2018年7月26日木曜日

甲州街道歩き【第4回:府中→日野】(その4)

立日橋を渡ると日野市に入ります。『ようこそ! 「新選組」のふるさと日野へ』の看板が迎えてくれます。新選組の隊服を模した浅葱色(この看板では青色)のダンダラ模様(山形模様)が看板に描かれています。やはり、日野と言えば、新選組ですね。



日野市はかつては「日野宿」が設置されており、甲州街道の農業を中心とした宿場町として繁栄したところです。幕末期に京の都で活躍した新選組の副長として活躍した土方歳三や六番組隊長の井上源三郎の出身地です。また、市内最大の大企業である国内トラック・バス製造業界最大手の日野自動車の企業城下町でもあります。昭和に入ってからは大規模企業や大規模団地が進出しているものの、河川や丘陵地が多く、国土交通省より「水の郷百選」に認定されるなど、武蔵野の自然も多く残されているところです。また、多摩地区としては水田や野菜畑などの農地が占める割合が高く、都市農業の代表的な都市として紹介されることも多いところです。多摩都市モノレールの車両が頭上を通り過ぎて行きました。


この『ようこそ! 「新選組」のふるさと日野へ』の看板が立っている交差点で日野の渡しで多摩川を渡ってきた甲州街道と合流します。街路樹のハナミズキが咲く遊歩道のような東京都道149号立川日野線を歩きます。



日野宿の「東の地蔵」です。このあたりが日野宿の江戸方(東の入口)でした。




新奥多摩街道入口交差点です。ここに東方向からやって来る道路が東京都道256号八王子国立線で、先ほど日野橋交差点で分岐して日野橋で多摩川を渡ってきた現在の甲州街道です。万願寺の渡しで多摩川を渡ってきた旧甲州街道も途中でこの東京都道256号八王子国立線に合流しており、ここで古・旧2つの甲州街道が合流します。


日野宿(ひのじゅく)は甲州街道の江戸の日本橋から数えて5番目の宿場町です(数え方にはいろいろありますが…)。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒という比較的規模の大きな宿場でした。日野宿が宿場町として整備されたのは慶長10(1605)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれました。これまで何度も繰り返し書いていますが、甲州街道は幾度か経路の変遷があるのですが、貞享元年(1684)以降、大正15(1926)に日野橋が開通するまでは、日野の渡しで多摩川を越え、現在の東京都道149号立川日野線を南下し、新奥多摩街道入口信号で右折して東京都道256号八王子国立線を西進、日野駅前東交差点北側の日野不動産裏を左折して日野自動車手前で現在の甲州街道に合流する道筋が甲州街道でした。

日野宿を行きます。旧宿場町らしく、相当に年代を感じさせる建物が幾つか残されています。明治時代に撮影された日野宿、それもこのあたりの写真が掲げられています。大変に興味深い写真です。



ここで川崎街道(東京都道41号稲城日野線)が分岐します。川崎街道はこの日野宿と東海道五十三次の2番目の宿場・川崎宿を結ぶ街道で、途中、高幡不動尊(高幡山明王院金剛寺:新選組副長として活躍した土方歳三の菩提寺としても知られています)の門前を通ります。


日野宿交流館です。古い日野宿の街並みの写真が数多く展示されているほか、新選組関連の展示も充実しているそうなのですが、今回は時間の関係で立ち寄るのはパスしました。


日野宿交流館の前に日野宿本陣の佐藤家があります。この日野宿本陣は東京都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物です。江戸時代、甲州街道の日野宿の中程、中宿には本陣と脇本陣が軒を連ねていました。2軒は日野本郷の名主と日野宿の問屋を兼ねていて、西側が本陣の佐藤隼人家(通称:上佐藤家)、東側が脇本陣の佐藤彦右衛門家(通称:下佐藤家)でした。本陣は公家、大名、旗本や幕府の役人専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的な役割を持っていました。なお、この日野宿の脇本陣は19世紀初頭以降、本陣と同様の機能を担っていました。現在残っている建物は旧脇本陣の下佐藤家の建物です。両家の間は現在は塀が設けられ、敷地を区分していますが、当時は仕切りはなく、自由に行き来ができ、街道沿いに両家の長屋門が並び建っていたと言われています。

ちなみに、甲州街道に現存する本陣建物は、この日野宿の本陣を含めて小原宿本陣(神奈川県相模原市)と下花咲宿本陣(山梨県大月市)3箇所だけです。さすがに本陣らしい立派な冠木門です。

