2018年7月4日水曜日

甲州街道歩き【第2回:内藤新宿→仙川】(その3)

旧街道と言えば、微妙なS字カーブを描きながら、そのあたりの地形の一段高くなっているところ、すなわち稜線伝いに延びているのが一般的なのですが、このあたりの甲州街道に限ってはほぼそれは当てはまりません。ほぼ一直線にまぁ〜っすぐ西へ向かって延びています。かつてこのあたりが武蔵野台地の上の一面の田園地帯だったこともありますが、この甲州街道が江戸時代唯一の軍事用の道路だったことが大きく関係していると言われています。


徳川家康が江戸に幕府を開いた時、有力な仮想敵国としたのは仙台の伊達家でした。そのため、万が一、江戸が北東から攻められて、江戸城が落ちるようなことがあったら、甲州街道を一目散に逃げて親藩である甲府藩の甲府城に立て籠もる計画を立てていたのだそうです。そのために構築した道路が甲州街道ってことです。一目散に逃げるために甲州街道は極力真っ直ぐに作る必要がありました。さらに沿道の四谷には伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)4組から成る鉄砲百人組が、また、八王子には千人衆などの鉄砲隊が配備され、千駄ヶ谷や和泉(現在の明治大学和泉キャンパス付近)には、火薬庫も置かれていました。これは鉄砲兵力が将軍を援護しつついったんは甲府まで避難した後に江戸城奪還を図るためであったと言われています。加えて、沿道の民家は、すべて街道を背にして建てられたとも言われています。そのような軍事色の強い道路であったため、この甲州街道を参勤交代の際に利用した藩は譜代大名である信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3つの藩だけで、それ以外の藩は中山道を利用しました。この譜代の3藩にとっては参勤交代というよりも軍事教練の意味合いのほうが強かったのかもしれません。

中山道は古代からあった東山道をベースにして開通させたように、他の旧街道はそれまでもあった道路を整備して幹線街道としたものがほとんどでしたが、甲州街道だけは江戸時代になって徳川家康(徳川幕府)がある意図を持って新たに開通させた街道だったというわけです。ですからそれまで存在した集落を繋ぐ必要もなく、ほぼ一直線に真っ直ぐに延びているわけです。言ってみれば、最初から高速道路だったってわけですね。この頃の五街道の道幅は、山道を除いておおむね 34 ( 5.47.2 メートル)で、江戸に近いところでは 5 ( 9 メートル)確保されていたと言われていますから、かなりの道幅です。その5間の道幅の道路がほぼ真っ直ぐ一直線に延びていたわけですから、甲州街道の輸送量は相当なものがあったと推定されます。中山道の場合だと現在の中山道である国道17号線は旧中山道とは少し離れた別ルートを通っていますが、甲州街道の場合は違います。旧の甲州街道と現在の甲州街道である国道20号線は、ほぼ重複したルートを通っています。これはそういうところにも関係があるのかな…と、推測しています。


郵便局のすぐ手前の路地を入ると庚申塔があります。案内板によると元禄13(1700)に建立されたものだそうです。旧街道といえば庚申塔ですね。中山道ではいっぱい目にしました。やはり庚申塔があると、旧街道を歩いているのだな…って思えてきます。


東京近辺でクルマの運転中、ラジオで道路交通情報を聴くと、よく名前が出てくる「大原陸橋」です。この大原交差点で環七通り(東京都道318号環状七号線)と交差します。この環七通り(通称:かんなな)は昭和39(1964)の東京オリンピック開催に向けたオリンピック道路としての整備が行われた道路で、駒沢競技場駒沢オリンピック公園総合運動場や戸田漕艇場と羽田空港とを結ぶ主要道路でした。今でも東京23区内を環状に廻る一般道としては最も外側を通る道路で、その性格上、非常に交通量が多く、激しい渋滞がたびたび発生することで知られています。特に新宿に向かう甲州街道(国道20号線)との交差点である大原交差点付近は渋滞が最も激しいところで、ラジオの道路交通情報でも「環七外回りは大原陸橋を先頭に…」と放送されることが多く、お馴染みの地点になっています。この日はクルマも流れているようです。


