中山道六十九次をはじめ江戸時代の旧街道歩きが私の趣味になって以来、今、最も私の好奇心をくすぐる対象となっているのが、“江戸”という街です (“東京”にあらず)。
江戸は言うまでもなく現在の東京の旧名称。古くは江戸氏の根拠地で、武蔵国豊島郡江戸郷と呼ばれていました。そこに1457年、太田道灌が江戸城を築き、城下町として開けました。豊臣秀吉の命により関八州に転封させられた徳川家康がその江戸城に入城したのが1590年。当時は関東の一寒村にすぎないところでした。徳川家康が1603年に幕府を開くに至って、日本の政治・経済の中心となったのがこの江戸で、瞬く間に都市としての急成長を遂げ、享保年間(1716年~1736年)にはパリやロンドンをしのぐ人口100万人を擁する世界最大の都市でした。なので、歩いてみるといろいろな発見があり、メチャメチャ面白いです。しかも、私達が学校で学んだ日本史がいかにいい加減なものかということにも気付かされます。
という事で、江戸ウォークシリーズの第1弾として、JR両国駅を出て回向院、両国橋、浅草御門跡、筋違橋門跡、湯島聖堂、神田明神を経てJRお茶の水駅まで妻と一緒に歩いてきました。題して「江戸城外濠内濠ウォーク」!!
4月14日(土)、この日のスタートポイントはJR総武線の両国駅でした。現在、両国駅はJR東日本の運営する駅ですが、元々は千葉県方面への鉄道を建設した私鉄の総武鉄道が1904年に「両国橋駅」として開業させた駅です。総武鉄道は市川駅より東側の区間を先に開業させており、そこから西へ東京へ向かって順次建設を進めてきました。そして、本所駅(後の錦糸町駅)から両国橋駅までの区間が都心側で最後に開業しました。この当時、本所から両国橋までの沿線は既に市街地になっていたため、高架線とすることを条件に免許が出されたこともあり、この区間は煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して開業することになりました。これにより、この本所駅(後の錦糸町駅)〜両国橋駅(後の両国駅)間は日本の鉄道で最初の高架区間となりました。で、私鉄の総武鉄道の力では隅田川を渡る橋を建設することが難しかったこともあり、両国橋駅はしばらく総武鉄道の都心側のターミナル駅(終着駅)として機能するようになりました。また、総武鉄道の本社もこの両国橋駅に置かれていました。当時は東京の鉄道駅の中では東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入を誇った駅で、渋谷や池袋などよりも収入の大きな駅でした。しかし、両国駅より西側の総武本線の建設が行われると、両国駅のターミナル駅としての繁栄は次第に凋落していくことになります。ちなみに総武鉄道は、明治40年(1907年)、鉄道国有法に基づく国有化により日本国有鉄道(国鉄)の総武本線となり、両国駅も国鉄の駅となりました。
1923年9月1日に発生した関東大震災による火災の延焼により開業当時の焼失してしまいました。高架橋も大きな被害を受けて、復旧して運転を再開したのは10月9日のことです。復旧当初はバラック立ての仮駅舎を建設して暫定的に営業を行っていたのですが、増大する旅客・貨物需要を捌ききれなくなったため、1929年12月に新駅舎が営業を開始しました。この駅舎が現在も使用されている駅舎です。
国鉄化されて隅田川を渡る鉄橋の建設の資金的な目処は立ったものの、その先は既に市街地になっていたため、鉄橋より西への延伸の目処がなかなか立っていなかったのですが、それを解決したのが、実は関東大震災でした。関東大震災で焼失した市街地の大規模な区画整理が行われたことで総武本線は線路用地の捻出が可能となり、1932年7月に御茶ノ水駅までの線路が完成し、総武本線の起点が御茶ノ水駅に変更されました。これにより両国駅は孤立したターミナル駅の状態を脱することになりました。御茶ノ水駅と両国駅の間は最初から電化されて電車が折り返し運転を行うようになり、非電化だった房総方面への列車の乗換駅となりました。しかしながら、電化が東へ進展して1935年7月に千葉駅まで完成すると、房総方面の列車は千葉駅で折り返すものが増え、次第に両国駅の列車ホームで発着する列車は減少していくことになりました。特に第二次世界大戦後の石炭不足による蒸気機関車牽引列車の減少と房総方面が気動車化の重点線区とされたことで、両国駅を始発・終着とする房総方面の列車は1日2往復まで減少することになってしまいました。
両国駅の凋落を決定的にしたものが、1972年7月の総武本線複々線化でした。この時、東京駅から錦糸町駅までの地下線で総武快速線が建設され、総武線の快速列車が東京駅へ直通するようになりました。特急列車もこの時より完成した東京地下駅から総武線、内房線、外房線に乗り入れを開始することになりました。この総武快速線の線路は両国駅構内の北側を通過してはいるのですが、地下から地上へ出てくるところにあり、また急カーブでもあることから、両国駅に総武快速線のホームは設けられませんでした。これにより総武快速線の列車は当駅に停まらなくなりました。この時点ではまだ房総方面への急行列車の一部など両国駅発着で残存していたのですが、1982年11月のダイヤ改正により房総方面の急行列車が全廃されたことで、かつては総武鉄道のターミナル駅として栄華を誇った両国駅は総武線各駅停車の電車のみが停車する駅となって、現在に至っています。
両国と言えば、相撲の街として全国に知られています。1年に3回、大相撲の東京場所が開催される両国国技館が駅の近くにあるほか、幾つもの相撲部屋や力士サイズの服を取り扱う洋品店などがあります。駅にも力士の像やポスターが目につきます。
