2018年7月13日金曜日

甲州街道歩き【第3回:仙川→府中】(その5)

八幡宿交差点です。八幡宿は“宿”という字は付いてはいますが宿場ではなく、農業中心の集落で、大國魂神社の社領に属していて、国府八幡宮の周辺に発達した村落でした。


武蔵国府八幡宮の入り口のちょっと手前()に、2本のクスノキの大木が聳え、道路に覆いかぶさるように豊かな枝葉を茂らしています。その奥に、まるで廃校になった小学校のような鉄筋コンクリート4階建ての大きな建物があり、「大嶽電機」の看板が立っています。錆びた鉄筋があちこちで剥きだしとなり、蔦が壁を這い上がって屋上まで呑み込もうとしています。この大嶽電機の建物は1950年代に建てられた工場で、1980年代後半までは電気機器のトランス(変圧器)をここで製造し、海外にも輸出していたのだそうです。


京王電鉄競馬場線の線路を挟んで武蔵国府八幡宮があります。国府八幡宮は聖武天皇(在位724年~749)が一国一社の八幡宮として創建したと伝えられている由緒ある神社であり、大國魂神社の境外末社の1つです。旧甲州街道に面した鳥居の手前に、文化11(1814)に建造された常夜燈があります。台座には常夜燈、燈籠正面に秋葉大権現と刻まれています。ここから参道を行くと、途中に京王競馬場線の踏切りが横切っており、ここが境内であることを忘れてしまいます。踏切りを渡って参道を進むと、国富八幡宮の拝殿が左側にあります。鳥居の柱には「昭和30年京王帝都寄進」と記載されています。京王帝都とは京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)のことですね。


この八幡宿交差点を左に入ったところに東京競馬場があります。


ここから右に行ったところにある国道20号線の小金井街道入口交差点あたりに昭和39(1964)の東京オリンピックにおける50km競歩の折り返し点があり、その記念碑が建立されています。34名の選手で争われた男子50キロメートル競歩は1018日に雨の中で行われ、イタリヤのアブトン・バミッチ選手が優勝しました。


このあたりが府中宿の江戸方(東側)の入り口でした。

府中宿は、甲州街道の江戸の日本橋から約7里半に位置する4番目(数え方によっては9番目とも)の宿場町です。国府や総社(大國魂神社)がある武蔵国の中心部であり、鎌倉街道と甲州街道が交わる交通の要衝でもあったことから、非常に栄えた宿場でした。江戸の日本橋から約7里半(30km)に位置するということで、江戸を出立して最初の宿泊場所としては最適な距離にあり、また安永6(1777)に飯盛旅籠が府中宿に公許されたのも賑わうきっかけになっていたと考えられます。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠38軒、問屋場3軒で、生糸を扱う商家が軒を連ねていました。38軒の旅籠のうち8軒が飯盛旅籠であったという記録が残っています。天保14(1843)の記録によると家数430軒、伝馬屋敷数105軒、人口は2,762人、宿並は新宿(現在の宮町)、番場宿(現在の宮西町)、本町の3(府中三町)で構成され、当時としてはかなり大きな宿場町でした。


新宿(しんしゅく)公園という名の公園があります。このあたりは府中市宮町、府中三町の1つ、新宿(しんしゅく)だったところです。新宿は江戸時代に入り甲州街道がされてからできた新しい宿場で、古くは采女宿と呼ばれていたりしました。大國魂神社の西方にある番場宿、本町に対して東方にある町で、大國魂神社の世話元町でした。


新宿(現在の宮町)を進みます。「大国魂神社東」という交差点名表示が出ています。この日のゴールである大國魂神社が近づいてきました。


前方に大きなケヤキ()の古木が目に入ってきます。この木の樹齢は約600年といわれ、天正18(1590)に徳川家康が江戸入城して幕府を開いたのを祝して慶長年間(1596年~1614)に欅並木の大規模な補植が行われる以前から残る木のうちの1本と言われています。


京王線の府中駅前から続く「馬場大門の欅(けやき)並木」です。国の天然記念物に指定されるだけあり、周囲の近代的なビルの存在や雑踏の騒音を圧倒するような厳粛な雰囲気を醸し出しています。


