2018年7月3日火曜日

甲州街道歩き【第2回:内藤新宿→仙川】(その2)


甲州街道からほんのちょっと右に入った高知新聞の社員寮の前にある「旗洗池(はたあらいけ)」の跡です。ここには後三年の役(1083年~1087)ののち、八幡太郎義家(源義家)が上洛のときにこのあたりを通り、この池で白旗を洗って傍らの松にかけて乾かしたという伝説があります。その白旗はのちに金王八幡宮の宝物となり、いま残されている旗がそれであるといわれています。この池は60平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水でした。昭和38(1963)に埋められ、今は明治39(1906)4月、ここに遊んだ東郷平八郎が揮毫した「洗旗池」の記念碑だけが残されています。

東郷平八郎と言えば、日露戦争において、当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させて日本を勝利に導いた日本海海戦が思い出されます。東郷平八郎はその時の日本海軍の聯合艦隊の司令長官でした。日本海海戦が行われたのは明治38(1905)527日から28日にかけて。なので、明治39(1906)4月というのはその翌年ということになります。この年、東郷平八郎は日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与され、海軍軍令部長を務めていました。それにしても見事な達筆です。昔の武人は優れた文人でもありました。

源義家がはたして白旗を洗ったかどうかについての証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源ともなった有名な池なのだそうです。


この説明書きに登場する金王八幡宮は、現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家が寛治6(1092)に創建されたとされる神社です。現在の渋谷駅の近くにあります。河崎基家が前九年の役(1051年〜1062)の功労により源頼義から下賜された地領がこの渋谷の地でした。ここは渋谷川(穏田川)と宇田川が合流する現在の渋谷駅周辺が谷状の地形となっており、古来より「渋谷」と呼ばれていました。後にこのあたりは武蔵国豊嶋郡渋谷郷と呼ばれるようになります。金王八幡宮は江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされています。

甲州街道(国道20号線)に戻り、少し先の「国道20号 甲州街道」の文字が書かれた横断歩道橋を渡り、反対側の車線の歩道に移ります。


横断歩道橋を渡った先に甲州街道に並行して細長い公園が続いています。これは玉川上水の旧水路の跡で、現在、水路は暗渠になっているのですが、その上を緑道として公園化したものです。幅が5メートルほどのちょっと低くなった帯が続いています。これが玉川上水の跡です。この幅、この微妙な湾曲具合、間違いなく玉川上水の跡ですね。このあたりには玉川上水の跡を利用した公園が甲州街道沿いにところどころあります。



甲州街道(国道20号線)に戻り、先に進みます。左手には玉川上水の跡を利用した公園(遊歩道)が続いています。 



甲州街道(国道20号線)の道路交通情報の表示板があります。上高井戸、給田、調布、これから目指す地名が載っています。「上高井戸まで約10  給田まで約15  調布ICまで約35分」ですか。この日の甲州街道は比較的順調にクルマが流れているようです。給田(きゅうでん)というのがこの日のゴールポイントである仙川のすぐ近くです。クルマで行けば約15分で行けるところをエッチラオッチラ歩いていく、これぞ街道歩きです。道路交通情報表示板の先にある道路標識には主要地点までの距離が示されているのですが、「八王子まで36km、甲府まで124km」ですか…。闘志が湧いてきます。



街道左手に、左斜め前に入ってゆく路地がありますが、そこに厳重な金網で守られた子育て地蔵があります。案内板によるとこのお地蔵さんは貞享3(1686)に作られたもので、このお地蔵さんがあったことから、この付近の低地は「地蔵窪」と呼ばれているのだそうです。



今までウッカリして気づかなかったのですが、道路脇に「日本橋から11km」という国道20号線の道程標が立っています。甲州街道も国道20号線も同じ日本橋を起点として、ほぼ同じルートを通っています。ここまで11km歩いてきたってことですね。現代の“一里塚”のようなものです。これから気をつけて見ていきたいと思います。


