4月21日(土)、『甲州街道あるき』の【第4回】に参加してきました。この日は府中宿から日野宿まで歩きます。今回が4回目、日本橋を出発してから随分歩いてきたのですが、まだまだ東京都。住宅密集地の中を歩くので、街道歩きで言ったら完歩するために歩く必要がある“繋ぎの区間”が続きます。そうした“繋ぎの区間”であっても何か旧街道の痕跡が残っているのではないか…という期待感もあります。
自宅最寄りのJR与野本町駅からJR埼京線と武蔵野線を乗り継いで府中本町駅へ。この日はこの府中本町駅の近くの大國魂神社から日野宿まで、鉄道の駅で言ったら7駅分歩きます。これまでは京王電鉄の京王線に沿って歩いてきたのですが、ここからはJR南武線と中央本線に沿って歩きます。
この日のスタートポイントは前回【第3回】のゴールだった大國魂神社。前回【第3回】で訪れた時は3月中旬で、桜の花が種類によっては咲き始めた頃だったのですが、あれから約1ヶ月が経過し、桜の時期は過ぎ、境内の木々の若葉が目に眩しく映るようになりました。この時期の神社も素敵ですね。「慶祝 天皇陛下御即位三十年」という幕が鳥居に掛かっています。その他にも祝賀の儀式の準備でしょうか、いろいろと工事が行われています。
参加者全員で武蔵国一宮に道中の安全祈願をしてから出発です。東京都道229号府中調布線を西に向かって進みます。
府中宿は番場・本町・新宿(しんしゅく)という3つの町(府中三町)によって構成されていたということを前回【第3回】に書きましたが、このあたりはそのうちの本町です。
「神戸」と地名が刻まれた石碑があります。この「神戸」は“こうべ”ではなく、“ごうど”と読みます。説明書きによると、『神戸(ごうど)は府中宿の旧甲州街道沿い集落の中心があった宿場の一部です。この集落は番場宿に属しており、幕末の地誌「新編武蔵風土記稿」には番場宿の小名としてその名が見えます。神戸はもともと1つの区域でしたが、甲州街道の創設により南北に分かれたようです。地名の起こりは、この地に郡家(こほと)があったことによると言われています。神戸は郡家のことで、「こほど」と転訛して「ごうど」となり、神戸の字があてられたようです。もともと神戸は「かんべ」あるいは「かうべ」と読み、神社に属して租税を納入した民家のことです。ここには甲州街道に沿って老舗の商家が多くあります。』……とあります。ふむふむ。神戸とは郡家のことなんですね。兵庫県神戸市の神戸も同じことなんでしょうね。
府中宿の中心、本町を進みます。神戸の説明碑に書かれていた“甲州街道に沿って建ち並ぶ老舗の商家”の1つが道路を挟んだ反対側にあります。嘉永5年に創業した『御菓子司 亀田屋』さんです。大國魂神社の近くのこの地に店舗を構え、創業時から変わらない製法で和菓子を作り続けているお店です。亀田屋の二大人気商品は、鮎の形をした「鮎もなか」と「鮎の里」です。「鮎もなか」は、明治40年に4代目が考案したものです。明治天皇が多摩川の鮎を御賞味されていたことから、明治40年以来、府中の名物として知られています。「鮎の里」は、どら焼きの皮で、信玄餅とこし餡を包んだものです。50年前に先代が京都を旅した際に、立ち寄った和菓子屋でヒントを得たことから生まれた商品です。どちらもまとめ買いをしていく、根強いファンの方もいらっしゃるそうです。それと創業当初から変わらぬ味の「焼きだんご」。昔からのつぎ足しで作られてきた秘伝のタレに、嘉永5年から続く味の奥深さを感じると、老若男女、幅広い層に人気のある定番商品なのだそうです。
府中市役所前交差点のところに高札場が立っています。ここは甲州街道、川越街道、相州街道が鍵の手に交差する追分で、府中宿の中心地を占める場所でした。
この高札場は珍しく江戸時代に実際に使用されていたものがほぼ昔のままの姿で現存しているものです。この界隈はかつて「札の辻」「鍵の辻」と呼ばれていました。高札場は交通事故を機に、交差点角から斜め向かいに時計回り45度回転して移設されたものです。高札場の裏は大國魂神社の御旅所で、毎年5月の例大祭には8基の御輿が渡御するところです。
高札場の向かい側、札の辻の北西角にある酒造店「中久本店」は安政6年(1859年)の大火を機に、万延2年(1861年)に再建され、増改築を行い今の姿となりました。中久本店では大國魂神社の御神酒「国府鶴」などを販売しています。
その隣地に問屋場の跡があります。札の辻の周辺はこの他にも古い商店が幾つか残っていて、かつての面影を残しているところです。大國魂神社の例大祭では御旅所もあることから、身動きが出来ないほど賑わう場所なのだそうです。
この問屋場跡から北へ延びるこの細い道路がかつての川越街道です。その名の通り、ここから北上して埼玉県の川越へ延びる街道です。
