川県管轄だった多摩3郡は帝都の水源である多摩川や玉川上水を東京府の管理下に置くことを理由として明治26(1893)に東京府へ移管され、東京府西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡となり、現在に至ります。

『甲州街道あるき』の【第2回】でも書きましたが、この三多摩地域ですが、かつて八王子市を県庁所在地として西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡という多摩3郡で「多摩県」という1つの県を構成しようとする具体的な動きがありました。それも帝国議会に法案を諮ったくらいに真剣味をもって。明治28(1895)に当時の内務省が東京15区を政府の管理下に置くために「東京都制および多摩県設置法案」を出したもので、これには帝国議会や東京市民から自治権を奪うものだとして猛烈な反発を受け、成立には至らなかったという経緯があります。

そして、昭和の時代に入り、国鉄中央線、京王電鉄京王線、小田急電鉄小田原線等の鉄道網が整備され、鉄道沿線が次々と住宅地として開発されたことで、首都東京のベッドタウンとして三多摩地区の住民は急激に増加し、三多摩地区の各町村は昭和20年以降に次々と市制を施行して、現在は西多摩郡を除き、郡としては消滅してしまいました。

かつて北多摩郡に所属していた市は、現在の立川市、武蔵野市、三鷹市、昭島市、調布市、小金井市、小平市、東村山市、国分寺市、国立市、狛江市、東大和市、清瀬市、東久留米市、武蔵村山市、府中市(の大部分)、西東京市、稲城市(の一部)、それと世田谷区に併合された区域(八幡山、船橋、砧など)です。

また、かつて南多摩郡に所属していた市は、現在の八王子市、町田市、日野市、多摩市、稲城市(の大部分)、府中市(の一部)です。

いっぽう、西多摩郡は現在も瑞穂町、日の出町、檜原村、奥多摩町の31村が残り、東京都に現存する唯一の郡となっていますが、西多摩郡からは青梅市、福生市、あきる野市、羽村市という4つの市が誕生しています。

このように、江戸時代には武蔵野台地に広がる一面の田園地帯で、狸や狐がふつうに走り回っていたこの三多摩地域には、現在ではこれだけの市が誕生し、東京都民の約3分の1にあたる約423万人が居住しています。

調布市はその三多摩地区の東端に位置し、東京23区部と境界を接している隣接5(狛江市、調布市、三鷹市、武蔵野市、西東京市(旧・田無市、保谷市))のうちの1つです。地形的には武蔵野台地と多摩川低地によって構成されていて、甲州街道が通っているあたりは武蔵野台地にあたります。新宿までの距離は10km20km圏で、京王線が延びていることで、現在は都心に近く住環境の整った一大住宅地となっています。

調布市の市域には野川遺跡、飛田給北遺跡、野水遺跡、仙川遺跡、入間町城山遺跡など旧石器時代から人々が居住していたと考えられている遺跡があり、入間町城山遺跡、蛇久保遺跡、東原遺跡、原山遺跡、飛田給遺跡等いずれも縄文中期のものと考えられている遺跡があります。縄文晩期の下布田遺跡からは国の重要文化財に指定されている土製耳飾なども出土しています。さらに、深大寺城山遺跡、染地遺跡、入間町城山遺跡といった弥生時代のものと推定される遺跡もあります。このほかにも下布田古墳群、上布田古墳群、国領南古墳群、飛田給古墳群をはじめとする5世紀中頃から7世紀頃にかけての23基の古墳群や、蛇久保遺跡、上ヶ給遺跡、染地遺跡、飛田給遺跡、上石原遺跡といった同じく5世紀中頃から7世紀頃にかけての集落跡があったりと、古代からこの地で人々が暮らしていた痕跡が随所に遺されています。

明治22(1889)、町村制施行により、当時神奈川県北多摩郡に属していた現在の市域にあたる場所に調布町(布田小島分村、上石原村、下石原村、上布田村、下布田村、国領宿、上ヶ給村、飛田給村が合併)と神代村(深大寺村、佐須村、金子村、柴崎村、下仙川村、入間村、大町村の全域および北野村の一部が合併)2町村が発足します。その後、明治26(1893)に三多摩地区が神奈川県から東京府に移管されると東京府、昭和18(1943)に東京都制が施行されると東京都の北多摩郡調布町、神代村となります。そして、昭和30(1955)、調布町と神代町(その3年前に町制施行)が合併し、現在の調布市が誕生しました。

