2018年7月11日水曜日

甲州街道歩き【第3回:仙川→府中】(その3)

旧甲州街道に戻り、街道歩きを続けます。調布駅入口交差点を直進し、さらに西に向かいます。この調布駅北口交差点のあたりが布田五宿のうち3番目の上布田宿でした。調布駅北口交差点の名称の通り、この交差点を左に入ったところが調布市の中心駅、京王線調布駅です。


小島町一丁目交差点の手前に江戸の日本橋から数えて6里目の小島一里塚の跡があります。塚には樹齢200年と推定される榎の大樹があったといわれていますが、危険防止のため昭和40年頃に伐採されてしまったのだそうです。


調布駅前は商店が建ち並び、行き来する人が多いのですが、少し離れると、人通りもほとんどなく、土蔵をもつ民家や古い構えの商店などが目につくようになってきます。旧街道のかつての面影が少しずつではありますが、漂い始めてきました。



鶴川街道との追分(分岐点)でもある下石原一丁目交差点を過ぎたあたりが布田五宿のうち4番目の下石原宿でした。鶴川街道は、東京都町田市中町より同市鶴川、神奈川県川崎市麻生区黒川を経由し、この東京都調布市下石原を結ぶ街道で、町田街道と甲州街道の間を結んでいました。



この微妙なS字カーブが旧街道らしさを醸し出してくれます。昔は多少の雨が降っても、さらには近隣を流れる河川が氾濫したとしても、極力浸水や冠水をすることがないように、幹線道路(旧街道等)はそのあたりの地形で最も標高が高いところを伝うように整備されていました。そのため、地形に従って微妙なS字カーブを描いて延びているところが多く、最近の私は微妙なS字カーブを描く道路を見掛けると「おっ! これは旧街道か?」って思うほどになっています()



下石原宿にある源正寺には、六地蔵、青面金剛庚申塔、如意輪観音像が柵で囲った小屋の中に祀られています。六地蔵の前には花が手向けられており、地元に根付く地蔵信仰の強さが感じられます。



この先で東京都道119号北浦上石原線は右手から接近してくる東京都道229号府中調布線と合流し、ここから府中までは東京都道229号府中調布線が旧甲州街道になります。



西調布駅入口を過ぎたあたりが布田五宿のうち5番目(一番西)にある上石原宿でした。

上石原宿には応永年間(1394年~1428)に開山された西光寺があります。宝永年間(1704年~1710)に建立されたと伝わるこの仁王門は楼上に銅鐘を釣る鐘楼門でもあり、立派な構えをしています。建立されたとされる宝永年間には富士山の宝永大噴火(宝永4年:1707)が発生しており、この辺りにも降灰などによる大きな被害があったはずです。噴火と仁王門の建立になんらかの関係があるのではないかと想像してしまいます。


境内の観音堂には、調布市重要文化財に指定された観音三十三身像が安置されているのだそうです。製作されたのは元禄11(1698)で、長谷川五平衛という武士が庶民の救済を祈願して寄贈したものなのだそうです。この像高3040センチメートルほどの小さな木造の観音像33体は江戸時代の彫刻でも最高級の技が見られるものだと言われています。また、仁王門の裏側にある小屋の中に、中央に一回り大きい地蔵像を配した六地蔵が祀られています。

門前の仁王門左側に建つ弘化3(1846)に建立された常夜燈が建っています。その常夜燈の隣には、平成13(2001)に地元の新撰組新研究団体によって没後130年を記念して建てられた近藤勇坐像が建っています。


幕末期、京都守護職配下で新選組を組織し、新撰組局長として池田屋騒動等で勇名を馳せた近藤勇は天保5(1834)、この西光寺と同じ武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市上石原 )の豪農・宮川久次郎の三男として生まれました。剣を天然理心流宗家3代近藤周助の試衛館に学び、嘉永2(1849)にその養子となりました。近藤周助にかわって多摩郡の出稽古場を歩き、その際、日野宿佐藤彦五郎、小野路村の小島鹿之助らと義兄弟の契りを結びました。

文久3(1863)、第14代将軍徳川家茂の上洛に先んじて、門下の土方歳三や沖田総司、山南啓助らを引き連れて浪士組に加わります。清河八郎と意見を異にして京都に残留し、芹沢鴨らと京都守護職支配下に属して新選組を組織し、京の治安維持に努めました。芹沢鴨暗殺後は局長となり、元治元年(1864)の池田屋事件で功をたて、慶応3(1867)に幕臣となり、見廻組与頭格に任ぜられました。

