2018年7月6日金曜日

甲州街道歩き【第2回:内藤新宿→仙川】(その5)

京王線桜上水駅に近い桜上水駅北交差点のあたりに下高井戸宿の江戸方(東の入り口)があります (この手前に京王線の下高井戸駅があるのですが、実際の下高井戸宿は桜上水駅のほうが近いです)


高井戸宿は下高井戸宿と上高井戸宿の2つの宿場の合宿でした。しかも、通行大名が少なく脇本陣は置かれていませんでした。当初は、甲州街道の起点である江戸の日本橋から数えて一番目の宿場で延宝8(1680)頃の記録によると旅籠が24軒存在していたのですが、後に内藤新宿が設置され2番目の宿場となると、内藤新宿との距離がさほどないこともあり次第に素通りする旅人が多くなりました。天保14(1843)頃の記録によると、本陣は既になく、旅籠も上高井戸宿で2軒、下高井戸宿で3軒と寂れてしまいました。

周辺住民は農業を主としており、東海道や中山道といった幹線ではなかったので旅人の数もさほど多くはなく、一宿で継ぎ立てを勤められなかったので、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていました。

下高井戸宿は日本橋から4里のところにあり、宗源寺の左隣あたりに本陣が置かれていました。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りに問屋場がありました。

いっぽう、上高井戸宿は日本橋から41240間のところにあり、現在の環八通りとの交点である上高井戸一丁目交差点の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれていました。問屋は篠弥惣治が勤めていました。

この下と上ですが、当時は京都が日本の首都でしたから、京都に近いほうが“上”で、江戸に近いほうが“下”でした。

下高井戸宿は小さな宿場だったそうなので、当時の面影を偲ばせるものは残念ながらほとんど何も残っていません。中山道の例で言うと、通常、それらしい碑や説明板等があったりするものですが、そういうものすら見つけることができません。



街道脇に大きな象のモニュメントが飾られたお店があります。どうも竹細工のお店のようです。店内で若い男性の職人さんが竹細工を作っている姿がガラス越しに見えます。こうした若い人達が日本の伝統工芸を受け継いでくれている姿を見ると嬉しくなります。



日蓮宗の寺院の覚蔵寺です。門前に掲げられた説明書きによると、この寺はもともとは真言宗の寺院でしたが、慶長年間(1596年〜1614)に日蓮宗に改宗。中興開山は実成院日相と伝えられているのだそうです。安置されている鬼子母神像は日蓮聖人の直刻と伝えられていて、このことは「江戸名所図会」にも記載されているのだそうです。それによれば、この鬼子母神像は文永8年(1271年)日蓮聖人が龍ロ法難に遭われる前、胡麻のボタ餅の供養を受けた礼として信者に渡したもので江戸時代中頃、妙法寺から移されたものだということです。



叡昌山宗源寺は、十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。慶長(1596-1614)初年の頃、光伯院日善が創建したと伝えられます。


  
境内に建つこの不動堂は、もとこの近くにあった修験道の本覚院(明治5年に廃寺)のものでしたが、明治44年に現在地に移し、昭和42年に改築したものです。なお、この不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。なるほどぉ~、「高井堂(たかいどう)」が「高井戸(たかいど)」ですか…。



境内に立派なラカンマキ(羅漢槙)の巨木があります。



宗源寺の左隣にあるこの淀川電機製作所東京営業所あたりに下高井戸宿の冨士屋源蔵本陣がありました。天保14(1843)頃の記録によると、その頃には既に本陣はなかったそうなので、今はその面影の欠片も残っていません。


本陣前のこのあたりに高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りに問屋場(篠崎弥惣次家)がありました。現在は国道20号線になってしまっています。


石材店ですが、庚申塔やら、道祖神やら、道標やら、昔の旧街道で使われていたとしか思えない立派な石塔・石仏が並んでいます。きっと、こういうものを趣味として蒐集される方もいらっしゃるのでしょうね。



鎌倉街道入口の信号のところの横断歩道で甲州街道(国道20号線)を渡り、ここからは反対側(左側)の車線の歩道を歩きます。



鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意味としても用いられています。ここで甲州街道と交差するこの道路もその数ある鎌倉街道の1つだったのですね。鎌倉時代と江戸時代の軍事道路同士がここで交差するというわけですね。



上北沢駅入口交差点のあたりで、今まで街道の空を塞いでしまっていた高架になった首都高速道路がようやく右側に逸れてくれます。その高速道路の高架が曲がりはじめるあたりの左側歩道上に「甲州道中一里塚跡」の説明板がひっそりと立っています。この説明板の前方、高速道路の下に、日本橋かから数えて4里目(16km)の一里塚「上北沢の一里塚」があったといわれています。まだまだ都心部に近いので、都市化の影響で一里塚の現物は取り壊されているようです。現物の一里塚を見られるのはまだまだ先のことになるようです。



 この上北沢一里塚のあたりが下高井戸宿の諏訪方(西の入り口)でした。



首都高速4号新宿線はこの先に高井戸の料金所があり、そこから先は中央自動車道に変わります。

ちなみに、玉川上水はここで甲州街道と分岐し、現在の首都高速4号新宿線の高架に沿って北西に遡ります。玉川上水は、現在の東京都羽村市にある多摩川上流の羽村取水堰から水を取り入れ、現在の地名で言うと、順に福生市、昭島市、立川市、小平市、小金井市、武蔵野市、西東京市、三鷹市という全て東京都下の各市を通って、ここで甲州街道にぶつかり、今度は甲州街道に沿って杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区を通り、四谷大木戸にまで延びていた延長が約43kmにも及ぶ人工の水路です。先ほど三多摩地域は帝都東京の水源である多摩川や玉川上水を東京府の管理下に置くことを理由として明治26(1893)に神奈川県から東京府へ移管されたということを書きましたが、地図でその流路を眺めてみると、何故東京都が西方向にだけ伸びているのかが、よぉ〜く分かります。要は玉川上水という飲料水の確保が目的だったのですね。

