2023年12月24日日曜日

令和6年 ジモト学のススメ

 公開日2024/01/03

[晴れ時々ちょっと横道]112回 令和6年 ジモト学のススメ

旧宇和島街道の法華津峠から見た法華津湾(宇和海)の風景です。遠くに藤原純友が本拠とした日振島、そしてその先には九州の南部、さらに太平洋まで見えます。私はここから見た風景が、日本で一番好きです。

皆様、新年、明けましておめでとうございます。

今年一年が皆様にとりまして素晴らしい一年になりますことを、心よりお祈り申し上げます。

 

現在、全国各地で地方からイノベーションを興そうという動きが活発になってきています。嬉しいことに愛媛県でも、松山市を中心に職種・職域・企業の垣根を超えたビジネスパーソンのコミュニティ『たてヨコ愛媛』が活発に活動を行っていたり、「波のないセトウチに波を立てる」を合言葉に瀬戸内地域の若手経営者らが一堂に会して地域経済の活性化などについて考えるイベント『BLAST SETOUCHI』が愛媛県発祥で開催されたりしています。私が会長を務めさせていただいている愛媛デジタルデータソリューション協会(EDS)でも、愛媛県中小企業家同友会様や松山市中小企業振興円卓会議様から委託を受けて開催している「松山DX勉強会」も3年目を迎え、来年度は県内他の自治体様からも開催の御依頼を受けているところです。これにとどまらず、愛媛県内各地で愛媛からイノベーションを興そうという同様の動きが幾つも出てきており、私がデジタル人材育成関連の講義で教壇に立たせていただいている松山東雲女子大学では、今年4月に、その名も「地域イノベーション専攻」という新しい学科も誕生します。これは本当に素晴らしいことだと、私は思い、「愛媛の未来は明るい!」と心から感じているところです。

そうした地域にイノベーションを興していこうという素晴らしい動きの中で、最も重要なことは、その地域の強み、その地域が潜在的に持つポテンシャルを正しく理解し、その強み・ポテンシャルをベースに、それらを最大限に活かす方法を考えていくことだ…と思っています。

経営戦略策定の基本的な手法の1つに「SWOT分析」と呼ばれるものがあります。SWOT分析とは、経営目標を達成するために意思決定を必要としている組織や個人が、事業環境変化に応じた経営資源の最適活用を図るために、自らが置かれている外部環境や内部環境を正しく分析・評価するための基本的な経営手法のことです。SWOT分析では、自らが置かれている外部環境や内部環境を強み(Strength)、弱み (Weakness)、機会 (Opportunity)、脅威 (Threat) 4つのカテゴリーに分けて分析し、事業遂行上の競合やプロジェクト計画などに関係する脅威や機会を表面化していきます。私も崖っぷちの状況に立たされていた気象情報会社の経営を立て直すために、このSWOT分析を用いました。経営立て直しのための戦略策定は、このSWOT分析だけだったと言っても過言ではありません。結果、創業以来10年連続赤字で累積損失の山。崖っぷちの経営状態だった会社のビジネスモデルを根本的に変革し、僅か3年で単年度黒字に持っていき、以降、連続して黒字経営が続いています。おかげで、膨大に蓄積していた累積損失も解消させることができ、株主様に毎年配当が出せる会社にもすることができました。

このように、経営戦略立案においては極々基本的な手法ではありますが、ちゃんとその意味を理解して使えば、そのくらい実用的で効果のある手法であると言えます。 

経営戦略策定フレーム:SWOT分析。

その私の経験から言わせていただくと、SWOT分析において一番重要なのはS、すなわち自社(自分)強み(Strength)”を正しく理解できているかどうかだと思っています。自社(自分)強み(Strength)”を正しく理解できていないと、分析を進めていく中で、どうしても単なる悲観論に陥っていく傾向になってしまいます。また、ありきたりの一般論に陥ってしまいがちで、独自性など出しようがなく、自社の今後の命運を左右するような具体的、かつ実行性(実効性)のある経営戦略を打ち出すことなど、到底できることではありません。地域イノベーションにおいても、同様のことが言えると私は思っています。愛媛県という地域が持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)を正しく理解しておくことが、すべてのスタートです。この正しく理解した愛媛県が持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)を用いて真剣にSWOT分析を行うことで、地域でイノベーションを興すための様々なビジネスの戦略やアイデアがいろいろと浮かんでくると、私は経験から思っています。

