2018年7月5日木曜日

甲州街道歩き【第2回:内藤新宿→仙川】(その4)


昼食を終え、街道歩きの再開です。


井の頭線の線路の上を陸橋で渡ります。下に見えているのは明大前駅の井の頭線ホームです。奥に高架の京王線ホームも見えます。明大前駅では同じ京王電鉄の京王線と井の頭線の電車が立体交差しています。このため、2階が京王線ホーム、1階が改札口、地下1階が井の頭線ホームの3層構造となっています。


井の頭線は、東京都渋谷区の渋谷駅と武蔵野市の吉祥寺駅を結ぶ京王電鉄の鉄道路線です。渋谷と吉祥寺という繁華街同士を、途中小田急小田原線・京王線と接続しながら短絡します。ところが、この井の頭線、同じ京王電鉄の路線であると言っても、京王線と相互乗り入れはおろか、使用する車両の共通化もできないんです。それは、軌間(レールの幅)1,372mmのいわゆる馬車軌間を採用する京王線の路線とは異なり、井の頭線では1,067mmの狭軌を採用しているからです。これはもともと井の頭線が小田急電鉄系列の帝都電鉄の路線として開業し、その後の一時期、小田急電鉄に合併されて小田急帝都線となったためです。その名残として、井の頭線は小田急小田原線と下北沢駅で立体交差していますが、今でも両社線間の連絡通路には改札がありません。

井の頭線が小田急電鉄系列の帝都電鉄の路線として開業したのが昭和8(1933)。前述のように、その後、小田急電鉄に合併されて小田急の帝都線となります。さらには戦時統制下における陸上交通事業調整法により東京多摩地域の国鉄中央本線より南側や、小田原・横須賀など神奈川県の私鉄の大部分が五島慶太氏率いる東京横浜電鉄を中核として統合させられることになり、昭和17(1942)、東京横浜電鉄は小田急電鉄および京浜電気鉄道を合併。さらに、昭和19(1944)には京王電気軌道を、昭和20(1945)には相模鉄道を合併し、東京急行電鉄という1つの大きな会社となります。いわゆる『大東急』と呼ばれるものです。

戦後、戦時統制の終了に伴いこの大東急は解体されることになり、昭和23(1948)、京王・小田急・京急の3社が分離独立し、東京急行電鉄は元々の東京横浜電鉄の路線のみが残り、現在の形となりました。それ以外の私鉄も統合前の形に基本的には復することになったのですが、元小田急電鉄の帝都線であった井の頭線だけは経営的な判断から旧京王電気軌道と組み合わされたという経緯があります。その際、かつての帝都線を含んでいるということから、分離・独立した会社の名前は「京王帝都電鉄」となりました。同社が現在の「京王電鉄」に社名を変更したのは平成10(1998)のことです。

なので、京王線と井の頭線って同じ京王電鉄の路線でありながら、沿線のカラーや鉄道路線としてのイメージが全く異なるんです。ただ、京王電鉄さんがイメージ戦略を長くやり続けてきた成果か、最近では鉄道路線としてのイメージはかなり似てきたように私は感じています。

これも“歴史”です。歴史を紐解くことで謎が解けるって部分も大きいですよね。ちなみに、鉄道(特に私鉄)って合併や譲渡、分割、廃止等を繰り返してきた歴史があり、紐解くといろいろなことが見えてきて、面白いんです。

また、帝都電鉄の前身となる東京山手急行電鉄は大井町〜世田谷〜滝野川〜西平井〜洲崎間50km余りの免許を昭和2(1927)に取得した会社で、山手線外部に第二環状線(第二山手線)を形成するという壮大な計画で設立された会社だったのですが、昭和4(1929)にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響から翌昭和5(1930)から昭和6(1931)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた昭和恐慌の嵐が吹き荒れ、それどころではなくなってしまいました。同社の企画を承継した鬼怒川水力電気は昭和3(1928)に渋谷〜吉祥寺間の免許を交付されていた渋谷急行電鉄を東京山手急行電鉄に合併させて東京郊外鉄道と改称した後、収益性が高いと見込まれた旧渋谷急行電鉄の路線の建設を優先させることにし、社名を再度「帝都電鉄」と改め、昭和8(1933)から昭和9(1934)にその全線を順次開業させていきました (なので、帝都電鉄などという雄壮な名称の鉄道会社だったわけです)