「政治」は“政(まつりごと)”を“治”めると書きますが、“治”の本来の意味は「治水」のことです。徳川家康が見渡す限り一面水浸しの湿地帯だった土地を、利根川と荒川という2つの大きな河川の流路を変えることによって人が暮らせる土地に変え、現在の大都会東京に繋がる江戸という街を作り上げたように、また、そこに暮らす飲料水を確保するために江戸城を築くよりも前に神田上水を作らせたように、そもそも水を治めることが政治の基本だってことですね。

玉川上水もここまで歩いてきた甲州街道沿いの区間はほとんど暗渠(地下トンネル)になっていますが、羽村取水堰からこの先の中央自動車道とぶつかる杉並区久我山の浅間橋(せんげんばし)と呼ばれていた地点までの約30kmの区間は開渠区間であり、東京都の清流復活事業により水流が復活し、遊歩道として整備もされているようなので、いつかぜひ歩いてみたいと思っています。街道歩きを始めてから、歩いてみたいと思うところが増えていけません()

高速道路の高架が逸れていったので、ここからは空が広く感じます。街道歩きは、せめてこうじゃなくっちゃあいけません!

おやっ!  こんなところに高速バスの車庫があります。高速道路の入り口はとうに過ぎたのに、やたら甲州街道(国道20号線)を走行する高速バスの数が多いと思ったら、ここに高速バスの車庫があったのですね。どうりでこのあたりの甲州街道(国道20号線)を走行しているバスは客扱いをしていない“回送”表示をしたバスばかりでした。車庫では京王バス、富士急行(山梨県)、山梨交通(山梨県)、アルピコ交通(長野県)、信南交通(長野県)、伊那バス(長野県)など中央自動車道を走行する中央高速バスを運行している各社の高速バスがしばしの休憩を取っています。こりゃあバスマニアにはたまりませんね。


京王線八幡山駅にほど近いこのあたりが上高井戸宿の江戸方(東の入り口)でした。この上高井戸宿も往時を偲ばせるものはほとんど何も残っていません。



「環八(かんぱち)通り」の愛称で知られる東京都道311号環状八号線と交差する上高井戸一丁目交差点です。環八通りは、大田区の羽田空港から、世田谷区、杉並区、練馬区、板橋区を経由して北区赤羽に至る環状道路です。起点付近に羽田空港があり、第三京浜、東名高速道路、中央自動車道の起点インターと接続し、笹目通りおよび目白通り経由で関越自動車道とも接続しています。また、国道20号線(甲州街道)、国道246号線(玉川通り)といった主要一般道路とも交差しており、まさに東京の大動脈といっても差し支えないほどの重要な道路です。そのため、早朝から深夜まで終日交通量が非常に多く、その渋滞の長さは東京都内でも屈指と言われています。

その環八通りと交差する上高井戸一丁目交差点のあたりに上高井戸宿の武蔵家本陣(並木家)がありました。また、その手前には問屋場(細淵三左衛門家)がありました。


国道20号線から左手に分岐し、東京都道229号府中調布線に入ります。ここが旧甲州街道です。やっと旧街道風情が楽しめるかなと思いきや、車、人、自転車の通行量がかなり激しく、歩道スペースはありますが縁石はなく、対向人とすれ違いはみ出す時に車に轢かれそうになるので、ちょっと怖いです。




ここに「井之頭辨財天道道標」が立っています。「井の頭弁財天」は吉祥寺駅からすぐの井の頭公園の中の井の頭池のほとりにある弁財天のことです。源氏の祖である源経基が、伝教大師の作である弁財天女像をこの地に安置したのが始まりとされ、その後、源頼朝がお堂を建立したと伝えられています。当時の武将が戦勝祈願に訪れたことなどから、「勝ち運の銭洗い弁天」としても信仰されています。

その後鎌倉時代に一度は焼失してしまいますが、江戸時代になり、この地を鷹狩り場として使っていた三代将軍徳川家光が、弁財天の宮社を再建しました。井の頭と言う地名も、この池の水が江戸の飲料水の源(上水の頭)であることから、家光が訪れた際に「井の頭」と命名されたのだそうです。このように徳川家とも所縁が深い場所です。

元々は家康の時代に、江戸の上水道(神田上水)の整備に伴い、この井の頭池が水源として選ばれました。家康自身も何度かこの地を訪れているとのことです。井の頭弁財天の近くには家康がお茶をたてたと言う「お茶の水」と言う場所もあります。このように、水源の守り神、財産を授ける神として、古くから庶民に信仰されている弁財天だったので、玉川上水沿線の皆さんも参拝に訪れたのだろうと推察されます。


国道20号線から分かれておよそ300mほど進んだ左手に長泉寺があります。慶安元年(1648)にもう少し西の烏山に開創したものの、二年後に火災に遭い、明暦元年(1655)にこの地に移ったそうです。「円通閣」という観音堂には板絵着色西国巡礼図」という狩野派の絵師、中田小左衛門が描いた貴重な文化財が入っているそうです。上高井戸宿の本陣を勤めた並木家の墓もこの長泉寺にあります。


  

この長泉寺を過ぎたあたりが上高井戸宿の諏訪方(西の入り口)でした。ここは京王線の芦花公園駅がすぐ近くにあります。





……(その6)に続きます。




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