大原交差点の横断歩道で甲州街道(国道20号線)を横断し、反対側の車線をさらに西へ進みます。

ここまでは渋谷区だったのですが、環七通りを過ぎたあたりで甲州街道(国道20号線)より北側は杉並区、南側は世田谷区に変わります。元来この地域も、現在の渋谷区同様、武蔵国多摩郡であり、江戸時代から明治・大正時代も多摩地域に属していました (すなわち、江戸の市域・城下町には含まれていませんでした)。地理的に東京都区部の扱いになったのは、昭和4(1929)に起きた世界恐慌後の昭和7(1932)に東京市に編入されて以降のことです。

明治初年時点での多摩郡に含まれる地域は明治2(1869)には品川県に属していました。明治4(1871)、品川県を廃止し東京府(2)が発足すると多摩郡地域は一旦は東京府へ編入されるのですが、多摩郡内が横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるとの神奈川県知事・陸奥宗光の上申により全域が神奈川県に移管されました。ただし、東部の中野村ほか31(現在の中野区・杉並区に相当)が東京府に戻る運動を展開。翌明治5(1872)に再び東京府へ移管され東京府東多摩郡となりました。明治11(1878)に施行された郡区町村編制法により、旧多摩郡のうち神奈川県管下の区域は3分割され西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡に、東京府管下の区域は東多摩郡となりました。今でも東京都西部の市町村部のことを「三多摩地域」と呼ぶのですが、これはこの時の名残りで、三多摩地域とは、この時に神奈川県管下に置かれていた西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡のエリアのことを指します。

この後、神奈川県管轄だった多摩3(三多摩地域)は帝都東京の水源である多摩川や玉川上水を東京府の管理下に置くことを理由として明治26(1893)に東京府へ移管され、それぞれ東京府西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡となります。加えて、明治29(1896)には既に東京府管下になっていた東多摩郡が南豊島郡と合併し豊多摩郡となります。

当初、江戸時代の朱引の範囲内の15区で分立した東京市ですが、都市の急速な成長に伴い、周辺の郡部の町域にまで生活圏が拡大してきたことから、昭和7(1932)101日、東京市には周辺82町村が編入され、渋谷区や淀橋区など20の区が新たに発足し、東京市は35区となりました。杉並区も世田谷区もこの時に発足したものです。

杉並区は豊多摩郡に属していた町村のうち、杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町の4町の区域をもって発足しました。この4町はもとの東多摩郡に属していたところで、東多摩郡の残りの2町である中野町と野方町は合併して中野区となりました。中野区の名称は「中野」の中と「野方」の野を1文字ずつ取ったと言われています。杉並区の区名は、江戸時代の初期、青梅街道沿いに見事な杉並木があったことに由来します。この杉並木は明治維新前になくなってしまっていたのですが、その後「杉並」の名は村名として採用され、町名、さらに区名となって現在に至っているというわけです。

いっぽう、世田谷区の場合はいささか複雑です。世田谷区の大部分はもともとは東京府荏原郡と呼ばれていたところで、そこに北多摩郡の一部が含まれます。荏原の地名の奈良時代に荏胡麻(えごま)が繁茂していたので、このあたりが「荏の原」と言われていたことに由来するのだそうです。この荏原郡も明治2(1869)には品川県に属していました。明治4(1871)、品川県を廃止し東京府(2)が発足すると東京府荏原郡となりました。余談ですが、明治11(1878)に「郡区町村編制法」により東京15区が設置されるのですが、旧荏原郡のうち下高輪町、芝田町、芝通新町、芝伊皿子町、芝松坂町、三田四丁目、白金台町の7つの町が分割されて芝区となります。この芝区が後の港区です。