大鳥居を潜り、幅広の参道を随神門、中雀門を進むと、落ち着いた気持ちにさせてくれる重心の低い拝殿があります。ここが武蔵国一宮(いちのみや)である大國魂神社です。さすがに武蔵国一宮、参拝人は途切れることがないように見えます。


大國魂神社に伝わる社伝『府中六所社伝』などに記された伝承によれば、景行天皇41(西暦111年?)に大國魂大神がこの地に降臨し、それを郷民が祀った社が起源とされています。その後、出雲臣の祖神・天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔が武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されています。このときの社号は現在と同じ「大國魂神社」でした。主祭神は大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)。大国主命と同神とされています。


大化元年(645)の 大化の改新時、武蔵国府が境内に置かれて社を国衙(こくが:国の役所)の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する社となりました。この時に社号は「武蔵総社」と変更になりました。古代、国司は任国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していました。この長い巡礼を簡単に行えるよう、各国の国府近くには国内の神を合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになりました。この大國魂神社はそのうちの武蔵国の総社にあたります。このように、この大國魂神社の境内地がかつての武蔵国の国府跡にあたり、境内地と市道を挟んで東側の市有地は、現在、「武蔵国府跡(武蔵国衙跡地区)」として国の史跡に指定されています。東側市有地は「武蔵国衙跡地区」として整備されており、柱跡が表示されて展示室が設けられており、博物館「ふるさと府中歴史館」が設置されています。


大國魂神社に隣接する国史跡博物館「武蔵国府跡」資料館です。武蔵国衙跡発掘の様子が展示されています。


平安時代後期の康平5(1062)、「前九年の役」平定の際に源頼義・義家父子が、欅(ケヤキ)の苗千本を寄進して戦勝を祈願したという伝承が残っています。これは現在、国の天然記念物に指定されている「馬場大門の欅(けやき)並木」の起源で、神前にスモモを供物として供したことから、後年この日とされる720日に毎年「すもも祭り」が行われるようになりました。


また、鎌倉時代には、寿永元年(1182)、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、妻・政子の安産の祈願が行われたとも伝わっています。その御礼か、文治2(1186)、源頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営しました。貞永元年2月(1232年)、鎌倉幕府第三代執権である北条泰時の代で社殿の修造が行われました。


天正18(1590)8月に徳川家康が江戸へ入城してからは、 武蔵国の総社として社領500石が寄進され、社殿及びその他の造営が行われました。正保3(1646)10月、類焼により社殿が焼失。寛文7(1667)、徳川家綱の命により、久世大和守広之が社殿を再建し、現在に至っています。


明治元年(1868)、勅祭社に準ぜられ、明治4(1872)、社号を再び「大國魂神社」に改称。明治7(1875)、近代社格制度において県社に、さらに明治18(1886)、官幣小社とされました。

例大祭は「くらやみ祭」と呼ばれ、東京都指定無形民俗文化財に指定されており、関東三大奇祭の一つに数えられています。かつては街の明かりを消した深夜の暗闇の中で行われていたため「くらやみ祭」と呼ばれるようになったのですが、多くの提灯が建てられたため「ちょうちん祭」、また神輿が御旅所で出会うことから「出会い祭」、あるいは「けんか祭」と呼ばれることもあります。「江戸名所図会」という江戸時代の観光案内においては、江戸近郊で盛大に続けられている古い祭りとして紹介されています。

江戸時代の寛文7(1667)に造営された本殿は一棟三殿、総朱漆塗で銅板葺。東京都の文化財に指定されています。このほか、境内には授与所、待合所、神楽殿、宝物殿、手水舎、廻廊等があります。なお、祭神の「松は憂いもの杉ばかり」との謂れ(いわれ)から、境内に松の木は1本も植えられておりません。


まったくの余談ですが、大國魂神社の項の最初に大國魂神社は武蔵国の一宮ということを書きましたが、この武蔵国の一宮に関しては埼玉県の大宮にある氷川神社も武蔵国一宮を名乗っています。一宮とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことで、原則として令制国1国あたり1社を建前にしていました。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼び、さらに一部の国では四宮以下が定められていた事例もあります。調べてみると、この武蔵国の一宮、二宮、三宮は、平安時代の文献と南北朝時代の文献と室町時代の文献とでは順位が入れ替わっているようです。