さらに両国国技館に隣接して東京都江戸東京博物館があります。両国駅の東口から南に向かって歩き、京葉道路(国道14号線)を渡って少々入ったあたりの旧地名が本所松坂町(現在は両国3丁目)。本所松坂町と言えば忠臣蔵の討ち入りの舞台となった吉良上野介の屋敷があったところです。本所松坂町公園には吉良上野介屋敷跡の碑が建っています。さらにその近くの両国公園には「勝海舟生誕の地」碑があるほか、付近には江戸から明治期にかけての著名人の足跡(芥川龍之介生育の地など)が数多くあります。また、駅南東側一帯は池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主要な舞台になったことでも知られています。
両国駅西口から南方向の京葉道路(国道14号線)に続く通りにも歴代の名横綱の土俵入りの像が並び、その台座には手形も刻まれています。私たちの世代にとっては懐かしい横綱の名前が並んでいます。
両国駅西口から続く通りが京葉道路(国道14号線)にぶつかったところにあるのが、この日の最初の訪問地である回向院です。この回向院、正式名称を「諸宗山無縁寺回向院」と言います。阿弥陀如来を御本尊とする浄土宗の寺院ではありますが、正式名称の“諸宗山”という山号が指し示すように、浄土宗だけでなく、あらゆる宗派を超えた寺院でもあります。また寺院名称の無縁寺にも大きな意味があって、この諸宗山無縁寺回向院は明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」(振袖火事とも呼ばれます)の焼死者約10万8千人を当時の江戸幕府第4代将軍徳川家綱の幕命によって葬った万人塚が始まりです。焼死者のほとんどは身元もはっきりしない無縁仏。なので、“無縁寺”という寺院名称となっています。この諸宗山無縁寺回向院には明暦の大火による焼死者だけでなく、安政2年(1855年)に発生した安政江戸地震をはじめ大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災、水難事故による水死者や火事による焼死者、刑死者など幾多の非業の死を遂げた人達の無縁仏も埋葬されています。
また、あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、様々な動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数あります。
これは寛政5年(1793年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」です。この水子塚は水子供養の発祥とされていて、毎年2月の第1土曜日の14時から水子塚の前にて水子総供養を、その他は隔月毎に本堂にて水子供養が行われています。
著名人の墓として、江戸時代後期の浮世絵師で戯作者であった山東京伝(さんとう きょうでん)、江戸時代の浄瑠璃語りで義太夫節浄瑠璃の創始者である竹本義太夫、江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯の鼠小僧次郎吉などがあります。
天明元年(1781年)以降、この諸宗山無縁寺回向院の境内で勧進相撲が興行されました。これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909年)に諸宗山無縁寺回向院の境内東側に旧両国国技館が建設されました (国技館が蔵前に移転した後は日大講堂と呼ばれていましたが、現在は取り壊され、その跡地にマンションが建っています)。旧国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともあります。大相撲東京場所が開催される現在の国技館はJR両国駅横にありますが、これはこのようにこの両国が大相撲発祥の地とされているからです。これは昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立した「力塚」です。塚の周りには雷電為右衛門や玉錦三右衛門と言った伝説の名力士(横綱)達の名前が刻まれています。
諸宗山無縁寺回向院の参道横の竹林からはタケノコ(筍)が地面から顔を覗かせていました。もう、そういう季節ですね。
回向院を後にして、京葉道路(国道14号線)を西に(両国橋の方向に)歩きます。京葉道路は東京都から千葉県に至る有料道路の名称ですが、両国橋から千葉県境の江戸川区篠崎町二丁目までの区間の一般道路の東京都での通称の道路名称でもあります。特に回向院の前を通っている道路は私もカッコ付きで記載していますが、国道14号線です。この国道14号線は東京都中央区日本橋を起点として、東京湾沿いに千葉県千葉市中央区の広小路交差点に至る総延長65kmの国道で、江戸時代、これから渡る両国橋が開通して以降は房総往還や千葉街道とも呼ばれた道路です。
享保3年(1718年)創業の猪料理店「ももんじ屋」です。“ももんじ”とは“百獣”のことで、四つ足の動物の肉を扱う店のことを「ももんじ屋」と総称しました。現在はこの「ももんじ屋」を店名としていますが、正式には「ももんじやの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。この「ももんじやの豊田屋」では、江戸時代、江戸近郊の農村において農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、肉食させたり、その肉を売っていました。元々は漢方の薬屋だったのですが、薬の一種として出した猪の肉が人気商品となり、料理店に転身したのだそうです。当時、表向きは肉食が禁じられていたことから、これら肉食のことを「薬喰い」と呼び、猪肉を山鯨(やまくじら)、鶏肉を柏(かしわ)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称しました。今でも猪肉を“牡丹”、鹿肉を“紅葉”と称しますが、これは花札の絵柄に由来する隠語だとする説もありますが、赤身と脂身の色から牡丹と言ったり、牡丹を模して盛り付けることが多かったからだとも言われています。