調布という名称は、このあたりが昔の税金である租庸調の調(その土地の特産物を納める)で布を納めていたことに由来するとされています。同様の「調布」という地名が付けられたところは他にも幾つかあり、東京都内でも現在大田区に属する日本有数の高級住宅街として有名な田園調布は、元は荏原郡調布村(のちの東調布町)というところでした。調布と書いて「たづくり」もしくは「てづくり」とも読んでいたと言われています。調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が幾つか存在します。江戸時代までは多摩川で布を晒していたという記録が残っているのだそうです。また、
「多摩川に さらすてづくり さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛(かな)しき」
という歌が万葉集に収録されているのだそうです。

こうしたその土地の歴史を知った上で歩きながら周囲の風景を眺めてみると、昔の風景が朧げながら見えてくる感じがします。これが街道歩きの醍醐味の1つです。

全くの余談ですが、私が住むさいたま市中央区下落合は古くは武蔵国足立郡でした。足立郡は現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの地域で、概ね荒川の左岸(東側)、元荒川と綾瀬川の右岸(西側)にあたる地域です。南は武蔵国豊島郡に接していました。江戸から見ると、西に位置するのが多摩郡で、北西に位置するのが足立郡、その間を埋めるのが入間郡と前述の高麗郡と新座郡(かつての新羅郡)という位置関係です。しかも多摩郡が甲州街道なら、足立郡は中山道と奥州街道・日光街道が通るというように、江戸を取り巻く周辺郡部として、非常によく似た性格を持つところだったように思えます。

さいたま市中央区下落合は、明治12(1879)に「郡区町村編制法」により行政区画としての北足立郡が発足した当時は、埼玉県北足立郡下落合村でした。明治22(1879)、近隣の与野町、小村田村、下落合村、上落合村、中里村、大戸村、鈴谷村、上峰村、八王子村、円阿弥村が合併して与野町となり、北足立郡与野町下落合となりました。与野は古くは鎌倉街道の上道と中道とを結ぶ羽根倉道上に位置し、室町時代から市場の町として栄えていました。江戸時代には、甲州街道日野宿と中山道、奥州街道とを結ぶ脇往還の人馬継立場として、また中山道浦和宿と川越を結ぶ川越浦和道の経由地として江戸や周辺地域からの商品や物資の集散地としての機能を有していて、幕末期の文化・文政期(1804年~1830)には与野宿は中山道の大宮宿、浦和宿よりも家数が多かったとされています。明治20(1887)の作成と推定される記録でも、与野町の人口は浦和町や大宮町を上回っていました。それが逆転するのは、明治16(1883)、日本初の私鉄である「日本鉄道」(現在のJR東北本線・高崎線)が開業して以降のことです。その後、昭和33(1958)、市制施行により与野市下落合となり、平成13(2001)、浦和市、大宮市、与野市が合併してさいたま市中央区下落合となりました。

現在の埼玉県の成り立ちも大変に興味深いものがあります。明治4(1871)、廃藩置県を受けて浦和県(元幕府領)、川越県(元の川越藩)・忍県(元の忍藩)、岩槻県(元の岩槻藩)4つの県が誕生するのですが、すぐに忍県・岩槻県・浦和県の3県が合併して埼玉県(1)が誕生。川越県は品川県の一部を吸収して入間県となり、明治6(1873)には群馬県と合併し熊谷県となります。明治9(1876)、熊谷県は解消され旧入間県の地域は埼玉県と合併、現在の埼玉県が成立します。このあたりの歴史を知ると、埼玉県内の各地域ごとの微妙な文化の違いや、なぁ〜んとなく感じていた各都市間の結びつきのわけ等が理解できてきます。皆さんもお住いのところの歴史を調べられたらいかがでしょう。いろいろなことが見えてくると思いますよ。


余談が長くなりました。甲州街道を先に進みます。



おっ、このマークはマヨネーズでお馴染みのキューピー!!  ここは2013年に開設されたキユーピー株式会社の研究開発とオフィスの融合施設「仙川キユーポート」です。マヨネーズを好物とし、マヨネーズを大量にかけて食べたり、あらゆる食品にマヨネーズを使用する人のことを「マヨラー」と呼びますが、この仙川キユーポートにはマヨラー達の間で「マヨラーの聖地」と言われている見学施設「マヨテラス」があります。