この愛媛県が持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)の理解には、単に現在目に見えている社会的な事柄だけにとどまらず、自然環境(地形・地質を含めた地理的環境や気象・気候環境)や歴史、文化、風習といった非常に多岐に渡る視点から、もう一度愛媛県、さらにはご自分が住む自治体等を冷静に眺めて、分析する必要があります。私は高校を卒業した18歳の時に生まれ育った郷里四国の地を離れ、長く首都圏で仕事をし、埼玉県に自宅を構えてそこで暮らしてきました。そして縁あって63歳の時に郷里愛媛に戻り、現在は実家のある愛媛県松山市と自宅のある埼玉県さいたま市を毎月のように行き来する二拠点生活を送っています。

そのような私だからこそ見えてくる愛媛県の強みや潜在的ポテンシャルの高さがあります。15年間も気象情報会社の社長を務めさせていただいたこともありますが、私は自然環境を眺めるのが好きで、これまで全国、いや世界中、いろいろなところに行ってきました。しかし、愛媛に拠点を移してみて、愛媛、もっと言うと四国ほど自然環境の面で面白いと感じられるところはないなと今は思っています。四国は中央構造線をはじめ4本の主要な構造線(断層帯)が東西を横切り、その構造線に挟まれた地質帯は形成された時代や形成する岩石の成分がまるで異なっています。そこが周囲を太平洋、瀬戸内海、豊後水道、紀伊水道といったまったく異なる性格を持った海で囲まれています。まるで四国という島全体がジオパークと呼んでもいいほどの興味深いところです。このうち、中央構造線と御荷鉾構造線に挟まれた三波川変成帯は実は地下資源の宝庫とも言えるところで、別子銅山や佐々連鉱山、市之川鉱山をはじめ大小幾つもの鉱山が存在していました。

歴史的にも、愛媛というところは現代の私達が思っている以上に、日本国において重要なところでした。現代では忘れ去られているようなところもありますが、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、伊予国(現在の愛媛県)の国司である伊予守は、当時国内に60ヶ国余りあった律令国(令制国)の国司の中でも最上位の格式がある官位の一つで、あの平重盛や源義経といった歴史上の有名人達もこの伊予守に任命されていました。これは当時の伊予国がトップクラスの「国力」を誇る律令国だったからです。また、江戸時代、伊予国(現在の愛媛県)には親藩、譜代、外様入り乱れて計8つの藩と幕府直轄領である2つの天領が存在しました。その石高の合計は45万両近くに及び、これは岡山藩や広島藩を凌ぐほどの規模でした。おそらく江戸幕府は伊予国(愛媛県)の持つ潜在的なポテンシャルの高さを知っていて、その勢いを削ぐためにこんなに細かく分割したのではないかと推察されます。こんな都道府県、私が知る限り、ほかにはありません。

このような地元住民の皆さんでもなかなか気づかない愛媛県の魅力につきましては、これまでこのコラム『晴れ時々ちょっと横道』の場で、私からいろいろとご紹介させていただいてきました。愛媛県が持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)の高さを知るにはこれまでとは違ったアプローチで愛媛県を眺めてみる必要があろうかと思います。それでご提案するのが『ジモト学』です。「地元学」ではなく、敢えてカタカナで『ジモト学』としたのは、地元のことを考えるための学問ということに加えて、自分自身のルーツ等についても調べ直してみるための学問という意味も込めました。前述のように、自らが持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)を知ることがイノベーションを興す源泉になるという考えでいますから。

この『ジモト学』、現在私がデジタル人材育成の関連で教壇に立たせていただいている県内6つの大学に対して、今年は開講に向けてのご提案を順次していきたいと考えております。

うーーーーーん、愛媛の未来は明るいです!!