江戸ではこの両国界隈だけでなく、市中に多くの「ももんじ屋」があり、江戸時代から獣肉を鍋物にしたり、鉄板で焼いたりして食べていたようです。これは現代のすき焼きや桜鍋の源流とも言えるものです。幕末には豚肉(猪肉)食ブームが起こり、これを好んだ第15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とも渾名(あだな)されたとも伝えられています。また、新撰組の隊士の間でも豚肉を常食にしていたという記録が残っていたりもします。これら肉食文化は明治初期の牛鍋の人気に繋がっていきました。
両国橋です。この両国橋は先ほど訪れた諸宗山無縁寺回向院への参拝客のために架けられた橋ということになっていますが、この橋には先ほど諸宗山無縁寺回向院のところで触れた「明暦の大火」が大きく関わっています。実は江戸という街のことを語る上で、この「明暦の大火」のことはどうしても避けて通ることはできません。その後の江戸、すなわち現在の東京はこの「明暦の大火」によって作られた(都市整備された)街と言っても過言ではありませんからね。
前述のように、それまで関東の一寒村にすぎないところだった江戸に徳川家康が幕府を開き、日本の政治・経済の中心となったのが1603年。それから半世紀が経過し、江戸は人口が急増し、多くの建物が建ち並ぶ人口50万人を超える日本最大の大都市へと発展したのですが、その建物はすべて木造。それゆえに、火災の発生が一番大きな問題でした。実際、江戸の街は何度も大きな火災の被害に遭っています。中でも被害の規模が大きかったのが江戸三大大火と呼ばれる「明暦の大火」「明和の大火 (明和9年:1772年)」「文化の大火 (文化3年:1806年)」。その中でも「明暦の大火」は被害規模が延焼面積・死者数ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられています。外堀以内の江戸市中のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、死者数については諸説ありますが10万人以上であったと記録されています。当時の人口約50万人のうち、5人に1人が焼け死んだということですから、未曾有という言葉がピッタリの大変な大惨事でした。
「明暦の大火」とは明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)までに江戸の大半を焼いた大火事のことです。振袖火事、丸山火事とも呼ばれます。火元は明確には特定されておりませんが、出火した火は春特有の北西からの強風に煽られて、前述のように瞬く間に外堀以内の江戸市中のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、10万人以上と言われる焼死者を出す未曾有の大惨事となりました。これは、当時、仙台藩伊達家を仮想敵国として捉えていた江戸幕府が江戸防備上の面から隅田川への架橋は奥州街道(日光街道)が通る千住大橋以外認めていなかったことにありました。前述のように市中から出火した火は折からの北西からの強風に煽られて次々に延焼。人々はその迫り来る火の手から逃れるように隅田川河畔に殺到したのですが、その隅田川には北にある千住大橋以外に橋が架けられていなかったことから逃げ場を失った多くの江戸市民が激しい火勢に飲まれ、10万人を超えると伝えられるほどの死傷者を出してしまうことになりました。関東大震災、東京大空襲、東日本大震災などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災による被害です。
この未曾有の大惨事を引き起こした「明暦の大火」は江戸幕府に大きな衝撃を与えることになり、事態を重く見た時の老中・酒井忠勝らの提言により「明暦の大火」を契機に江戸の都市構造の一大改造が行われました。徳川御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社の多くが移転しました。また、市区改正が行われるとともに、防衛のためそれまで千住大橋の1橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が次々と行われ、隅田川の東岸に深川などの市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進みました。さらに、防災への取り組みも行われ、市内各地に火除地や延焼を遮断するための防火線として広小路が設置されました。この広小路に関しては現在でも上野広小路などの地名として残っています。さらに、幕府は防火のための建築規制を施行し、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励しました。もっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、江戸の街はその後もしばしば大火に見舞われたのですが、これらの都市改造の成果により「明暦の大火」ほどの被害は出さずに済みました。