嘉永2(1849)正月18日、本陣や脇本陣、問屋場のあった日野宿の中心、中宿北側から出火した火災は北風に煽られて本陣、脇本陣をはじめ十余軒を焼く大火となりました。現在の建物は大火で焼失してしまった主屋にかわるものとして、当時日野宿の問屋場と日野本郷の名主を務めていた佐藤家当主の佐藤彦五郎俊正が本陣兼自宅として普請したもので、元治元年(1864)12月から使用されている建物です。


この日野宿の本陣の建坪は117坪、脇本陣の建坪は112坪。甲州街道で100坪を超える建坪の本陣は犬目宿(山梨県)と日野宿だけだったと言われています。本陣の現在の建物は左土間、多間取りの主屋で、上屋桁行、梁間は114尺×5間で、北面中央に2間×1.5間の入母屋屋根の式台、北面、東面、西面に3尺の下屋、南面に4尺の下屋が付き、屋根は切妻瓦葺きというもので、本陣としての格式を漂わせるものです。創建当初はさらに南に12.5畳の上段の間と10畳の御前の間があったのですが、その2間は明治26(1893)の大火により主屋が焼失した佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先の有山家に曳家され、現在に至っています。


本陣の建物にはいると、『常設展示 新選組・新徴組と日野』と書かれたポスターが出迎えてくれます。そのポスターの左下の写真は、御存知、新選組副長・土方歳三です。


ここで日野宿本陣佐藤家所縁の方から説明を受けました。幕末期、この佐藤本陣家の当主を務めていた前述の佐藤彦五郎俊正の妻ノブは日野の近隣の石田村の土方隼人義醇の四女で、土方歳三はその弟であったことから、彦五郎にとっては義弟の間柄でした。彦五郎の母も土方家の出身だったので、従弟でもありました。土方歳三はすぐ上の姉で慕っていたノブの嫁ぎ先であるこの佐藤彦五郎宅によく出入りしていたといわれています。


土方歳三に関しては私があれこれ説明するまでもありません。土方歳三は天保6(1835)55日、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人義諄と恵津の間に10人兄弟の末っ子として生まれました。土方家は「お大尽(だいじん)」と呼ばれる多摩の豪農であったのですが、父は歳三の生まれる3ヶ月前の25日に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11(1840)に結核で亡くなっています。また長兄の為次郎は失明していたため、次兄の喜六と、その妻ナカによって養育されました。成人した土方歳三は実家秘伝の「石田散薬」(骨折や打ち身、捻挫、筋肉痛、また切り傷等に効用があるとされていました) を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね修行を積み、姉ノブの嫁ぎ先であるこの佐藤彦五郎の道場に指導に来ていた近藤勇と運命の出会いをし、安政6(1859)24歳の時に天然理心流に正式入門しました。それから4年後の文久3(1863)2月、試衛館の仲間達とともに、第14代将軍徳川家茂警護のための浪士組に応募し、京都へ赴きました。

会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放した八月十八日の政変における活躍が認められ、壬生浪士組から新選組が発足。その後、隊の運営方針の異なる新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤勇が局長となると土方歳三は副長の地位に就き、近藤勇の右腕として京都の治安維持にあたり、池田屋事件をはじめ数々の事件で勇名を馳せました。また土方歳三は局長の近藤勇を補佐し、自らは裏方、憎まれ役に徹し、新選組の組織作りに力を注ぎました。新選組内部では、常に新選組の規律を隊士らに遵守させ、それを破った総長の山南啓介を切腹させたり、参謀の伊東甲子太郎と八番隊組長の藤堂平助を暗殺したり(油小路事件)と、規律を破った隊士に対してはたとえ幹部の人間であろうと切腹を命じたり暗殺をしたりして粛清を繰り返し、隊士達からは「鬼の副長」と称され、剣豪揃いの隊士達にも恐れられました。実際、新選組隊士の死亡原因の第1位は切腹であったと言われているほどです。

慶応3(1867)10月に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するのですが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで圧倒的兵力を持つ洋式軍隊の新政府軍の前に完膚なきまでに敗北。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退しました。この時期、京の町を震え上がらせたさしもの新選組も戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下していたと言われています。