 

2023年12月6日水曜日

棚田・段々畑

 [晴れ時々ちょっと横道]第111回 棚田・段々畑


西条市「黒谷の棚田」です。(4月撮影)

近年、開発によって日本全国の地域における個性が失われていく中にあって、棚田や里山といった人々の生活や風土に深く結びついた地域特有の景観の重要性が見直されるとともに、その保護の必要性が認識されるようになっています。このような流れを受けて、平成17(2005)41日に施行された改正文化財保護法では、第2条第1項に規定されている文化財の範囲に、第5号「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のために欠くことのできないもの」という一文が加えられ、新たに“文化的景観”というものが定義されました。この規定に基づき、国(文化庁)が選定している『重要文化的景観』が現在全国に72カ所あります。そのうち、愛媛県内で国の『重要文化的景観』に選定されている場所は3箇所。宇和島市の「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)段畑」、北宇和郡松野町の「奥内の棚田及び農山村景観」、そして西予市の「宇和海狩浜の段畑と農漁村景観」の3カ所です。この3カ所に共通しているのは段々畑/棚田。(また、北宇和郡松野町の「目黒の農山村景観」も選定に向け、審査を受けているところです。)

また、この文化庁による『重要文化的景観』とは別に、平成11(1999)に農林水産省が棚田の保全のための整備活動の推進や、農業や農村に対する理解を深めることを目的として選定した『日本の棚田百選』というものがあり、現在までに全国134地区の棚田が選定されているのですが、この『日本の棚田百選』にも愛媛県内に以下の3箇所の棚田が選定されています。国の『重要文化的景観』にも選定されている北宇和郡松野町の「奥内の棚田」に加えて、西予市城川町にある「堂の坂(どうのさこ)の棚田」と、喜多郡内子町にある「泉谷(いずみだに)の棚田」の3カ所です。

この『日本の棚田百選』の選定から20年以上が経過している昨今、棚田地域では、担い手の減少や農家の高齢化等により従来のような保全活動が難しくなり、棚田の荒廃の危機に直面しています。このため農林水産省は令和4(2022)3月に、棚田地域の振興に関する取組を積極的に評価し、棚田地域の活性化や棚田の有する多面的な機能に対する一層の理解と協力を得ることを目的、改めて優良な棚田を認定する取り組み『つなぐ棚田遺産~ふるさとの誇りを未来へ~』として、全国271地区の棚田を選定したのですが、ここにも愛媛県内から、西条市千町(せんじょう)の「千町の棚田」、東温市井内(いうち)の「井内の棚田」、同じく東温市河之内の「雨滝音田(あまたきおんだ)の棚田」、大洲市戒川の「樫谷(かしだに)棚田」、そして北宇和郡松野町の「奥内の棚田」のカ所が選ばれました。

このほかにも愛媛県内には西条市黒谷(くろだに、「くろのたに」とも)の「黒谷の棚田」や八幡浜市の「向灘(むかいなだ)の段々畑」「川上の段々畑」「真穴(まあな)の段々畑」など美しい景観の棚田や段々畑が幾つもあり、棚田と段々畑は愛媛県を代表する農村風景となっています。



【棚田とは】


東温市井内の「井内(いうち)の棚田」です。(7月撮影)

棚田(たなだ)とは、傾斜地にある稲作地、すなわち田圃(たんぼ)のことです。傾斜がきつく耕作単位が狭い状態において、水平に保たれた田圃が規則的に集積し、それらが一望の下にある場合は千枚田(せんまいだ)とも呼ばれます。日本以外でも稲作を行っている山間地域には、ほぼ棚田のような耕作地を見ることができ、中華人民共和国とフィリピンの棚田は特に有名です。中華人民共和国の雲南省にある棚田は、世界最大とも言われていて、この地域は、2013年に『紅河哈尼(こうがハニ)棚田群の文化的景観』としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。ちなみに、英語では「rice terraces」と表現されるのだそうです。棚田と同様に傾斜地を段状にした畑は段々畑(だんだんばたけ)と呼ばれます。

日本の国土面積のうち、山地が占める割合は、約3/4で、7375%くらいと言われています。このように山地が卓越する我が国においても、特に四国はさらに山がちなところなんです。国土地理院の提供している国土数値情報に基づく地方別山地割合を見ると、数値の高い順に四国80%、中国74%、中部71%、近畿64%、東北64%、九州64%、北海道49%、関東41%となっています。中でも高知県と愛媛県の両県は山地の割合が86%、83%と8割を超えているのが特徴です。