京王新線の幡ヶ谷駅前を通り過ぎます。京王線は京王新線を含め、このあたりはずっと甲州街道(国道20号線)に並行するように地下を走っています。


  
正徳元年(1711)に建立された牛窪地蔵堂です。以前、この地は極悪人の刑場として、牛を使って最も厳しい「牛裂きの刑」という両脚から股を引き裂く酷刑が施行された地であったと伝えられています。窪地で牛による処刑が行われたということで牛窪という地名の由来にもなりました。ですが、宝永より正徳年間にかけてこの地域で悪い疫病が流行り、これが「股裂きの刑」で犠牲になった罪人の祟りではないかと噂され、罪人たちの霊を慰めるために、この牛窪地蔵尊が建立されたとされています。その後、子供の安泰り、苦難の時に身代わりとなる身代わり地蔵として、また、雨乞いにご利益のある地蔵して地元の信仰を集めたのだそうです。 


  
左手に鉄道の高架線が見えてきました。京王線の線路です。京王線はこのあたりまでが地下区間で、ここ(笹塚駅の手前)で地上に出てきたってことです。 



幡ヶ谷陸橋がある笹塚の交差点です。ここで甲州街道(国道20号線)は中野通り(東京都道420号鮫洲大山線)と交差します。



京王線の笹塚駅です。デッカク書かれた陸橋の名称は「幡ヶ谷陸橋」ですが、そこにある交差点の名称と駅の名称は「笹塚」です。

京王線は、東京都新宿区の新宿駅から調布市の調布駅、八王子市の北野駅を経由して同市の京王八王子駅までを結ぶ京王電鉄の鉄道路線です。新宿駅から府中駅までの区間はほぼ甲州街道(現在の国道20号線)と並行して線路がほぼ一直線で延びています。府中駅を境にして長い直線区間が少なくなり、聖蹟桜ヶ丘駅より西の区間では川崎街道や北野街道に沿いながら浅川を遡るルートをとっています。それは建設時の経緯によるものです。


京王線は京王電気軌道が大正2(1913)に現在の笹塚駅〜調布駅を開通させたのが最初です。すなわち、この笹塚駅は京王線開業時の起点駅でした。その後、小刻みに延長を繰り返し、新宿追分駅〜府中駅間を大正5(1916)に全通させました。当初(全通するまでの間)、新宿駅〜笹塚駅間、調布駅〜府中駅〜国分寺駅間はバスによる連絡を行っていました。これが東京で最初のバス営業とされています。

新宿〜八王子間の鉄道は甲武鉄道が明治22(1889)に開業し、鉄道国有法により明治39(1906)には官設鉄道(後の国鉄)の中央本線となっていたのですが、江戸時代までの主要交通路だった甲州街道からはかなり北方に離れ、中野〜立川間ではむしろ青梅街道や五日市街道に近い武蔵野台地を直線で結んでいたのに対し、この京王電気軌道線は内藤新宿から高井戸宿や布田五宿を経て府中宿まで、甲州街道に沿ってかつての各宿場を結んでいたことに特徴がありました。

いっぽう、府中駅〜東八王子駅(現在の京王八王子駅)間は、玉南電気鉄道により大正14(1925)に開業しました(もともと京王線は府中駅を境として別の鉄道会社の路線でした)。この区間は当初、軌道法に基づく軌道ではなく地方鉄道法に基づく鉄道として軌間1,067mmで建設されたため、京王電気軌道と玉南電気鉄道とは直通運転ができませんでした。 このため、大正15/昭和元年(1926)に京王電気軌道は玉南電気鉄道を合併。改めて軌道特許を取得して同区間を軌間1,372mmに変更しました。これにより念願の新宿〜八王子間の直通運転が可能になりました。新宿追分駅〜東八王子駅間の直通運転が開始されたのは昭和3(1928)のことです。

