2018年7月10日火曜日

甲州街道歩き【第3回:仙川→府中】(その2)

多摩川の支流の1つである野川を馬橋という橋で渡ります。この馬橋を渡りきったあたりが国領宿、と言うか布田五宿の江戸方の入口でした。



旧甲州街道入口」という街道歩きをする人にとぉ〜っても親切な名称が付いた三叉路で、二股に分かれる左側の細い道路のほうに進みます。



右へ分かれる幅の広い道路が国道20号線で、この細い道路は旧国道20号線で現在は東京都道119号北浦上石原線(旧甲州街道入口交差点〜国領駅入口交差点間は東京都道11号大田調布線と重複)、こちらが旧甲州街道です。ゴウゴウと次から次にクルマが行き交う交通量の多い国道20号線を外れて、やっと静かな街道歩きが楽しめるようになってきました。とは言え、ここからは都道と言っても歩道が設けられていない道路で、クルマに用心しながら道路の端を歩かないといけません。中山道街道歩きの峠越えのような道はまだまだ先ですね。 



旧道を進むと、布田五宿に入ります。ここは東から国領、下布田、上布田、下石原、上石原と長く続く“鰻の寝床”のような宿場です。この5つの宿が6日交代制で宿役を勤めていました。江戸の日本橋からは56(2024km)ほどで、当時の旅人は1日に89里は歩いていました。そのため、旅人の多くはここを素通りして、次の府中宿まで足を延ばしていたので、5宿合わせても9軒の旅籠だけというひっそりとした小さな宿場で、参勤交代で通行する大名も少なかったので本陣・脇本陣は置かれていませんでした。旅籠は少なかったものの、多くの商店が軒を並べていたといわれています。安政2(1855)に出された旅行ガイド()「五街道中細見独案内」には布田五宿を「宿の長さ三十丁目」とあり、1宿としての扱いになっています。前回通った下高井戸宿と上高井戸宿もそうでしたが、この布田五宿を1つの宿と見るか、5つの宿と見るかで、甲州街道の宿場の数は大きく異なってきます。ちなみに、長さの単位で1丁は約109メートルですので、「宿の長さ三十丁目」とは、約3.3kmに及ぶ非常に細長い宿場だったことが窺えます。現在の調布市はこの布田五宿が中心となっています。



この国領駅入口交差点を過ぎたあたりが布田五宿のうち最初の国領宿でした。

旧街道らしく三猿と青面金剛(しょうめんこんごう)の庚申塔が小さな祠の中に祀られています。その祠には「事故多し」と書かれた黄色の看板も掲げられています。庚申塔は街道沿いに置かれるものなので、こんな活用も現代風でよいのかもしれません。


東京23区内と異なり、調布市では電柱に「旧甲州街道」の表示がなされていて、街道歩きをする者にとってはありがたいことです。また、ここからは多摩川が約1kmほど南側を甲州街道に並行して流れています。


道路表示に従い、旧甲州街道(東京都道119号北浦上石原線)を先に進みます。



浄土真宗本願寺派の圓福寺です。この寺は、もともとは鎌倉の切通しにありましたが鎌倉幕府滅亡後、現地に近い多摩川の崖上に移り、さらに今の境内に移転したと伝えられています。開山は関山和尚といい北条泰時の弟で開寿丸といった人で永仁3(1295)に没しています。中興の祖は武田信玄で、中興二代の貽玄(ちげん)は武田信玄の遺臣で、その時に現在地に移りました。その当時の本堂は明治23年に火災により焼失し、現在の本堂は明治百年を記念して近年建築されたもので、近代的な作りになっています。境内門近くには記念碑が建っています。また、その前には地蔵尊、六地蔵尊が安置されています。



真言宗豊山派の寺院、成田山長楽院常性寺です。鎌倉時代の創建で、かつては多摩川沿いに建立されていたのですが、慶長年間に旧甲州街道沿いの現在の地に移築せられたものなのだそうです。正面の瑠璃殿には薬師如来、不動堂には厄除け不動、地蔵堂には一願地蔵が安置されているのだそうです。一般には調布不動尊として知られていて、江戸時代に当山中興の祐仙法印が、成田山新勝寺より成田不動尊を勧請したのがその始まりとされています。 