標高別面積をみると、四国は全国平均に比べ、300メートル~1,000メートルの標高の面積割合が高く、中山間地と言われるところが多いのが特徴です。関西以西の府県別平均標高をみると、1位の奈良県の570メートルに次ぎ、2位は徳島県の461メートル、3位は高知県の433メートル、4位は愛媛県の403メートルと、香川県以外の四国3県は完全な山国といえます。奈良県は海に面していない県なので平均標高が高いのも分かりますが、四国の3県はいずれも海に面していて、この平均標高ということは驚くべきことだと思います。それはすなわち、四国は平野が少なく、海からすぐに山が急な傾斜で立ち上がっているような地形であると言うことを意味しています。それは、私がこのコラム『晴れ時々ちょっと横道』の中で何度もご紹介しているように、四国を東西に日本最大の断層帯である中央構造線をはじめとした断層帯(構造線)が幾つも横切っていて、西日本最高峰の石鎚山(1,982メートル)や第2峰の剣山(1,955メートル)といった標高の高い山々が屏風のように連なる四国山地を形成しているからです。なので、四国では戸外の風景の中には必ずと言っていいほど山が入ってきます。愛媛県に美しい棚田や段々畑が多いのも、この中央構造線をはじめとした断層帯(構造線)が創り出した地形が大きな要因だと思います。

 

【実は棚田は稲の成育に適していた】

日本の稲作の適地は、安定した水利を得られることに加えて、その水を流すための農業用水路の管理が容易に行える土地である…と言うことができます。土地には元々傾斜があるものなのですが、傾斜が少な過ぎる平坦な土地や排水がしづらいような土地はどうしても“湿地”となるため、安定した稲作を行うためには不適な土地でした。

稲作において水の管理は最も重要なことです。水田においてコメ()を作るのに必要となる水の量は、1(10アール)あたり2,000トン〜3,300トンといわれています。 コメ(玄米)の平年収量は、1反あたり530kgほどですから、ここから計算すると、玄米1グラムを作るのに、3.86.2kgの水を使う必要があるということが分かります。生育するためにはこれほど大量の水が必要な稲作なのですが、出穂(しゅっすい)してからは、今度は水田の水を抜くことが必要となります。この水田の水を抜くことを落水(らくすい)と言います。

稲は、通常8月上旬から下旬頃に茎の中から、さやを割ってうす緑色の穂()が出てきます。このことを出穂(しゅっすい)といいます。そして、この穂にコメ()の花が咲きます。コメの花が開花してから約20日間でコメの粒(籾:もみ)は大きくなり、35日目頃に完熟します。これでコメが完成するわけです。通常は稲が出穂してから2週間後〜25日後頃までは、湛水(たんすい、水を貯めること)・落水状態を数日間隔で繰り返す間断灌漑(かんがい)を行います。 その後、出穂25日後以降に完全に落水を行い、土と稲を乾かすことにより登熟(とうじゅく、玄米の発育・肥大)を完了させ、収穫(稲刈り)に備えます。この落水の時期の判断が、稲作において成否を分ける最大の鍵を握る事項であるとも言えるもので、その年の天候や田圃の土壌条件(湿田か乾田かなど)によって最適の時期を選びます。早く落水しすぎると、玄米の充実が悪くなり、未熟米・くず米・胴割れ米(内部に亀裂が生じた状態)などが増加します。また、水分不足により、病害虫(ウンカや穂いもち=穂首などに発病するいもち病=など)の被害も受けやすくなります。逆に落水が遅れると、籾(もみ)が熟れすぎて、コメの品質が悪くなります。また、稲の穂が倒れて稲刈りを困難にする倒伏(とうふく)の原因ともなります。田圃ごと、年ごとに最適な稲刈りの日を判断し、そこから逆算して落水を行う必要があるわけです。

このような田圃の水の管理を適切に行おうとした場合、ある程度の土地の傾斜が必要であり、傾斜があまりにも少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに、むしろ不適当な土地とされていました。すなわち、近世以前の稲作適地は、比較的小規模で緩やかな沖積扇状地、小規模な谷地、あるいは小規模で扱いやすい地形が連続する隆起準平原と呼ばれる地形の上などが主力であり、いずれも河川の中上流域が中心でした。これらの土地は緩やかな高低差があり、一つ一つの田圃の間に明確な高低差が生じて、棚田を形成していました。