その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め、甲州街道を甲府城へ向けて進軍したのですが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて土佐藩の板垣退助 (維新後、自由民権運動の主導者として知られる) と谷干城 (西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる) 率いる新政府軍の怒涛の進軍の前にあえなく敗退してしまいました。甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し、江戸へ敗走しました。この甲州勝沼の戦いでは、土方歳三は神奈川方面に援軍を求めに行っていたので不在で、江戸への敗走の途中で近藤勇らと合流しました (甲陽鎮撫隊はこの甲府への進軍の途中、日野宿の佐藤本陣にも立ち寄った記録が残されています)

旧新選組の主力は甲州勝沼の戦いでの敗戦の後、再び江戸に戻ったのですが、方針の違いから永倉新八(二番隊組長)、原田左之助(十番隊組長)らが離隊して靖兵隊を結成。近藤勇、土方歳三らは再起をかけ、流山へ移動したのですが、局長の近藤勇が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司(一番隊組長)も持病だった肺結核により江戸にて死亡。原田左之助は彰義隊に加入し上野戦争で戦死しました。新選組はその後唯一残った幹部である土方歳三の指揮のもと大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、旧幕府軍側指揮官の一人として宇都宮城の戦い、会津戦争など各地を転戦したのですが、会津では斎藤一(三番隊組長)らが離隊。残る隊士達は蝦夷地へ向かった榎本武揚らに合流し、箱館の五稜郭を占領。五稜郭に立て籠もりました。

江戸に帰ってきた後の土方歳三率いる新選組は洋式軍隊の色彩を強め、土方歳三もただの剣客としてではなく、洋式軍隊の将校として非凡な才能を発揮しました。むしろ新選組副長としてよりもこちらのほうが土方歳三の真骨頂だったのではないか…と私は思います。箱館で撮影された洋式軍隊の将校の格好をした有名な土方歳三の凛々しい写真がそれを如実に物語っています。ただ、新政府軍との戦力の差と勢いの違いは如何ともしがたいものがありました。

榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」が成立すると土方歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ね、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執りました 。明治2(1869)49日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。ここに箱館五稜郭防衛戦、いわゆる「箱館戦争」の火蓋が切られました。土方歳三が直接指揮を執った二股口の戦いでは連戦連勝だったのですが、新政府軍は続々と兵力を増強して蝦夷共和国軍を包囲していきます。

そして運命の明治2(1869)511日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、元新選組の生き残り島田魁(新選組では二番組伍長)らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したという報を受け、土方歳三は彼等を救出するために僅かな兵を率いて弁天台場に向かいました。その乱戦の中、一本木関門付近で狙撃を受け、銃弾が腹部に命中し落馬。戦死しました。享年34歳の若さでした。

この土方歳三の戦死をもって新選組は終焉。その6日後、榎本武揚率いる蝦夷共和国軍も五稜郭において新政府軍に降伏して、鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争はついに終わりを告げました。負けると分かっていても最後の最後まで戦い抜いた姿はこれぞ「滅びの美学」とでも言いますか…。その姿に今なお土方歳三の熱烈なファンという方は数多くいらっしゃって、「男が惚れる男」、「多摩のヒーロー」などとも言われています。土方歳三の生涯については、是非、司馬遼太郎先生の書かれた歴史小説『新選組血風録』、そして私も大好きな『燃えよ剣』をお読みください。土方歳三、とにかくその生きざまには魅了されます。

また、土方歳三の命日となった511日の前後の週末には日野市最大の催事である「ひの新選組まつり」が毎年開催されていて、地元の人達だけでなく、多くの新選組ファン、土方歳三ファンの方々が訪れるようです。今年も51213日に開催されたようです。

なお、前述の洋式軍隊の将校姿の写真は、死を悟った土方歳三が小姓を務めていた市村鉄之助に命じて、遺髪や愛刀「和泉守兼定」などとともにこの日野宿の義兄・佐藤彦五郎と姉ノブの元に送り届けたものです。

余談ですが、箱館で撮影された写真の土方歳三とイケメン俳優のディーン・フジオカさんが似ていると思うのは私だけでしょうか?  ちょっと面長の顔の輪郭といい、すずしげな奥二重の目もとといい、そっくりと思えるくらいです。いずれにせよ、土方歳三が今の時代でも俳優さんとして十分通用するくらいのかなりのイケメンだったのは確かなようです。



この佐藤本陣には土方歳三所縁の品が幾つか展示されています。おおっこれは!  この浅葱色の生地の袖口に白いダンダラ模様(山形模様)が染め抜かれた羽織は新選組の隊服です。