マヨネーズ(仏語: Mayonnaise)は、食用油・酢・卵を主材料とした半固体状ドレッシングのことで、卵は卵黄のみ使用するものと全卵を使用するものがあります。日本では卵黄の割合が多いのが一般的です。当初はフランス料理の肉用のソースの一種であったのですが、日本ではサラダなどの料理における調味料としても広く利用されています。諸説あるようですが、マヨネーズの起源の有力説は、スペインのメノルカ島にあるマオンで、語源は「マオン+ネーズ(ソース)」、すなわち、「マオン島のソース」という意味らしいです。日本では、後にキュ-ピー株式会社の創始者となる中島菫一郎氏がアメリカ留学中にマヨネーズと出会い、日本でも広めるべく、1925年に日本発のキューピーマヨネーズを発売したのが始まりです。中島菫一郎氏は発売当初から当時の輸入品に比べて約2倍の卵黄を使い、栄養価が高くて日本人の口に合う風味豊かなマヨネーズを研究したのだそうです。

世間一般ではゲテモノ食いや味覚音痴のように思われているふしのあるマヨラーですが、かくいう私も“隠れマヨラー”の1人です。特にオカズがなくても、炊きたてのあったかいご飯にマヨネーズさえあれば、ペロペロって一食美味しくいただけちゃいます。もちろんサラダにはどんなドレッシングよりもマヨネーズが一番って派です。最近は炒め物にもマヨネーズを使っています。もちろんお好み焼きにはマヨネーズたっぷりです。なので、我が家にマヨネーズを切らせません。妻からは「子供達が真似をするといけないから、お願いだからやめて」という理由でご飯にマヨネーズをかけて食べることだけは封印されているのですが、今でも家族の見ていないところではこっそりマヨネーズかけご飯をいただいています。見ていると、どうも娘もマヨラーの傾向が強いようで、血は争えません。

芸能人にも香取慎吾さんや渡辺徹さんをはじめマヨラーであることを公言されておられる方が何人もいらっしゃって、実はマヨラーも世の中でかなりの数いらっしゃることが分かってきています。マヨラーにはキューピー派と味の素派の2つがあるようですが、私は子供の頃から慣れ親しんだキューピーのマヨネーズが一番だと思っています。あの酸味とコクがたまりません。いっぽう、マイルドな味を好む人には味の素のマヨネーズの方が支持されているようです。そのキューピー株式会社の研究開発の拠点ということで、思わず写真を撮らせていただきました。

国道20号線を先に進みます。道路標識に「八王子 府中」の文字が見えます。今日はこのうちの府中まで歩きます。


仙川からしばらく国道20号線を進むと、仙川二丁目交差点を過ぎたとこで、右に分かれる細い道があります。これが旧の甲州街道で、瀧坂と呼ばれています。かつては雨が降ると降った雨が瀧()のように流れる急坂で、甲州街道の難所の1つでした。


その瀧坂が分岐する角に滝坂入口の標柱には「馬宿 川口屋」「瀧坂旧道」と刻まれた石碑が建っています。中山道でも目にしましたが、馬宿とは“中馬(ちゅうま)稼ぎ”のための宿のことです。この甲州街道でも、中馬稼ぎは盛んだったようです。“中馬稼ぎ”とは、江戸時代、信州や甲州の農民が農閑期の余業として23頭の馬で物資を目的地まで運送した輸送業のことで、農民の駄賃(だちん)稼ぎということから“中馬稼ぎ”と呼ばれていました。中馬は物資を目的地まで直送する「付通し」、すなわち今で言うところの長距離トラックのようなものだったので、その隆盛につれ、宿継ぎ送りが基本の宿場問屋側(既得権益側)とは利害が対立し、しばしば紛糾が起こっていたようです。江戸時代中期以降は往復1ヶ月以上も荷物運びをする専業の中馬稼ぎも出現したといわれています。中馬稼ぎの活動範囲は信州や甲州全域に及び、さらに尾張、三河、駿河、相模、江戸にまで活動範囲は広がり、東海地方と中部地方、関東地方を結ぶ重要な運送手段となっていました。輸送物資は米、大豆、煙草、塩、味噌、蚕繭、麻などで、庶民の物資を運ぶ上での重要な輸送機関でした。この川口屋は戦前まで馬方や行商人相手に旅籠を営んでいました。

旧道の面影を残る瀧坂を進みます。



瀧坂はすぐに国道20号線に合流します。ここからは国道20号線の単調な歩きがしばらく続きます。仙川を過ぎたあたりから道端に小さな祠に祀られた庚申塔などが目に付くようになってきました。 



京王線のつつじヶ丘駅にほど近いつつじヶ丘交差点のところに「金子の大銀杏(いちょう)」があります。

ここは寛延元年(1748)に鹿島平兵衛という人が京都の伏見稲荷から勧請した稲荷大明神で、イチョウ(銀杏)もその時に植えたと伝えられていて、樹齢は約250年と推定されます。