先ほど、京王電気軌道は軌道法に基づく軌道として開業したということを書きました。軌道法は道路に敷設される鉄道に適用される日本の法律です。鉄道の基本となる部分では、鉄道事業法による鉄道と軌道法による軌道との間に大きな相違はありません。しかし専用の通行空間を持つ鉄道と、一般道路交通と通行空間を共用する軌道との間にはかなりの相違があるのも事実で、その一番大きなものはレール間隔。鉄道線路のレール間隔をあらわす軌間は1,435mm(4フィート8.5インチ)が世界的な標準軌とされ、日本でも新幹線や一部私鉄路線(京急、阪急等)でこの標準軌が使用されています。それよりレール間の幅が狭い線路は狭軌と呼ばれ、JRの在来線をはじめ多くの鉄道路線で使われている軌間は1,067mm(3フィート6インチ)、通称「三六(サブロク)軌間」と呼ばれているものです。

いっぽう、軌道法で採用された軌間は1,372 mm(4フィート6インチ)。これはその出自から馬車軌間とも呼ばれています。日本国内では東京馬車鉄道が明治15(1882)の開業時から使用した軌間で、東京電車鉄道と改称して動力を電気に改めた後も軌間はそのまま引き継がれ、同じ東京市内で開業した東京市街鉄道と東京電気鉄道も1,372 mm軌間を採用しました。この三社は合併して東京鉄道と改称した後、東京市に買収されて東京市電気局の運営による東京市電(のちの東京都電)に引き継がれることになるのですが、東京市電への乗り入れや中古車両の購入を視野に入れた同業他社もこの1,372 mm軌間を採用しました。おそらく京王電気軌道も東京市電への乗り入れを目論んでいたのだと思われます。

現在は荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区の早稲田停留場を結ぶ荒川線12.2km1路線のみが辛うじて残っているだけですが、かつて東京都内の道路上には都電と愛称で呼ばれる路面電車が縦横に走っていました。最盛期の昭和30(1955年頃)には総営業キロ約213km40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車網でした。西岸良平さんの漫画『三丁目の夕日』を原作として吉岡秀隆さんが主演した映画『ALWAYS 三丁目の夕日』はちょうどその頃を舞台にしたもので、スクリーンには都内を走る都電の姿が数多く登場しています。都電はモータリゼーションの進展や営団地下鉄、都営地下鉄の発達によって採算性が急激に悪化していき、昭和42(1967)に東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として昭和47(1972)までに廃止されてしまいました。都電が廃止されると、その系統ごとに東京都交通局により代替バスが運行されるようになります。これが現在の都営バスです (一部経路が都電時代からやや変更されている区間もあります)。ちなみに、一時期よりかなり数は減りましたが、都営バスの保有車両数は現在でも1,000台以上。国内バス事業者では西日本鉄道、神奈川中央交通に次ぐもので、公営バス事業者では最大という規模です。

現在、日本国内で1,372 mm軌間を採用している鉄道路線としては、高速鉄道としては京王電鉄京王線と京王線と直通運転を行う都営地下鉄新宿線のみで、ほかに東京急行電鉄の世田谷線と都電荒川線、そして東京馬車鉄道の技術指導により開業した函館市電となっています。

軌道法に基づく軌道として開業したこともあり、京王線の幡ヶ谷駅以東は戦前、甲州街道を走る軌道でした。また、新宿方の起点は、現在はJR新宿駅の西側にある京王百貨店の地下二階ですが、東京市電への乗り入れを目論んでいたこともあり、当初は新宿駅南口のJRの線路を乗り越えた先の新宿追分(新宿伊勢丹前交差点。現在の新宿三丁目駅に相当)にありました。昭和11(1936)、幡ヶ谷駅より(幡ヶ谷)新町までは玉川上水を暗渠(地下トンネル)とした上に専用軌道を敷設。新宿起点も追分交差点上から脇の四谷新宿駅(のちの京王新宿駅。現在は京王新宿三丁目ビルが立地)に移転しました。戦争末期の昭和20(1945)、四谷新宿駅〜初台駅間にあった天神橋変電所が空襲に遭って電圧が低下し、新宿駅南口の跨線橋の坂を電車が上れなくなったため、西口の現在の場所に新たなターミナルが作られました。