佐藤彦五郎は多摩地域の繁栄の反面で進行する治安の悪化を憂慮し、大火をきっかけに自衛の必要性を痛感し、八王子千人同心の井上松五郎から天然理心流を紹介され、江戸の市谷にあった天然理心流の道場「試衛館」で近藤周助(近藤勇の養父)に入門しました。その入れ込みようは相当のものだったようで、現在本陣前の駐車場になっているあたりにあった長屋門を改装して道場も開きました。その甲斐もあって、佐藤彦五郎の剣術の腕はメキメキ上達し、入門から4年後には天然理心流の免許皆伝をとっています。この道場で師範代として剣術を教えていたのが、近藤周助の養子で、のちに新選組局長となる近藤勇(上石原村・調布市出身)です。佐藤彦五郎は近藤勇と義兄弟の契りを結び、道場を提供したほか天然理心流を全面的に支援しました。この道場には、やがてのちに新選組の主要メンバーとなる沖田総司(一番隊組長)、山南敬助(総長)らが訪れるようになり、地元・日野出身の土方歳三(副長)、井上源三郎(六番隊組長)らを交えた新選組と日野の人々との激動の物語の幕が開けられることになるわけです。まだ、この本陣の建物が完成する前のことです。

ちなみに、慶応4(1868)3月、鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に戻ってきた近藤勇や土方歳三達を迎えた佐藤彦五郎は春日盛と名を変え、農兵隊(春日隊)を組織し、甲陽鎮撫隊に加わりました。しかし甲州勝沼の戦いに敗れて帰郷すると地縁を頼り潜伏し、新政府軍の執拗な追及から逃れて身を隠したのですが、翌月、日野宿有志の歎願により公職に復帰しました。明治維新後は近藤勇、土方歳三ら新選組隊士の復権と顕彰に尽力しました。明治5(1872)、名を俊正と改め、明治11(1878)、郡区町村編制法により多摩郡が東西南北に分けられた時には初代の南多摩郡長となっています。明治35(1902)、死去しました。享年76歳でした。

本陣の門の脇に「明治天皇日野御小休所趾及建物附御膳水」と刻まれた石碑が立っています。明治13(1880)と明治14(1881)の二度の行幸(ぎょうこう)の際、明治天皇が日野宿佐藤本陣で休憩をとられたことを記念する石碑です。明治天皇が休憩をとられた際、佐藤本陣の上段の間の襖には大田蜀山人の書画が表具されていました。その1枚に書かれていたのがタケノコの絵と次のような狂歌でした。

「たけのこの そのたけのこのたけの子の 子のゝゝ末もしける めてたさ」 蜀山人画題(落款)

大田蜀山人の来訪が竹の子の出る季節であり、蜀山人が竹の子の成長に喩えて佐藤本陣家の子孫繁栄・家運長久を祈念して詠んだ歌だとされています。明治14(1881)の行幸の際、明治天皇が佐藤本陣の襖に書かれていたこの狂歌をご覧になって、声高らかにお笑いになったという逸話が残っています。確かに、句の随所で取り入れられた擬態語「のこのこ」という軽妙な語感には、誰もが思わず吹き出しそうになりますわね。





本陣の建物は文久3(1863)4月に上棟され、翌年に完成しています。その上棟の少し前、同じく文久32月には第14代将軍徳川家茂が上洛。その警護のために新選組の前身となる浪士組が京都へ向っています。この浪士組に近藤勇や土方歳三、井上源三郎、沖田総司らが参加しています。本陣の建物の建設には10年に及ぶ歳月を費やしたと言いますから、本陣建設の槌音を聞きながら、同じ敷地内にあった道場では、のちに新選組になる若者達が木剣の音を鳴り響かせていたことになります。


上記に「八王子千人同心」という言葉が出てきました。八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)とは、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現在の東京都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことです。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持でした。

この八王子千人同心は徳川家康の江戸入府に伴い、慶長5(1600)に発足しました。甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田家の遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織され、当初は八王子の代官頭の大久保長安が統括しました。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家の遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためといわれています。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、承応元年(1652)からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となりました。江戸時代中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを数多く輩出しました。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、八王子千人同心の間では習う者が多くいたと言われています。

八王子千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川幕府の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層に至るまで徳川恩顧の精神が強かったとされています。この事から、八王子千人同心の中から後の新選組に参加する者が複数名現れるに至ったと言われています。

ちなみに、八王子千人同心は寛政12(1800)に集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、現在の苫小牧市、白糠郡白糠町の基礎を作りました。



甲州街道沿いには明治時代に撮影されたこの下佐藤家の写真が飾られています。素晴らしい!!