甲州街道を挟んでその反対側、今は高札場が移設され、その先もマンションが建っているので消滅していますが、ここから南方向に相州街道が延びていました。相州街道は府中宿から南に多摩川を越えて東海道の保土ヶ谷宿まで至る街道で、江戸時代に整備された甲州街道や東海道よりもずっと古くから主要道路として存在した街道でした。古代から武蔵国一宮である大國魂神社や国府、国司の館があったこの府中は武蔵国の中心地であり、水路・陸路の交通の要衝だったのです。 実際、府中宿の本町にあった宿場の大部分は甲州街道と交差して南北に走る相州街道・川越街道沿いに広がっています。 もともと日本全国にある「本町」や「元町」などの地名はその地の古くからの中心部に残る地名ですが、この府中宿の本町の宿場が相州街道・川越街道沿いに広がっているということは、元々は相州街道と川越街道のほうが古くからあった幹線道路で、甲州街道は江戸時代になってあとから整備された街道(道路)だってことを意味しているように思えます。
甲州街道を西に進みます。大國魂神社の奇祭「くらやみ祭り」のポスターが貼られています。「くらやみ祭り」は、毎年5月3日〜6日にかけて大國魂神社で行われる長い伝統と格式を誇る例大祭のことで、武蔵国の「国府祭」を起源としており、東京都指定の無形民俗文化財となっています。室町時代に書かれた文書にも「五月会」との記録があり、江戸時代には江戸中から甲州街道を使って多くの見物人が訪れていたようです。その後は、地域住民のための祭礼へと発展していったのですが、現在でも祭りの期間中は約70万人の人出で賑わうのだそうです。府中市の中心部を六張もの大太鼓と八基の神輿が回る壮大な祭として知られており、かつては街の明かりを消した深夜の暗闇の中で行われていたため「くらやみ祭」と呼ばれるようになりました。その後は、多くの提灯が建てられたため「ちょうちん祭」、また神輿が御旅所で出会う(ぶつかり合う)ことから「出会い祭」などと呼ばれることもあります。また「けんか祭」と呼ばれたこともありました。
番場宿の碑が建っています。その説明書きによると、『番場宿は元の名を茂右衛門宿と言います。これはこの土地が名主の茂右衛門によって開発されたことによります。番場宿と称するようになったのは寛永13年(1636年)のことと言われています。幕末の地誌「新編武蔵風土記稿」には「家数103軒、甲州街道の左右に軒を連ね」とあります。もともと番場宿は甲州古街道筋にありましたが、新街道の設置(1648年〜1652年)に伴って移転したものです。地名の起こりは不明ですが、馬場の転訛とか、番所があったからとの説があります』。なるほどぉ〜。
江戸時代からの宿場だったことを物語るように、歴史を感じさせるような古い建物が幾つか建っています。
古くから栄えた番場宿のあたりには幾つかの古刹があります。その1つ、時宗の寺院の古木山 長福寺です。この長福寺の創建年代は不詳ですが、貞治年代(1362年〜1367年)・嘉吉年代(1441年〜1443年)・文安年代(1444年〜1449年)の銘が刻まれた古碑があったといわれていて、相当古くに創建されたことが窺えます。
ここから南方向に延びる道路が「鹿島坂」です。鹿島坂という坂の名称は、傍に立つ説明書きによると、『坂の名は大國魂神社の例大祭に深い係わりのある人物に由来するといわれています。毎年5月に行われる例大祭に「国造代(くにのみやつこだい)奉幣式(ほうべいしき)」という古式があります。これは国造代(奉幣使)が神馬に乗って坪の宮に赴き、御輿渡御(みこしとぎょ)の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所(みたびしょ)へ参向して奉幣を行うというものです。この式は古くは社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に名前の一部をとって「鹿島坂」と呼ばれるようになったようです』とのことのようです。
番場宿のもう1つの古刹、曹洞宗の寺院、龍門山 高安寺(こうあんじ)です。開基は室町幕府の初代将軍である足利尊氏で、室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていたほどの寺院で、寺の随所に古刹としての面影を残しています。多摩地域を代表する寺院の1つです。江戸時代初期までは臨済宗の寺院でした。
由緒書きによると、高安寺は平安時代に平将門を討つという大功を挙げた藤原秀郷 (近江三上山の百足退治の伝説でも有名) が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山 見性寺に改めたのが始まりとされています。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われています。ここは武蔵国府の近くにあり、国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には、新田義貞が分倍河原の合戦でここに本陣を構えています。しかし、これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺はいったん荒廃してしまいました。
そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き、臨済宗の禅寺に改めて再興しました。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名されました。これによって高安寺は室町幕府の保護を手厚く受けて、一時は塔頭10・末寺75と称されるほどの大寺院となりました。しかし、それは同時に室町幕府、すなわち足利氏、あるいはその指揮下にあるとされた鎌倉公方(室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10ヶ国を統治するために設置した鎌倉府の長官職)の影響力を深く受ける事となり、軍事拠点としての色彩を帯びる事となっていきました。永徳元年/弘和元年(1381年)には小山義政討伐に向かう第2代鎌倉公方足利氏満が、続いて応永6年(1399年)には応永の乱に呼応して室町幕府第3代将軍足利義満打倒を図ろうとした第3代鎌倉公方足利満兼が、それぞれこの高安寺に陣を置いています。この状況は第4代鎌倉公方足利持氏の代にも変わらず、応永30年(1423年)に常陸国の小栗満重討伐の帰途に高安寺に入り、ここに仮の政庁を置きました。ですが、その翌年には失火による焼失を招いてしまい、再建を行う事になりました。
永享11年(1438年)には関東管領上杉憲実討伐のために足利持氏が再び高安寺に陣を構えました。ところが、足利持氏の反幕府的姿勢に業を煮やしていた当時の室町幕府第6代将軍の足利義教が持氏討伐を命じたことを知り急遽鎌倉に引き揚げる事になると、時は既に遅く鎌倉は陥落して足利持氏は滅亡する事になりました。逆に康正元年(1455年)に行われた二度目の分倍河原の合戦では、第5代鎌倉公方足利成氏が籠もる高安寺に攻め寄せた関東管領上杉軍を成氏が打ち破っています。その後もその地政学的条件からこの高安寺は上杉氏・後北条氏などによって軍事的に利用される事も多く、度々の戦乱で衰退・荒廃していきました。江戸時代初期には海禅寺(現在の青梅市)の末寺に入り、宗派も曹洞宗と改めたのだそうです。
この観音堂には秀郷稲荷大明神が祀られています。秀郷稲荷大明神の秀郷とは、前述のように平安時代に平将門を討つという大功を挙げた藤原秀郷
のこと。この高安寺は元々は藤原秀郷の居館だったところなので、その功績を称える意味もあって、ここに観音堂を建ててその霊を祀っているのでしょう。
その秀郷稲荷大明神が祀られている観音堂の右を下ったとことに「弁慶硯の井」があります。ここは平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経一行がこの寺に立ち寄った際に武蔵坊弁慶が身の潔白を表すために大般若経を書き写したのですが、その際、硯で墨をするのに使う水を汲んだ井戸がこの井戸だと伝わっています。真偽のほどは別にして、武蔵国の国府が置かれていた府中は古代から京都と東国を結ぶ大動脈にあったということが窺える逸話です。
高安寺をあとにして、旧甲州街道を先に進みます。
この緩い下り坂は「弁慶坂」と呼ばれています。説明書きによると江戸時代の地誌『江戸名所図会』にも「甲州街道に架する所の橋をも弁慶橋と号(なず)け、東の坂を弁慶坂と呼べり」と書かれてあるのだそうで、高安寺に伝わる武蔵坊弁慶の伝説に由来する名称のようです。
「弁慶橋」です。ここも高安寺に伝わる武蔵坊弁慶の伝説に由来する橋で、高安寺(当時は見性寺)で大般若経の写経を行った武蔵坊弁慶が硯を置いていった場所なので、「弁慶橋」と呼ばれるようになったのだそうです。昔、このあたりを野川という川が流れていて、「弁慶橋」と呼ばれる橋が架かっていたと石碑に刻まれています。
石橋供養塔です。これは昔このあたりを流れていた野川に架かる石橋がお役御免になった時に建てられたものと推定されます。
「棒屋の坂」という石標が建っています。石標に刻まれた説明書きによると、坂名の由来は、坂を下りきったところの家が通称「棒屋」と呼ばれていたためなのだそうです。わざわざ石標を建てるのですから「棒屋」はそれなりのお家で、それなりに交通量のあった坂だったということでしょう、きっと。
前方に京王電鉄京王線の踏切が見えます。このあたりが府中宿の諏訪方(西の入り口)でした。
ここから左の商店街を入った先に京王電鉄京王線とJR南武線が交差する分倍河原(ぶばいがわら)駅があります。旧甲州街道から外れて、その分倍河原駅に向かう商店街に入ります。大國魂神社の出発が午前11時と遅めだったので(この日は3グループあるうちの最終スタートのグループでした)、1時間ほど歩いただけで昼食です。この日の昼食はこの分倍河原駅に向かう商店街の途中にあるカラオケ屋さんでお弁当をいただきました。この街道歩きでは昼食会場の確保が難しいようで、カラオケ屋さんの利用は妙案ではないかと思いますね。
……(その2)に続きます。
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