この明大前駅(当時は松原駅と呼ばれていました)は、東京山手急行電鉄の第二山手線構想の中で、京王電気軌道線と帝都電鉄井の頭線、そして東京山手急行電鉄線という3つの路線の交差駅になる予定の駅でした。そのため、この甲州街道の陸橋からすぐ吉祥寺寄りにある玉川上水の水道橋にかけての部分は、複々線(帝都電鉄井の頭線と東京山手急行電鉄線の4線分)のスペースが確保されており、実現を見なかった東京山手急行電鉄線の唯一の痕跡となっています。また、井の頭線明大前駅ホームの渋谷寄りにある京王線との立体交差部分も複々線分のスペースが確保されていましたが、ここはエレベーター設置スペースに転用されています。

ちなみに、(その2)で、私の故郷、愛媛県松山市を走っている伊予鉄道では、元井の頭線の3000系電車と元京王線の5000系電車が主力車両として仲良く同じ線路の上を走っているということを書きました。伊予鉄道の軌間(レールの幅)は井の頭線と同じ1,067mm。このため軌間1,372mmの京王線を走っていた5000系電車の台車を3000系電車で使っていた台車に履き替えさせる改造を施してから導入したようです。その年に製造された最も優れた車両に与えられる鉄道友の会のローレル賞を連続で受賞した京王電鉄が誇る3000系と5000系電車が同じ線路を走る…、東京では(京王電鉄では)絶対に見られなかったこの夢の共演がまさか松山で見られるとは思ってもみませんでした。感激です。

甲州街道歩きに戻ります。


横断歩道橋を渡った先にあるのが明治大学の和泉校舎(キャンパス)です。私の友人・知人にも卒業生が何人かいらっしゃるので下手なことは書けませんが (確か出身学校としては弊社の最大派閥のはずです)、明治大学は、岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操 の3人が旧鳥取藩主・池田輝知や旧島原藩主・松平忠和(江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の実弟)らから支援を受け、千代田区有楽町数寄屋橋内の旧松平忠和邸「三楽舎」を校舎として明治14(1881)に開校した明治法律学校 を母体とする大学です。明治19(1886)には神田区駿河台南甲賀町(現在の千代田区神田駿河台一丁目)に移転し、法律学部・行政学部の2学部を設置。明治36(1903)に専門学校令による旧制専門学校となった際に現在の校名の明治大学に改称しました。

昭和9(1934)、陸軍省和泉新田火薬庫の跡地の払い下げを受け、予科を現在の和泉キャンパスに移転。火薬庫の跡地という広大なキャンパスを得たことから工学部や農学部といった理系の学部を含め次々と学部を拡大。現在は10の学部を持ち、東京都に3キャンパス、神奈川県川崎市に1キャンパスを有する日本代表する私学の総合大学の1つとなっています。


現在、明治大学和泉校舎および築地本願寺別院和田堀廟所となっているこの附近は、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡です。当初は、多摩郡上石原宿(現調布市)にあったと伝えられ、宝暦年間(1750年代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ18,896(62,000平方メートル)あり、御蔵地(貯蔵庫)は、5棟・2295(23,000平方メートル)の規模であったといわれています。当時、塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心3人が年番で交代居住し、警備や雑用には付近の16ヶ村に対して、昼夜交代で3人づつの課役が徴せられました。



明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したといわれます。その後当地は、兵部省を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任されておりましたが、大正の末期に廃止されました。明治の末頃までの火薬庫周辺は、雑木林や欅が生い茂り、鬱蒼とした森となっていて、多くの狐や狸が棲息し、余談に人を化かした話等も伝えられています。

京王線と井の頭線の明大前駅ですが、大正2(1913)に京王電気軌道の駅として開業した時の駅名は「火薬庫前駅」というなんとも物騒な駅名でした(陸軍の火薬庫に近かったためです)。さすがに物騒な駅名すぎると問題になったのか、4年後の大正6(1917)に地元の村名をとって松原駅に改称されました。さらに前述のように昭和9(1934)に明治大学の予科が和泉キャンパスに移転してきたので、昭和10(1935)に今の明大前駅に改称しました。地名や駅名って必ず歴史が秘められているので、調べてみるとその昔の様子が窺えるようなところがあり、面白いです。