この佐藤本陣の向かいに問屋場と高札場があったのですが、現在は石碑が建つのみです。


日野宿の中を歩きます。旧宿場街らしく、歴史を感じさせる建物が幾つかあります。


八坂神社です。この神社の創建年代は不詳ですが、社伝では応永5(1398)、普門寺が創建され、牛頭天王社の別当となり、明治2(1869)、八坂神社となりました。本殿は寛政12(1800)に造営されたものです。


この八坂神社の本殿には安政5(1858)に天然理心流近藤周助門下の剣士達により奉納された剣術額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられています。 この写真は本物ではなく入口に掲げられている案内板の写真です。天然理心流の創始は寛政元年(1789)頃と推定されています。創始者の近藤内蔵之助長碑裕は長江(静岡県)の人でしたが、2代目の三助は戸吹(現在の八王子市)、三代目の周助は小山(現在の町田市)、四代目の勇が石原(現在の調布市)と多摩地域と縁が深く、名主や豪農、八王子千人同心を中心に農民の間でも習われていました。剣術額には日野宿の剣士達23名と近藤(嶋崎)勇、客分として沖田(惣次郎)総司の名が連ねてあります。入門が安政6(1859)の土方歳三の名前はここにはありません。

ちなみに、佐藤彦五郎に天然理心流を紹介した八王子千人同心の井上松五郎とその弟の井上源三郎の子孫は今でも日野で近藤勇の子孫とともに「天然理心流勇武館」を組織し、流派を継承しているのだそうです。



その八坂神社の向かいのガソリンスタンドの傍らに「かねこばし」と刻まれた石橋の支柱が残されています。ここに橋があったのでしょうか?



八坂神社の向い側に、右斜めに入る道があります。そこが旧甲州街道です。そこに入り、すぐ左折すると「日野駅前東」の信号のところに出てくるので、そのまま真っ直ぐ東京都道256号八王子国立線を渡って進みます。


日野駅東の交差点のところで左手に宝泉寺が見えてきます。宝泉寺の墓所内には新選組六番隊組長で副長助勤であった井上源三郎の墓碑が建てられています。



井上源三郎は文政12(1829)、武蔵国日野宿北原(現在の日野市日野本町)にて、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として生まれました。兄の松五郎は千人同心です。弘化4(1847)頃、天然理心流の3代目宗家・近藤周助に入門。試衛館では近藤勇の兄弟子にあたります。佐藤彦五郎が天然理心流の出稽古用に設けた道場で土方歳三らと共に稽古に励みました。文久2(1862)2月、浪士組に近藤・土方らと参加。文久3(1863)に芹沢鴨一派が粛清されると副長助勤に就任し、六番隊組長に任じられました。新選組では最年長の隊士で、過激な印象の強い新選組の隊士の中では温和な人物として知られ、常に近藤勇や土方歳三、沖田総司などを見守り、いわば父親的な存在で、地味ではあるものの組織の潤滑油として欠かせぬ存在でした。慶応4(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いの最中、淀千両松で官軍の銃弾を腹部に受けて戦死しました。享年40歳でした。


日野宿の諏訪方(西の入口)がこの宝泉寺の先にあります。

この日の甲州街道歩きはここまで。宝泉寺のすぐ近くにあるJR中央本線の日野駅がこの日のゴールでした。日野駅前にも昔の日野駅の様子を撮影した写真が飾られています。これは嬉しいですね。



この日は21,645歩、距離にして15.7km歩きました。今回の【第4回】も“繋ぎの区間”の筈だったのですが、なかなかどうして。結構見どころの多い区間でした。古墳時代の遺跡に始まり、平安時代に平将門を討ち滅ぼした藤原秀郷の居館だった高安寺、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が戦った分倍河原、幕末期に大活躍した新選組のふるさと日野…。時空間旅行としてもなかなか興味深い区間でした。実に面白かったです。

次回【第5回】はこのJR日野駅を出発して甲州街道最大の宿場町八王子宿を通り、JR高尾駅を目指します。高尾ということでそろそろ“繋ぎの区間”も終わりそうで、街道歩きらしい醍醐味も味わえそうになってきました。楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――


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