 国道20号線(甲州街道)はケヤキ()の並木が続いています。このケヤキ()は、昭和39(1964)に東京オリンピックが開催され、この甲州街道がマラソンコースとして活用され、その記念に植えられたものです。あれから50年以上が経過し、今では四季折々の情景を数多くの道行く人、自動車で走行する方たちを和ませ、甲州街道の風物詩のひとつとなっています。ケヤキ()は春の芽吹き、初夏の爽やかな若葉、夏の強い陽射しの時はたわわな葉で陽射しを遮って爽やかですし、秋は錦繍の紅葉、冬木立は陽射しが透けて見えるのが綺麗…と四季折々の情景を楽しませてくれるのですが、問題は落葉。これだけのケヤキ並木が続くとあまたの葉が散乱し、その処理が大変なのではないか…と想像しちゃいます。



ニレ科の落葉樹であるケヤキ()は埼玉県内に古くから自生し、「清河寺の大ケヤキ(さいたま市西区)」をはじめ、各地に県の天然記念物に指定されたケヤキの木があり、「埼玉県の木」「さいたま市の木」にも指定されています。私が住む埼玉県さいたま市のJR北浦和駅前から西に向かって延びる国道463号線(通称:埼大通り)の街路には、その埼玉県の木であるケヤキが2,400本ほど植えられ、「日本一長いけやき並木」として親しまれています。現在の家に引っ越すまではこの埼大通りが朝晩の通勤路だったこともあるのでわかるのですが、落葉の時期の路面に散乱する落葉の量は半端じゃあないってことは経験からよく分かっているので、こういうケヤキ並木を見ると、すぐに落葉の処理のことに心配がいっちゃいます。もちろん国道なので国土交通省の道路管理事務所が清掃してくれるのですが、とてもそれだけでは間に合わず、付近にお住まいの方々、商店街の人達、自治体の関係者のたゆまぬ協力、そしてボランティアの数多くの方々の懸命な労力によりこのケヤキ並木が維持されているのだろうな…と思ってしまいます。そういう方々のご苦労に感謝感謝です。

加えて、ケヤキ並木が植わっている関係で、このあたりの歩道は歩ける歩道の幅がかなり狭く、そこを自転車も数多く通行するので、ちょっと危険です。私達も1列の長い隊列になってここを進むのですが、それでも自転車の方々の進行のご迷惑になっているようです。

この奥に金龍寺という曹洞宗の寺があります。天保6(1835)の過去帳に開基は栄西禅師、創立は建永元年(1206)とあり、もとは臨済宗であったようです。境内の池水は源義経が陸奥に落ちるときに立ち寄り、弁慶が大般若経の書写に用いたという伝説があります。また、源頼朝祈願の石造十王像と江戸後期の木造十王像が十王堂に安置されています。



国道20号線(甲州街道)をさらに進みます。


菊野台1丁目の菊野台交番前交差点付近に、(江戸後期の戯作者で『南総里見八犬伝』等の著作で有名な)滝沢馬琴の著書『玄同放言』で絵入りで紹介されたために江戸近在で有名になったという「妙円地蔵」という地蔵菩薩立像が大切に祀られています。滝沢馬琴の著書によると、妙円尼は、俗名を熊といい、武蔵国多摩郡酒井()村の六右衛門の長女として生まれました。若くして、金子村(現・調布市西つつじヶ丘・菊野台のあたり)の新助に嫁ぎましたが、恵まれない境遇のうえに失明してしまい、出家して寿量妙円と名のりました。以後、村人のために路傍で鉦を叩いては念仏を唱え、集まった浄財でこの地蔵菩薩像を作りました。それからは甲州街道のこの地蔵の傍らで念仏三昧の日々を送り、村人に頼まれては加持祈祷(かじきとう)をしました。文化13(1816)年の春、妙円は村人に「来年の1028日に念仏往生をとげる」と告げ、翌年秋には棺桶・帷子(かたびら)などを買い整え、1026日になると村中をまわって、世話になった人々にお礼をいい、村人が見守る中、29日に念仏往生をとげました。妙円の墓は、深大寺三昧所にあります。失明後、妙円がたどった運命は、滝沢馬琴の「玄同放言」に詳しく紹介されているのだそうです。




 京王線の柴崎駅の手前で国道20号線の左側の車線に渡ります。







……(その2)に続きます。

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