築地本願寺別院和田堀廟所です。

  

説明書きには次のようなことが書かれています。

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この廟所は浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、阿弥陀如来立像が本尊として安置されています。

大正12(1923)年の関東大震災で築地本願寺は地中57の子院とともに焼失しました。その再建にあたっては他に移転の話もありましたが、結局現地復興となり、昭和10(1935)、インド様式の大本堂の完成を見ました。墓地については他に移転することにしていたところ、陸軍省火薬庫跡だった当地が当時の所管だった大蔵省から払い下げられることになり、昭和4(1929)、出願が許可され、翌昭和5(1930)、当地を所有し、築地から仮本堂として使用されていた建物などを移築して開廟に至りました。そして、地名にちなんで和田堀廟所と名付けられました。12千坪(39,600平方メートル)の広さを有し、富士山が望める閑静な近代的公園式墓地と注目されました。

ところが、昭和20(1945)526日、空襲によって御本尊および御影を除き建物はことごとく焼失してしまいました。しかし、幾多の困難の中、バラック建ての仮本堂を建てて宗教活動を続けました。ようやく昭和28(1953)、インド仏教様式の新本堂が再建され、昭和29(1954)には大谷光明猊下の御親修で落慶法要が勤められ、今日に至っています。

墓地には樋口一葉、九条武子、海音寺潮五郎、古賀政男、水谷八重子、服部良一等、有名人の墓があります。また明暦の大火(1657)で焼失した築地本願寺(当時は浜町御坊)の再建に力を尽くした佃島の人々の墓地があり、その佃島の祖先33名の由来が書かれた石碑も建てられています。
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なるほどぉ〜。そういうことで、築地本願寺の別院がここにあるのですね。


この墓は第616263代と78か月の長きにわたり内閣総理大臣を務められた佐藤栄作元首相のお墓です。佐藤栄作元首相は日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げ、昭和49(1974)にはノーベル平和賞を受賞されておられます。偉大な政治家でした。現在の安倍晋三首相は佐藤栄作元首相の大甥にあたります。


こちらは樋口一葉の墓の入り口です。残念ながら通路を工事中で、近くには行けませんでした。



甲州街道歩きに戻ります。さすがは築地本願寺、別院と言っても広大な敷地の墓地です。このあたりはやたらと寺院が多いところで、遠くに伽藍が幾つも見えます。手前から真教寺、託法寺、善照寺、浄見寺、法照寺、栖岸院、永昌寺、龍泉寺…、これらのお寺は築地本願寺のグループ会社のようなものでしょうか?




甲州街道の右側には玉川上水永泉寺緑地と呼ばれる公園があります。幡ヶ谷のあたりの地形は武蔵野台地の上の平坦な部分が大半を占め、北部の本町4丁目から幡ヶ谷3丁目、笹塚3丁目にかけては、かつてあった神田川の支流に沿って浅い谷になっていて、明治の頃には湿地帯をなし、水田が作られていました。また地域の南縁にほぼ沿って昔の玉川上水が流れていましたが、現在は(その3)でご紹介した京王線の代田橋駅の近辺の一部を除いて暗渠化され、緑道(公園)として整備されています。


このあたりは明治の時代頃までは人通りも少ない農業地帯で、通行人が狸に化かされた怪談話が伝わるほど淋しい地域だったのだそうです。20世紀前半、付近で工場の立地が進み、「幡ヶ谷工業地帯」とも呼ばれました。現在もテルモやオリンパスの工場があります。さらに、1914年頃の幡ヶ谷地域内の京王線開通ならびに大正12(1923)の関東大震災等を契機に宅地化が進み、現在は新宿に近いという利便性からかつての農村風景はすっかり失われてしまい、繁栄する住宅地・商業地となってマンションが立ち並び、店舗が密集する地域へと変貌を遂げています。

ここを左に入ったところに京王線の下高井戸駅があります。やっと下高井戸宿が近づいてきました。





……(その5)に続きます。


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