慶応4(1868)13日、鳥羽・伏見の戦いでは副長土方歳三が指揮をとったのですが敗れ、残った隊士を集め幕府の軍艦で江戸に戻り、今度は江戸を守るために奔走します。江戸で近藤勇は主戦論を唱え、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織し隊長となり、大久保大和と名乗りました。甲陽鎮撫隊は甲斐国の甲府で新政府軍の進軍を食い止めようとしますが、35日、甲府を目の前にした甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて再び敗走します。敗走した近藤勇らは残った幕府勢力を再編成して、会津において再起を図る計画を立て、下総の国の流山(千葉県流山市)に屯集したのですが、新政府軍の追撃を受け、無念、近藤勇は捕縛されてしまいます(自ら出頭したという説もあり、このあたりははっきりしません)。捕縛された近藤勇は、当時、新政府軍の総督府が置かれた中山道の板橋宿まで連行され、慶応4(1968)425日、板橋宿近くの板橋刑場で斬首されました。享年35(33)の若さでした。首は京都の三条河原に梟首されましたが(その後の首の行方は不明)、胴体は刑場であった板橋宿の近傍(JR板橋駅東口付近)に埋められているとされ、新撰組の元隊士の永倉新八が整備したといわれる供養碑が建てられています。義兄弟の契りを結んだ小野路村(東京都町田市)の小島鹿之助直系の小野家にある小島資料館には近藤勇に所縁の史料が数多く保存されているのだそうです。

ちなみに、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が甲府へ向けて甲州街道を出撃する途中、この西光寺で休息をとったといわれています。また、この近くにあったとされる近藤勇の生家は、かつては豪農らしく広大なお屋敷だったそうなのですが、第二次世界大戦の戦時中に調布飛行場を建設するにあたり、取り壊されてしまったとのことです。平成13(2001)に地元の新撰組新研究団体によって没後130年を記念して建てられたというこの近藤勇坐像を見ていると、多摩地区の人々がこの地元出身の幕末の英雄の志を称え、いかに誇りにしているのが窺えます。時間の関係で、西光寺は外から眺めるだけになってしまいましたが、機会があれば是非その近藤勇坐像を観に、再度ここを訪れてみたいと思いました。

「繋ぎの区間」とは言え、旧甲州街道も調布を過ぎると、旧家を見かけることが多くなってきました。街道歩き的にはこの先の区間に十分期待を抱かせてくれます。間口に対して奥行きが広い敷地が多いのに気づきます。街道に面して屋敷があり、奥は作業場、さらにその奥には農地が広がっていたのでしょう。地価が高い現代のようなせせこましい敷地割りではなく、生産活動に適した敷地割りをしていたことが窺えます。


コブシ(辛夷)でしょうか。見事なまでに満開です。3月に入り、街道歩きも気持ちよくやれるようになってきました。今回第3回も“繋ぎの区間”で史跡や見どころには乏しいのですが、沿線の御宅の庭に咲く草花の数々を眺めるだけでも気持ちが癒されて、歩き甲斐があります。街道歩きにシーズンというものがあるとするならば、この春到来の3月から晩秋の11月までがまさに街道歩きのシーズンですね。


中央高速道の高架の下を抜けると飛田給駅入口交差点を通ります。ここを左に曲がってすぐのところに京王線の飛田給駅があります。“給”という文字が地名としていささか奇妙を響きを与えるのですが、荘園を管理していた飛田氏が領主からこの土地を給田として支給されたのがその地名の語源とされています。そう言えば、仙川の手前には給田というズバリの地名がありました。このあたりはそういう給田が多いところだったのでしょう。



立派な黒板塀の旧家があります。この黒塀の横を歩きながら、昭和29(1954)に春日八郎さんが歌って大ヒットした『お富さん』の歌詞が頭に浮かんできました。“粋な黒塀 見越しの松に 艶な姿のお富さん…”、私はその歌が大ヒットした2年後の昭和31(1956)の生まれなのですが、今年91歳になる父が昔好きだった歌のようで、よく聴いていたので、覚えています。粋な黒塀に見越しの松…、まさにその歌の歌詞のまんまの建物です。それにしても広い敷地のお宅です。


京王線飛田給駅が近づいてきました。京王線飛田給駅はサッカーJ1の強豪チームFC東京のホームスタジアム「味の素スタジアム」の最寄駅です。旧甲州街道にも、沿道にFC東京の青と赤のフラッグが何本も掲げられ、ここがホームタウンであることが伝わってきます。味の素スタジアムはこの旧甲州街道に並行して北側を通る国道20号線沿いにあります。