平安時代の延長5(927)にまとめられた『延喜式神名帳』には、武蔵国の式内社として大社22社・小社4241社の計4443社が記載されています。その大社2社は足立郡の氷川神社と児玉郡の金鑚神社で、いずれも名神大社です。大國魂神社は小社に列せられていました。この氷川神社と金鑚神社は、いずれも『中山道六十九次・街道歩き』の際に紹介させていただきました。

また、南北朝時代中期編纂されたとされている『神道集』に記載される「武州六大明神」では、総社を大國魂神社とし、武蔵国内の一宮から六宮までの祭神を「武州六社明神」として祀ると記載されています。その一宮から六宮とは次のとおりです。
総社:大國魂神社
一宮:小野神社 (東京都多摩市一ノ宮)
二宮:二宮神社 (東京都あきる野市二宮)
三宮:氷川神社 (埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)
四宮:秩父神社 (埼玉県秩父市番場町)
五宮:金鑚神社 (埼玉県児玉郡神川町二ノ宮)
六宮:杉山神社 (神奈川県横浜市緑区西八朔町)

いっぽう、室町時代の成立とされる日本国内の一宮一覧『大日本国一宮記』では、氷川神社が一宮として記載されています。

まぁ~、いずれも古い歴史を持つ由緒正しい神社であることに変わりはなく、一宮かそうでないかは、私もこれ以上触れないようにしたいと思います。

大國魂神社でも枝垂桜が咲き始めていました。この日はちょうど大國魂神社で神前結婚式を挙げられたカップルがいて、この咲き始めた枝垂桜のところで記念撮影をなさっていました。おめでとうございます。天気が良くて本当によかったですね。


高野槇(コウヤマキ)の樹です。高野槇はマツ目コウヤマキ科の常緑針葉樹で、日本および韓国済州島の固有種です。水に強くて朽ちにくいことから、現在でも湯船材や橋梁材として重宝されている樹で、和名の高野槇は高野山真言宗の総本山である高野山に多く自生していることに由来し、高野山では霊木とされる樹です。秋篠宮家の悠仁親王殿下のお印の樹でもあります。


この日の甲州街道歩きはこの大國魂神社がゴールでした。この日は国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿、府中宿と6つの宿場を通りました。

大國魂神社の境内でストレッチ体操の後解散。この大國魂神社のすぐ近くにはJR府中本町駅があるので、 私はこの府中本町駅からJR武蔵野線に乗って武蔵浦和駅まで、そこでJR埼京線に乗り換えて与野本町駅まで帰ることにしました(意外と便利です)

おやぁ~、このあたりは新宿、番場宿、本町という府中三町の1つ、本町のようです。この日は府中三町のうち新宿のみ通ったのですが、次回【第4回】では番場宿と本町という残り2つを通るところから始まるはずです。と言うことは、このあたりも通るのでしょうか?


JR府中本町駅です。ここはJR南武線とJR武蔵野線の接続駅です。


JR南武線は、神奈川県川崎市川崎区の川崎駅と東京都立川市の立川駅を結ぶJR東日本の鉄道路線です。総延長45.0km、このうち旅客営業区間は39.6kmで、視線を含み30の駅があります。川崎市をその細長い形に沿うように貫く動脈として、川崎市内においては川崎駅付近や臨海地区などの南部地域と多摩区などの北部地域を結ぶ唯一の交通機関となっています。また、東京都心や山手線各駅から郊外に延びる複数の放射状路線と交差する環状路線(フィーダー線)1つとなっていて、京葉線・武蔵野線と連続する首都外郭環状線の一部を構成しています。