ちなみに、江戸城の天守閣は、徳川家康が造った慶長度天守、それを壊して第2代将軍秀忠が造った元和度天守、さらにそれを壊して第3代将軍家光が造った寛永度天守の3つの天守が造られたのですが、それも江戸時代260年のうちの最初の50年間だけで、第4代将軍家綱の在位中に起きた「明暦の大火」において消失してしまいました。この時、第4代将軍家綱の補佐役で日本史上屈指の名君との呼び声も高い会津藩松平家初代当主・保科正之が「天守の再建を暫し延期する」と述べ、市中の復興のほうを最優先にしたため、またその後の経済的な理由から天守閣は遂に再建されることなく、現在に至っています。
このように明暦の大火を契機として、防火・防災目的のために万治2年(1659年)に千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋がこの両国橋です。最初に架けられた橋の位置は現在の橋よりも少し下流側で、長さ94間(約200m)、幅4間(8m)という当時としては相当に規模の大きな堂々たる橋でした。その堂々たる姿にあやかって名称は当初「大橋」と名付けられていたのですが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国に跨がっていたことから俗に「両国橋」と呼ばれ、元禄6年(1693年)に新大橋が架橋されると「両国橋」が正式名称となりました (武蔵国と下総国の国境はその後江戸の街が東に広がったのを受けて、東に移動します)。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担いました。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えが行われ、木橋としては明治8年(1875年)の架け替えが最後でした。この木橋は西洋風の96間(約210m)の橋だったのですが、明治30年(1897年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう事故を起こしてしまいました。死傷者は数十名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定しました。結果、明治37年(1904年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わりました。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mの橋であったと記録に残っています。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったのですが、他の隅田川に架かる橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられました。現在の両国橋は平成20年(2008年)、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定されています。
両国橋の東詰に『表忠碑』が建っています。この『表忠碑』は日露戦争で出征し、護国の為に身命を捧げられた英霊達を祀ったものです。揮毫したのは日露戦争において元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め、日本の勝利に大きく貢献した大山巌。この両国橋の『表忠碑』は芥川龍之介の生家に近く、芥川龍之介もこの碑に関しての感想を書き残しているのだそうです。
この『表忠碑』の手前には忠臣蔵で有名な赤穂浪士の1人、大高源五忠雄が詠んだ句碑があります。「日乃恩や 忽ち砕く 厚氷 」 と刻まれています。前述のように吉良上野介の屋敷は回向院の裏手の本所松坂町にあったので、元家老・大石良雄(内蔵助)率いる47人の赤穂浪士の皆さんは、元禄15年12月14日(1703年1月30日)の深夜にこの両国橋を渡り、旧主君・浅野長矩の仇である吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、吉良上野介義央および家人を殺害したわけですね。大高源吾忠雄は元赤穂藩の金奉行・膳番元方・腰物方を務めた人物で20石5人扶持。忠臣蔵では吉良家出入りの茶人に接近して12月14日に本所松坂町の吉良上野介の屋敷で茶会があることを聞きつけた人物として描かれています。俳諧を趣味としていて、俳人の宝井其角(たからい きかく)と深い交流があったと言われています。辞世の句は「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」。享年32歳でした。
その右隣に建つ石碑は「両国橋」についての由緒書きです。いろいろと細かく文字が刻まれているのですが、残念ながら細かすぎて読めませんでした(汗)
両国橋を渡ります。下を流れる川は隅田川です。
両国橋の東詰に「両国橋と百本杭」という由緒書きが立っていました。それによると、両国橋の風景を特徴づけるものの一つに、「百本杭」というものがあったそうです。昭和5年(1930年)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が侵食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく、流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭は、いつしか「百本杭」と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになったのだそうです。
0 件のコメント:
コメントを投稿