この常性寺の奥に国領神社があります。時間の関係で今回は訪れませんでしたが、この国領神社には樹齢が1,000年とも言われる藤の木があり、季節になると藤の花が咲き誇って見事だと評判のところです。藤棚の面積は約120坪、樹高約12メートルの巨木で、氏子の人々が力を合わせて育てていて、その実は縁起が良いとされ、お守りとされています。藤は「不二」「富士」「無事」に通じると言われています。

この布田駅前交差点のあたりが布田五宿のうち2番目の下布田宿でした。


現在の調布市は旧甲州街道の布田五宿を中心として発展したということは前述のとおりですが、下布田宿に入ると徐々に人々の通行量も増え、賑やかな街並みになってきました。



調布百店街   調布駅東口入口」という表示が掲げられています。調布市の中心、京王線の調布駅がもうすぐのようです。



調布駅の手前の布田天神社入口の信号のところで右折し、寄り道して布田天神社に立ち寄ります。



交差点に布多天神前という表示があります。ここから北へ300メートルほど入ったところに布多天神社があります。



唐突にこの像を見ると、なぜここにゲゲゲの鬼太郎が?…と疑問を抱かれようかと思います。実際、私もそうでした。実は、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者である漫画家の水木しげる先生は昭和34(1959)にこの調布市に移り住んで以来、50年以上もこの調布市に住んでおられたそうで、調布市の名誉市民でもありました。水木しげる先生の出身地は鳥取県ですが、ここ調布市は“第二の故郷”でもあるということで、それにあやかって市をあげて「水木ワールド」として楽しめるように整備されているようです。



調布市の一番の観光スポットは調布駅からバスで15分ほどのところにある「深大寺」です。この深大寺は奈良時代から続く、東京有数の古刹です。重要文化財である釈迦如来像は7世紀に作られたという大変貴重なもので、寺の建立も8世紀頃ということなので、東京都内では浅草寺に次ぐ古さを誇ります。湧水の地であることから、水神の「深沙大将(大王とも)」が名前の由来だそうで、その湧水は東京の名湧水に選ばれていて人気があります。また、パワースポットとしても広く知られているため、訪れる人は後を絶ちません。また、深大寺蕎麦(そば)でも有名なところです。その深大寺の山門の近くに水木ワールドをそのまま立体化したような建物の「鬼太郎茶屋」があり、鬼太郎を筆頭に沢山の妖怪たちが出迎えてくれるのだそうです。水木しげるファン、『ゲゲゲの鬼太郎』ファンにはたまらない場所のようです。

この布多天神社も境内の裏手が鬼太郎が住む場所として漫画にも登場する場所なのだそうで、布多天神社に続く参道の「Tenjin St.(天神ストリート)」には鬼太郎をはじめ、目玉おやじ、ぬりかべ、猫娘、一反木綿、そしてネズミ男といったお馴染みの主な妖怪たちが出迎えてくれくれます。これは楽しい!

そんな楽しい「Tenjin St.(天神ストリート)」を抜けたところに国道20号線が通っています。「日本橋から24km」の道標が立っています。24kmということは6里ですね。まだまだ6里かぁ〜……。その道標の向かいは国立の電気通信大学です。


国道20号線を渡り、布多天神社の参道を進みます。国道20号線を渡ると賑やかな商店街が途切れ、神社の参道の趣きが色濃く出てきます。



三栄山常行院大正寺(常行院)です。この寺院の開山は奈良時代と言われています。古くは上布田宿境にあった三栄山不動院寿福寺、下布田にあった紫雲山寶性寺、上布田にあった広福山常行院栄法寺の3つの寺を大正4(1915)に合併し、開山時の年号に因み、三栄山常行院大正寺として創設されたものです。栄法寺は、明治元年に神仏分離が行われるまで布多天神社の別当寺でした。本堂は()山門とともに栄法寺より移築されたもので、文政10(1827)に建築されたとされています。