驚いたことに、この日の昼食はその味の素スタジアムの記者会見用のインタビュールームをお借りしてのお弁当でした。飛田給駅入口交差点を右折しで旧甲州街道を外れ、味の素スタジアムのほうに向かいます。味の素スタジアム手前の歩道橋に「強く、愛されるチームをめざして」というFC東京のチームスローガンが書かれた横断幕が掲げられています。



味の素スタジアムです。弊社ハレックスがスポンサーの末席に加えさせていただいているFC今治は現在FC東京の所属するJ1からは3カテゴリー下のJFLで頑張っていますが、いつかこの味の素スタジアムで強豪FC東京とリーグ戦を戦ってくれると信じています。その日が1日も早く訪れることを夢見て、私は今シーズンもFC今治を応援します。



「報道関係者入口」と書かれた入り口を通って味の素スタジアムの建物の中に。そこのインタビュールームがこの日の昼食会場でした。この「甲州街道あるき」では毎回、昼食会場の確保が旅行会社さんの頭を悩ませるところなのでしょうが、こういう素敵なところがありましたか!  この日、FC東京はアウエー戦で本拠地味の素スタジアムを留守にしていたことでこれが実現できたのでしょう。味の素スタジアムだけに“味”なことをやっていただけました。



記者になった気分でお弁当をいただき、午後からの街道歩きの再開です。

また飛田給は昭和39(1964)10月に行われたオリンピック東京大会の際、マラソンの折り返し地点になったところです。昭和39年のオリンピック東京大会においては、甲州街道(国道20号線)が競歩とマラソンのコースになりました。1021日に行われた男子マラソンではエチオピアのアベベ・ビキラ選手がこの飛田給の折り返し地点から独走し、2時間122秒の記録を樹立し、その前回のローマ大会に続き2連覇を果たしました。当時私は8歳でしたが、アベベ・ビキラ選手が哲学者のような顔をしてゴールの国立競技場に独走で入ってきたシーンに大いに感動したのを覚えています。また、国立競技場に2位で戻ってきたものの、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリー選手にトラックで追い抜かれて3位となり、2時間1622秒の記録で銅メダルを獲得した円谷幸吉選手の力走も記憶に残っています。この円谷幸吉選手の銅メダルは東京オリンピックの陸上競技において日本が獲得した唯一のメダルとなりました。2020年の東京オリンピックでも日本選手の活躍を期待したいところです。



その東京オリンピックの競歩とマラソンの折り返し地点であったことを示す記念碑が味の素スタジアムの前に建立されています。


さらに味の素スタジアムの向こうには調布飛行場があります。現在はコミューター航空会社である新中央航空がこの調布飛行場と新島、大島、神津島、三宅島という伊豆諸島の島々の間をドルニエ 228 (Dornier 228) という乗客19人乗りの小型双発ターボプロップ旅客機で運行している東京都営の民間空港ですが、第二次世界大戦中は日本陸軍の航空基地が置かれていました。特に、第二次世界大戦末期には、首都圏に飛来するボーイングB-29爆撃機などを撃退するために中島キ61 三式戦闘機「飛燕」を装備した飛行第244戦隊をはじめとした戦闘機隊が配備され、京浜地区の空襲のたびに出動し、B-29爆撃機に体当たりをして撃墜するなどの戦果を挙げています。

ユーミン松任谷由実(荒井由実)さんが歌った『中央フリーウェイ』という楽曲には冒頭に「調布基地を追い越し…」という歌詞が登場してきます。この調布基地とはこの調布飛行場のことですね。確かにすぐ南側を中央フリーウェイ、すなわち中央自動車道が通っていますしね。いつか調布飛行場から新中央航空のドルニエ 228に乗って神津島や三宅島に行ってみたいと思っています。

時折、頭の上からブーーン!というレシプロエンジン特有のエンジン音が聞こえてきます。調布飛行場を離着陸するセスナやパイパー、ビーチクラフトといった小型の単発プロペラ軽飛行機のエンジン音のようです。私が住む埼玉県さいたま市でも軽飛行機のエンジン音は時折聞こえるのですが、爆音のように大きく聞こえるのは、離陸や着陸のために高度が低いところを飛んでいるのと、特に離陸においてはエンジンをフルスロットルにしているからでしょう。


……(その4)に続きます。





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