明治22(1889)の市町村制施行に伴い荏原郡の村々は合併し、(現在の世田谷区の範囲内に限れば)世田ヶ谷村(後の世田ヶ谷町)、駒沢村(後の駒沢町)、松沢村、玉川村が生まれました。同様に北多摩郡の村々も合併して、(現在の世田谷区の範囲内に限れば)砧村と千歳村が生まれました。そして、前述のように、明治26(1893)に北多摩郡砧村と千歳村を含む三多摩郡が神奈川県より東京府に編入されました。昭和7(1932)、東京市に周辺82町村が編入され20の区が新たに発足した際、上記の荏原郡の町村は東京市に編入されて世田谷区になりました。

この際、荏原郡に残っていた品川町、大井町、大崎町の3町域をもって品川区が、荏原町の町域をもって荏原区がそれぞれ誕生しました。そして、昭和22(1947)、品川区が荏原区を編入して、今の品川区の形となります。弊社ハレックスが本社を置く五反田もかつては荏原郡大崎町の一部だったようです。なので、江戸時代は荏原郡大崎村でした。目黒川の谷がほぼ東西に流れ、その谷の周辺の水田の一区画が5(5,000平方メートル)であったために名づけられたのだそうです。五反田は大崎村の小字に過ぎず、大崎町(大崎村)の周辺でしか知られていないような地名だったのですが、明治44(1911)に山手線の五反田駅が開業したことで、一躍その地名が知られるようになったようです。

昭和7(1932)に発足した世田谷区は、その2年後の昭和9(1936)、北多摩郡砧村と千歳村が東京市世田谷区を編入し、現在の世田谷区の形ができあがります。なので、この甲州街道沿いの世田谷区は、この北多摩郡から昭和9(1936)に世田谷区に編入された旧千歳村ということになります。世田谷という区名は古くからこの地にある世田谷郷から付けられたもので、その世田谷とは、浅瀬の開拓の意味で「せたかい」、台地の間の狭い谷の意味で「せとがや(瀬戸ヶ谷)」が訛ったという説があります。

先に説明した渋谷区同様、杉並区も世田谷区も(さらに言うと中野区も品川区も)このような経緯で発足した区であり、実は行政機構としての歴史は昭和以降のことに過ぎず、比較的浅いわけです。このように、これらの区は今でこそ東京都に組み込まれ、東京都の特別区である23区の1つとなっていますが、東京都と言っても元々の江戸ではなく、江戸が東京市として発展していく過程において、周辺町村から東京市に編入されたところでした。江戸を取り囲む町村ということで言えば、私が住む埼玉県さいたま市近辺を含む埼玉県南部地域は武蔵国の北足立郡でした。武蔵国の郡ということは渋谷区や杉並区、中野区の前身である多摩郡(東多摩郡)や世田谷区の前身である荏原郡と同じです。都心(江戸城・皇居)からの直線距離で言えば、東京特別区の中では都心から一番遠い場所にある世田谷区などは、多摩地域では吉祥寺、埼玉県では川口市、千葉県の松戸市、市川市とほぼ同じ都心15km圏にあり、似たような距離のところであると言えます。ただ、埼玉県の場合は荒川、千葉県の場合は江戸川という大きな河川が境界に横たわっているために、東京市への編入が考えられることがなかっただけだと思っています。

ちなみに、東京都区部を中心として東京都心から半径50km70kmの圏内にある東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の13県を「東京都市圏」と呼んだりしますが、この東京都市圏に限っても総人口は3,600万人以上で、世界最大の都市圏となっています。そのうち東京都の人口は約1,374万人(東京23区だけに限れば約947万人)で、残りの約2,200万人は神奈川県や埼玉県、千葉県という東京都を取り巻く周辺地域3県に住む人の人口です。そうなると、もはや東京都か神奈川県か埼玉県か千葉県かなどで区別して議論するのも大して意味が感じられない時代になってきていると私は思っています。と言うか、歴史的にもともとそういう区別はなかったわけですから。