実際、最高級のコシヒカリの産地として有名な新潟県の魚沼地方は、越後三山一帯の越後山脈、三国山脈の麓に広がる周囲を山に囲まれた盆地で、緩やかな傾斜地になっています。もちろん、そこの水田は広い棚田になっています。日本有数の穀倉地帯として知られる山形県の庄内平野も主に最上川と赤川の堆積作用により形成された平野ではあるのですが、昔から米作りが行われていたのは、秋田県との境である鳥海山(出羽富士)をはじめ、摩耶山(まやさん)、金峯山(きんぼうざん) 、月山(がっさん)等の山に囲まれる平野北部の地域で、このあたりも山に向かって緩やかな斜面が広がるところです。

近世以降は農業土木技術が向上し、傾斜が少ない沖積平野でも、水路に水車を設けること等により灌漑や排水が出来るようになり、現在、穀倉地帯と呼ばれるような河川下流域の平野での稲作が急激に広まりました。しかし、愛媛県は前述のように地形的に急峻(きゅうしゅん)な山地がいきなり海に没するような地形で、また沖積平野も比較的狭いところが多い上に、耕作適地は古くから高度に農地化されていて、これ以上の収量は見込めないような状況でした。このため、江戸時代に干拓を含めた沖積平野の新田開発の余地が乏しくなると、地域()経済の基盤となるコメの石高を増やすため、今度は急傾斜の山岳斜面上に水田を作るという今では無謀とも思えるような取り組みが積極的に行われ、多くの棚田が作られました。その際、極限まで収量を増やすため、城郭建築で培ってきた伝統的な石垣構築の技術を活かし、棚田の畔(あぜ)や土手の部分は、急な傾斜に耐えられるように石垣で作られました。これが今も残る棚田の興りです。

第二次世界大戦後は稲作の大規模化・機械化が推し進められ、傾斜に合わせて様々な形をしていた田圃は、農業機械が導入しやすい大型の長方形に統一されて整備されていきました。棚田のうち、特に愛媛県のように急傾斜の地域ではこのような圃場整備(大規模化)や機械化は難しく、大規模化をしようとすると斜面を大きく削らなくてはならず、法面(のりめん)の土砂崩れ対策など付帯工事の費用が莫大となるため、大規模化がされなかったり、そのまま営農放棄されたりして、荒廃していくところも多く見られました。

追い討ちをかけたのが、昭和45(1970)度から実質的に開始され、平成30(2018) 度に廃止となったコメの生産調整、いわゆる「減反政策」で、この減反政策において、農林水産省は木材自由化の目処(めど)が立たないこともあり、棚田のスギ林への転換を奨励しました。しかしこの棚田に対する減反施策は失敗し、無惨に放置されたスギ林は花粉症流行の大きな原因となっていると言われています。

現代日本では非効率の代表のように思われている棚田ですが、欧米人を中心に、文化人の間では以前から稲の成育に適した棚田という手法を称賛する声がありました。実際、昭和の初期にアメリカ合衆国で開催された某経済学会で、ある地理学者が「日本の棚田はエジプトのピラミッドに並ぶ偉大なものであり、農民の労働・勤勉の結晶である」とまで絶賛したことがあったとも言われています。また、昭和60(1985)に、小説家の司馬遼太郎先生が『街道をゆく』シリーズの取材で高知県を訪れた際、梼原町の千枚田を見て、「えらいもん」「大遺産」と絶賛の言葉を連発したという逸話も残されています。

 

【段々畑とは】

八幡浜市の「向灘(むかいなだ)の段々畑」です。(7月撮影)

棚田と同様に傾斜地を段状にした畑のことを段々畑(だんだんばたけ)と呼ぶというのは前述のとおりですが、特に愛媛県で非常に多く見られる柑橘(かんきつ)畑の段々畑は、稲作を行う棚田とはまったく異なる経緯で作られたものです。

収穫時期には山全体がオレンジ色に染まり、美しい風景となる段々畑ですが、実は柑橘類の段々畑は、棚田とは異なり、自然環境を柑橘類の成育条件に合わせることを主目的に敢(あ)えて作ったものなのです。愛媛県は、年間平均気温が15℃以上で冬の最低気温が氷点下5℃以下にならず、また8から10月にかけて日照時間が多いなど、柑橘類の成長に必要な基本的な気象条件が揃(そろ)っているのですが、そのうえでより甘く商品価値の高い柑橘類を作り出すために、海に面した急斜面の畑で主に栽培が行われています。これには以下の4つの理由があるとされています。