以降も、新宿駅と文化服装学院前(この日のスタートポイントでした)との間、約1kmは甲州街道(国道20号線)上に軌道が敷設されており、昭和28(1953)には道路中央が専用軌道化されました。しかし、新宿駅周辺の甲州街道上り線を横切る踏切に遮断機が設けられていなかったことによるトラブルが相次ぎ、また甲州街道自体の拡幅の必要に迫られ、京王線軌道敷を移設することになりました。こうして新宿駅は昭和38(1963)4月に現在の地下駅が完成し、同区間が地下化され、同年8月には架線電圧を1500Vに昇圧しました。

京王線は府中(武蔵国の国府所在地)や金剛寺(高幡不動尊)の門前など、古代からある甲州街道沿いの町々を通り、沿線には一定の交通需要があったのですが、競合する国鉄(JR東日本)中央本線(国電中央線快速区間)や関東の他の大手民鉄と比較すると、輸送力の増強は遅れていました。しかし、第二次世界大戦後に東京都の多摩地域では人口が急増し、京王グループ自体も京王不動産による住宅開発を含めて行ったことで、京王線の乗車人員は激増していきました。このため、京王帝都電鉄(1998年に京王電鉄へ改称)はこの新宿駅の地下駅化と架線電圧の1500Vへの昇圧が完成した昭和38(1963)に新型の5000系電車を登場させ、新宿駅~東八王子駅間を最高時速90km/時、所要時間約40分で結ぶ特急の運転を開始しました。それまでグリーン一色であった京王線にあって、アイボリーにエンジの帯の斬新な塗色をまとったこの新型車両は、そのスピード感あふれるデザインとともに京王線のイメージを大いにアップさせました。この車両は、前年の3000系電車に続き、昭和39年度鉄道友の会の「ローレル賞」を受賞し、関東の私鉄における名車の1つと呼ばれています。私はこの京王線の5000系電車が大好きでした。現在、この5000系電車は京王線での運用を終了し、幾つかの地方私鉄を第2の職場として最後の活躍をしています。私の故郷の愛媛県松山市を走る伊予鉄道でも、この京王線の5000系電車が同じく京王電鉄の井の頭線を走っていた3000系電車ともども今も主力車両として活躍してくれています。京王5000系ファンとしては嬉しい限りです。

参考までに、これが伊予鉄道700系電車、私が大好きだった元の京王電鉄5000系電車です。首都圏を離れて、四国松山の地で今も頑張っています。車体がオレンジ色を基調とした伊予鉄道のカラーに塗り替えられていますが(さらに今はオレンジ色1色に塗り替えられていますが)、今も車体や車内に京王帝都電鉄の社紋が残っていたりします。かつては京王線の特急として武蔵野台地の上でその快速ぶりを遺憾なく発揮していましたが、今は道後平野をのぉ〜んびり走っています。




京王線の地下化は翌昭和39(1964)に初台駅の西側まで延長され、昭和45(1970)には全線で複線化が行われました。さらに、昭和53(1978)には京王新線の開業により新宿駅〜笹塚駅間の複々線化が実現し、ついに昭和55(1980)316日からは京王線と都営地下鉄新宿線との相互直通運転が開始されました。ここに大正2(1913)に京王電気軌道が開業して以来悲願だった都営線への直通乗り入れによる都心延伸が実現したわけです。その後の昭和58(1983)には笹塚駅東側まで地下区間が延長されました。なお、京王新線の開業と同時に京王線の全列車は初台、幡ヶ谷の両駅を通過することになり、さらなるスピードアップが図られました。


笹塚跡です。昔、このあたりの甲州街道の南北両側に、直径が1メートルほどの塚(盛り土)がありました。その上に笹(または竹)が生い茂っていたことから笹塚と呼ばれていたようです。その塚が慶長9(1604)に設置された一里塚であるかどうかははっきりしませんが、この塚に一里塚の印を記載している古地図もあります。また、江戸時代の文書にも笹塚のことが簡単に述べられています。大正5(1916)に発刊された『奥多摩郡誌』には、「甲州街道の北側に石塚があったが、今は見られない」と書いてあります。


  
この塚があったことから、このあたり一帯を昔から笹塚と呼び、今もそれが町名として残っているのだそうです。


……(その3)に続きます。


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