そういうことが少しは影響しているのか、元・北足立郡である埼玉県南部の住民の中には、東京都足立区のことを、今でも埼玉県の飛び地だと真面目に思っている人が意外に多いと聞きます。足立区は、明治4(1871)の廃藩置県の際に元々の足立郡が南北に分割されて、そのうちの南部の地域だけが東京府(2)に移管され、明治11(1878)に施行された郡区町村編制法により埼玉県に残った足立郡が北足立郡、東京府に移管された足立郡が南足立郡になったという経緯がありますからね。足立区が発足するのは昭和7(1932)に東京市に周辺82町村が編入され20の区が新たに発足した時のことで、南足立郡全域が東京市に編入され、新たに東京市足立区になりました。それにより、“足立”の本家本流を東京都にかっさらわれたという悔しい思いも埼玉県南部の住民の根底にはあるのではないか…と思われます。これには埼玉県さいたま市在住30年の私も激しく同意します。

江戸時代には江戸を取り囲む周辺郡部として、ほぼ同じような場所だったこれらの地域も、明治維新後の政治的な様々な思惑から東京府や東京市に組み込まれるか否かに分かれるのですが、それによりその後の発展において大きな違いが生じることになります。首都東京の財政力とブランド力、特に東急電鉄、京急電鉄、小田急電鉄、京王電鉄、西武鉄道、東武鉄道、京成電鉄といった私鉄各社がそれぞれのターミナル駅(渋谷、品川、新宿、池袋、上野、浅草)を中心に積極的に沿線の宅地開発を行ったことで、大きな差を生み出すことになります。特に顕著なのが元の西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡という東京都の三多摩地域。江戸時代には武蔵野台地に広がる一面の田園地帯で、狸や狐がふつうに走り回っていたこの三多摩地域には、現在では東京都民の約3分の1にあたる約423万人が居住しています。

この三多摩地域ですが、明治28(1895)に当時の内務省が東京15区を政府の管理下に置くために「東京都制および多摩県設置法案」を出したものの、帝国議会や東京市民から自治権を奪うものだとして猛烈な反発を受け、成立には至らなかったという経緯があります。この「多摩県」構想は、西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡という多摩3郡で1つの県を構成するという案で、この構想での県庁所在地は八王子市とされていました。今考えるとこの「多摩県」も十分にありかな…と私は思っています。なんと言っても三多摩地域には約423万人も人口がいるわけで、その人口は全国の47都道府県の中でも約511万人の福岡県に次いで全国10番目であり、現在の10位である静岡県の367万人よりも50万人以上多いわけですから。 (私は基本的に道州制反対論者であり、逆にもっときめ細かい行政を行うためには都道府県はもっと細かく分割すべきで、その上で都道府県と市町村の役割を大胆に見直すべきではないか…という持論を密かに持っています。)

余談があまりにも長くなってしまいました。申し訳ありません。甲州街道歩きに戻ります。


左手から川(らしきもの)が寄ってきて、その先に植栽のある小さな公園があります。


京王線代田橋駅のすぐ脇に玉川上水の旧水路が暗渠→開渠となって一部だけ顔を覗かせているところがあります。少し先ですぐまた暗渠の中に姿を消してしまうので貴重な姿です。昔の玉川上水はここで甲州街道を横断し、ここから先(上流方向)は街道の右側を流れていました。その玉川上水の上を渡る橋が代田橋で、江戸名所図会にも「代太橋」として取り上げられています。それによると、当時、橋は土で覆われていたのでその形が顕れなかった、と書かれているのだそうです。



【第1回】の(その6)でも四谷大木戸跡碑の隣には玉川上水水番所跡のところで書きましたが、八王子付近までの甲州街道歩きではこの玉川上水が重要なキーワードになりますので、その遺構を目にすることができたところで、繰り返しになる部分も多いのですが、もう一度書かせていただきます。


玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)のことで、江戸の六上水(神田上水、玉川上水、本所上水、青山上水、三田上水、千川上水)の一つです。