このJR南武線は元々は私鉄の「南部鉄道」により開業した路線です。この南部鉄道は、多摩川の川原で採取した砂利を運搬するのが目的として昭和2(1927)3月に川崎駅~登戸駅間を開業。同年11月には登戸駅~大丸駅(現在の南多摩駅)、翌昭和3(1928)12月には大丸駅~屋敷分駅(現在の分倍河原駅)、昭和4(1929)には屋敷分駅~立川駅間を延伸させ、約2年で全線が開通しました。南部鉄道の敷設工事を全面的にバックアップしたのが浅野総一郎氏が率いる浅野セメント(現在の太平洋セメント)でした。浅野セメントはこの時既に青梅鉄道(現在の青梅線)を傘下に収めており、セメントの原料となる石灰石を青梅鉄道から立川駅で機関車を交換して国鉄の中央本線に入り、山手線、東海道本線経由で工場のある川崎まで運んでいました。川崎と立川を結ぶ南武鉄道を傘下に収めれば、全て自社の系列の路線で石灰石を運搬することができ、輸送距離も大幅に短くなると判断し、南武鉄道を浅野系列としたのでした。

当初は多摩川の砂利、その後は青梅の石灰石を運ぶ鉄道路線として開業した鉄道路線でしたが、目黒競馬場の移転先を沿線の府中に誘致し(現在の東京競馬場)、稲田堤の桜や久地の梅園などへの花見客を誘致するなど、利用者増加のための努力が行われ、旅客輸送にも熱心だったようです。1930年代以降、沿線には日本電気、富士通信機製造(現在の富士通)などの工場が進出し、沿線の人口が急増。南武鉄道はその通勤客を運ぶことになります。しかし、東海道線や工業地帯と中央線を結ぶ重要路線であること、重要物資の石灰石を輸送していること、軍事施設や重要工場が沿線に存在することなど軍事上重要な路線だという理由で、昭和19(1944)に戦時買収私鉄指定で国有化され、日本国有鉄道(現在のJR)の南武線となり、現在に至っています。

ちなみに、ここで登場する浅野総一郎氏は「セメント王」と呼ばれるとともに、大正3(1914)には鶴見埋築株式會社(現在の東亜建設工業株式会社)を創立して鶴見で東京湾の埋め立てをはじめるなど、京浜工業地帯の形成に寄与して「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼ばれている人物です。京浜工業地帯の埋立地に鶴見臨港鉄道(現在のJR鶴見線)を設立したほか、南武線、留萠鉄道、五日市線の運営にも携わるなど、鉄道とも深く関係しました。鶴見線の浅野駅は浅野総一郎に因む駅名であり、終点の扇町駅がある「扇町」の地名も浅野家の家紋の扇に因むものです。また、札幌のビール事業の払い下げを政府から受けた大倉喜八郎に渋沢栄一を加え、サッポロビールを設立したり、戸畑区の戸畑鋳物と共同で自動車開発を行い、後の日産自動車の基礎を築くなど、一代で十五大財閥の一つ浅野財閥を築きあげた立志伝中の人物です。浅野財閥は、戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ) による財閥解体で解散したのですが、解散後、傘下の企業は旧安田財閥系の企業集団、芙蓉グループに合流しています。ここにも明治から大正、昭和の初期にかけての歴史があります。


いっぽうJR武蔵野線は、神奈川県横浜市鶴見区の鶴見駅から千葉県船橋市の西船橋駅を結ぶJR東日本の鉄道路線です。総延長は100.6km29の駅があります。この武蔵野線は首都外郭環状線の一環として昭和48(1973)に府中本町駅~新松戸駅間57.5kmが開業。昭和51(1976)に鶴見駅~府中本町駅間28.8kmが貨物営業のみで延伸開業。昭和53(1978)に新松戸駅~西船橋駅間16.4kmが開業して、現在に至っています。首都圏においては比較的新しい鉄道路線です。総延長100.6kmのうち、鶴見駅~府中本町駅間の通称「武蔵野南線」28.8kmは基本的に貨物列車のみに利用され(旅客列車は「ホリデー快速鎌倉」号などの臨時列車のみ)、府中本町駅~西船橋駅間71.8kmは旅客列車と貨物列車の併用で運行されています。

府中本町駅は南部鉄道が大丸駅~屋敷分駅(現在の分倍河原駅)を延伸した昭和3(1928)12月に開業した駅です。駅名の由来は、ここが鎌倉へ至る鎌倉街道のルート上で経済的にも重要拠点に位置し、中世には当地が「本町」と呼ばれていたことによるものです。



この日は距離にして20.1km、歩数にして27,556歩、歩きました。次回【第4回】は、府中宿から日野宿まで歩きます。次回も楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――


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