布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、当時この神社の市場は相当賑わったとされています。神社としての創建年代は不明ですが、社伝によると第11代天皇の垂仁天皇の時代とされており、延長5(927)に編纂された延喜式神名帳に記述がある式内古社です。創建当時の社殿は多摩川に近い現在の布田5丁目にあったのですが、文明年間に多摩川が大氾濫を起こしたことをきっかけとし、文明9(1477)に現在地に移転しました。当初は少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)を祭神としていたのですが、移転時に菅原道真を合祀したことで、布多天神社と呼ばれるようになりました。かつて社殿があったところには古天神公園と名付けられた公園が整備されているのだそうです。



この布多天神社に関しては、多摩川の近くに住む広福長者が布多天神社のお告げを受けて日本で最初に木綿の布を織る技術を編み出し、多摩川の水に晒して作った布を朝廷に納めたと縁起に伝えられています。布を税(調)として朝廷に納めたことから、この地域が「調布」と呼ばれるようになったということをご紹介しましたが、まさにここがその「調布」の原点ってことですね。当時庶民の衣類は麻製であったため保温性で甚だ劣り、風邪が死病であったほどだったのですが、木綿で布を織る技術が編み出されたことでそれが防げることができるようになりました。まさに日本人にとって画期的な出来事であったともいえますね。

拝殿前の狛犬は寛政8(1796)、境内で開かれる市の繁栄を祈願し奉納されたといわれているもので、調布市最古の狛犬であり、調布市の有形民俗文化財に指定されています。


布田天神社の御神牛です。何故、ここに牛の像が…と思って台座に刻まれた説明文を読むと、次のように書かれていました。

「天神様として祀られている菅原道真公は仁明天皇の承和12(845)、乙丑625日丑の刻の御生誕で、牛を大変大切にされたと伝えられています。また、延喜3(903)道真公が薨去せられ葬送の途中、柩車の牛が臥して動かず、道真公の御霊が自ら鎮められる所を定められたとして、その地に御廟所を営み奉ったのであります(現在の太宰府天満宮の御正殿)。その他、道真公と牛に関する神秘的な伝説が数多く残っています。この御神牛は悲しみに動かなくなった臥牛を表現したものです。」

なるほどぉ〜。


拝殿は昭和60(1985)、覆殿は昭和40(1965)に造営(再建)されたもので、比較的新しい建物ですが、本殿は江戸時代中期の宝永3(1706)の造営された歴史のある建物です。現在、最も新しい富士山の噴火である宝永大噴火が起きたのは宝永4(1707)。ここから富士山は100 kmほど離れていますが、このあたりも相当の火山灰が降り積もったと想像されます。なので、本殿は竣工されてすぐに富士山の宝永大噴火による火山灰に覆われたってことになります。



拝殿右横には、向かって左から稲荷社(倉稲魂命)、大鳥神社(日本武尊)・金刀比羅神社(大己貴命)、そして御嶽神社(日本武尊)・祓戸神社(祓戸四柱大神)・疱瘡神社(不詳)の合殿といった境内末社が南を向いて並んでいます。写真はそのうちの大鳥神社(日本武尊)と金刀比羅神社(大己貴命)の合殿です。



この日は317日でしたが、境内の枝垂れ桜や梅の花がちょうど見頃を迎えていました。



これはこれは相当な古木です。ほとんど枯れかけていて、残った頭上の枝もいつ枯れて落下してくるか分からない状態にもかかわらず、「頭上注意」の警告表示がなされてなおも保存されているということは、この布田天神社の御神木なのかもしれません。確かに枯れかけていますが、古木として堂々たる佇まいの木です。それ以上の表示がないので、分かりませんでした



大きな倉庫の前に「納庫  上布田」の文字が見えます。布田天神社では9月に年の1度の例大祭が行われるそうで、その時は小島、上布田、下布田、上ヶ給の4地区からの神輿が社殿前に並び「みたまうつし」を行い、お囃子を奏でる山車や太鼓とともに街(旧甲州街道)へ繰り出すのだそうです。その上布田集落の神輿と山車がここに格納されているのでしょうね。


  


……(その3)に続きます。











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