天正18(1590)、関白・秀吉から関東240万石への国替えを要求された徳川家康は家臣団が猛反対するなか、「関東には未来(のぞみ)がある」と居城を江戸に移して、街づくりに着手するのですが、その中でも飲料水の確保はまず最初に手を付けないといけない喫緊の課題でした。特に城下の東南側の低地は湿地帯を埋立て造られた土地であり、井戸を掘っても海水が混じり、良水は得られなかったため、上水の建設は必須となっていました。そこで徳川家康は天正18(1590)、配下の大久保藤五郎(忠行)に上水道の整備を命じます。大久保藤五郎が最初に見立てた上水は小石川上水で、この上水道がその後発展・拡張したのが神田上水であるといわれています。

神田上水は三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井之頭池を水源とする上水です。この井之頭池を水源とするようになったのは慶長年間間(1596年〜1614)以降のことであると推定されています。井之頭池を水源として見立てたのは前述の大久保藤五郎と内田六次郎の二人で、内田家はその後、明和6(1770)に罷免されるまで代々神田上水の水元役を勤めました。井之頭池は古くは狛江といわれ、かつては湧水口が七ヶ所あったことから「七井の池」とも呼ばれていました。井之頭と命名したのは3代将軍徳川家光だと言われています。

神田上水は完成したものの、江戸の都市拡大に伴って急増した水需要への対応は幕政の急務でした。そこで次に江戸幕府が目をつけたのが、多摩川の水でした。『玉川上水起元』(1803)によると、承応元年(1652)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画されました。多摩の羽村(現在の東京都羽村市)にある羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配するという計画です。

工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治が就き、庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟が工事を請負いました。幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは、承応2(1653)の正月で、着工が同年4月。羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったり、浸透性の高い関東ローム層の土壌に水が吸い込まれてしまう区間があったりして、引水工事は困難を極めましたが、約半年で羽村取水堰〜四谷大木戸間約43kmを開通し、承応2(1653)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3(1654)6月から江戸市中への通水が開始されました。羽村から四谷大木戸までの約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれていました。一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されています。庄右衛門・清右衛門の兄弟は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。それにしても、青梅市に近い多摩の羽村市からこの四谷大木戸までの約43kmの露天掘りの用水路をわずか半年で開通させるとは!  それも現代のような大型重機もないなかで!  当時の技術力の高さに驚きます。

ちなみに、江戸の上水道ですが、四谷大木戸の水番所以下は基本的に「自然流下方式」で水の供給が行われており、基本的に樋と枡を用いた地下水道が使われていました。樋とは送水菅のことで、石樋と木樋が一般的で他に瓦樋・竹樋などの種類もありました。このうち石樋は幹線として使われ、木樋は石樋に繋がる支線として主に用いられました。昭和53(1978)に霞ヶ関にある外務省の地下から玉川上水の幹線として使用されていた石樋が発掘されました。この石樋は側壁が石を積み上げて作られていることから「石垣樋」と呼ばれていますが、外径寸法が1,250mm×1,300mm、内径寸法が850mm×750mmと大型のもので、石と石との間には粘土を詰め込み、漏水を防ぐ工夫が施されていました。この発掘された玉川上水の石樋のレプリカが文京区本郷にある東京都水道歴史館に展示されています。

枡は貯水槽として一時的に水を溜めておく役割をもった施設です。枡は木または石でできており、樋を通すための穴が開いていました。「埋枡」と「高枡」の2種類があり、地下に設けた枡を「埋枡」、地上に設けた枡を「高枡」と言います。さらに「高枡」には流水を高所に上げる「登り竜枡」と流水を低所に落とす「下り竜枡」の二種類がありました。それに水の勢い(水量・水質)を見たりするための「水見枡」や、分水するときに使われる「わかれ枡(分水枡)」といった枡も存在しており、これらの樋と枡を使って給水をしていたわけです。この樋と枡による配管は元禄年間(1688年〜1704)には町屋の台所にも及んでいたようです。道路部分の伏樋から各戸に水を引き込み、宅地内の上水用井戸に水が流れるようになっていました。長屋にも上水井戸が設置され、住人たちが共同で使っていました。水量と水質に関しては厳重な管理が敷かれていました。神田上水、玉川上水の両上水とも各所に番人を置いて毎日水量と水質を検査していたようです。

江戸の上水道は地下に水道管を敷設していた点で現在の水道に通ずるところがあります。「水道の水で産湯をつかい」と江戸っ子の自慢でもあった上水道は当時の最新の技術を駆使したものだったわけです。当時、これほどの設備を持つ都市は世界でも数えるくらいで、おまけに江戸は世界最大の人口(100万人)を誇る世界一の大都市でした。これは日本人として誇るべきことである!…と私は思います。

上水の建設は、玉川上水の完成後も本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水(三田用水)、千川上水の四上水が加わり、計6つの上水道が存在しました (青山・三田・千川の三上水は玉川上水の分水)。これを「江戸の六上水」と言います。しかし、江戸時代を通じて使用されたのは神田上水と玉川上水の両上水に限られ、他の四上水は、享保7(1722)に突如一斉に廃止されてしまいました。この時代は幕府の財政難を解消するため 8 代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」が行われている真っ最中であり、その享保の改革が大きく影響しているものと思われます。

このように、玉川上水は江戸の町の発展を支える最重要インフラ設備であり、江戸時代初期に玉川上水を開削したことにより、今の東京がある…と言っても過言ではないと私は思います。玉川上水はもっともっと注目されるべきです。そうそう、驚くことに、この玉川上水は、明治時代の一時期には多摩地域から東京に農産物等を運ぶための船の運航にも行われていたといわれています。


横断歩道橋に代田橋駅前の表示があります。この横断歩道橋の手前を左に入った先に、京王線の代田橋駅があります。


玉川上水が暗渠化される以前は、駅の北西100メートルほどのところで甲州街道が玉川上水を越えており、そこに「代田橋」という橋が架かっていました。この橋の名称はこの付近の地名である「代田」(代田村)より付けられたのですが、さらにその「代田」の由来は「ダイダラボッチ」という巨人伝説に繋がるとも言われています。昔このあたりには大きな窪地があったが、それが想像上の巨人「ダイダラボッチ」の歩いた足跡だ…、というもので、唱えられているのは著名な民俗学者・柳田國男さんです。


日本橋から13kmの道標が立っています。京王線幡ヶ谷駅の手前に11kmの道標が立っていたので、あそこから2km歩いてきたのですね。まだたった2km、新宿からだとおよそ3kmですか…。この日も先は長いです。


井ノ頭通り(東京都道413号赤坂杉並線)と松原交差点で交差します。井ノ頭通りは渋谷区宇田川町の渋谷駅前付近と武蔵野市関前にある境浄水場付近を結ぶ道路の通称です。この先にある和田堀給水所から境浄水場までの間に水道管を敷設するための施設用地を転用してできた道路であったために、以前は水道道路と呼ばれていました。


(その1)の文化服装学院前の玉川上水のモニュメントのところで、明治31(1898)、東京の近代水道創設に伴い、杉並区和泉町から淀橋浄水場の間に新水路が開削された…ということを書きましたが、その時に一時的に玉川上水の水を蓄える浄水池として整備されたのが和田堀給水所(和田堀浄水池)でした。東京市の最初期の水道事業で、この和田堀給水所から淀橋浄水場への送水路が通されていました。すなわち、明治31(1898)より後は、ここで玉川上水の流路は北へ一旦進路を変えていたというわけのようです。


京王線の明大前駅が近づいてきました。ここで急に「すずらん通り」という商店街に入っていきます。実はこの日はこの商店街の途中にあるカラオケBanBanというカラオケ屋さんでお弁当の昼食を摂りました。大勢の参加者がいるので、旅行会社としては昼食場所の確保が最大の課題となります。で、今回、昼食会場として使ったのがカラオケ屋さんということのようです。なるほどね。


56人ずつに分かれて、カラオケの個室でお弁当をいただいたのですが、「1曲、歌いたいなぁ~」って参加者が続出して、笑い声が溢れます。こういうのもいいですね。



……(その4)に続きます。






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