[理由1]水はけの良い急斜面

柑橘畑の多くが、なだらかな平地ではなく、山地などの急斜面に段々に拓(ひら)かれています。その結果、雨水や地下水が流れやすく、水はけが良いため、柑橘が余分な水分を吸収せず、コクがある柑橘が育ちます。


[理由2]燦々と降り注ぐ 3つの太陽

急斜面の柑橘畑には、燦々(さんさん)と太陽の光が降り注ぎます。また、段々畑の石垣からの照り返しの光、目の前に広がる海からの照り返しの光という3つの光で美味しい柑橘が育まれます。特に南に面した急傾斜ではどの角度でも太陽の光が当たり、段々になった畑では葉と葉の重なりが少なく、どの木にもほぼ一様に太陽の光を当てることができるため、甘くて美味しい柑橘が栽培されます。加えて、石垣の石は熱が冷めにくいためカイロのように暖かさを保つ役割を担います。

 

[理由3]海からの潮風

海に面した柑橘畑では、海からの潮風によって、土がミネラル豊富な栄養分をたくさん含んでいるため、土が良い土壌を作ることで、栄養価の高い美味しい柑橘を収穫することが可能となります。一部では海水を畑にまく農家があるほど、ミネラルは美味しい柑橘に欠かせません。

 

[理由4]石灰岩の土壌

愛媛県では石灰岩が多く採掘されることから、段々畑の土留めには白い石灰岩の石積みが使われています。石灰岩からは、柑橘栽培に必要なカルシウムを補うことができ、肥料や雨で酸性になりがちな土壌を中和します。


これらは愛媛県に限らず、静岡県や和歌山県、佐賀県といった柑橘類の産地でも、ほぼどこも海に面した急傾斜の段々畑で柑橘類が栽培されています。このことは海外においても当てはまり、アメリカ合衆国で柑橘の産地とされるフロリダ州やカリフォルニア州南部も海に面した急傾斜の段々畑で柑橘類が栽培されています。

 

 

【棚田・段々畑の保護について】

このように、日本の棚田や段々畑の多くは、長い歴史を有し、国民への食料供給にとどまらず、国土の保全、良好な景観の形成、伝統文化の継承等に大きな役割を果たしてきました。現在、棚田や段々畑は、国土や美しい景観の保全、農山村部のコミュニティ維持や都市との交流、文化・教育といった多面的な価値が再評価されており、政府も令和元年(2019)816日に『棚田地域振興法』を施行するなどして営農継続を支援しています。前述の令和4(2022)3月に始まった『つなぐ棚田遺産~ふるさとの誇りを未来へ~』として、全国271地区の棚田を選定したのも、その一環です。

ということで、愛媛県内に幾つも残る棚田や段々畑のうち、特に景観が良くて、国の『重要文化的景観』に選定されている3カ所、宇和島市の「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑」、北宇和郡松野町の「奥内の棚田及び農山村景観」、そして西予市の「宇和海狩浜の段畑と農漁村景観」を訪れてみました。

 

遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑(宇和島市遊子)

宇和島市の「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段々畑」(7月撮影)

宇和島市の「遊子水荷浦の段々畑」(7月撮影)

宇和島市周辺の宇和海沿岸には、延々と海面上昇や地盤沈下を繰り返して出来上がった入り江が作り出す美しいリアス海岸が続いています。ここではその複雑な地形と温暖な気候とが相まって、柑橘栽培と魚介類養殖が国内屈指の規模で営まれています。遊子水荷浦(ゆすみずがうら)はその中の宇和海に突き出た三浦半島の中ほどにある小さな集落ですが、ここには近世から続く半農半漁の営みの姿を今でも見ることができます。「耕して天に至る」とも形容される遊子水荷浦の段々畑は、急な山の斜面に石垣を積み上げて造られた階段状の畑地です。その雄大な景色は、下から見上げると、まるで天にる階段のようにも見えます。見るものを圧倒するような素晴らしい風景です。かつてはこのような段々畑が三浦半島をはじめとした宇和海沿岸の海岸線で数多く見られたのですが、現在も残っているのはこの遊子水荷浦のみになっているのだそうです。ここの段々畑も一時は面積が約2haまで落ち込んでいたそうなのですが、地元の伝統を残そうとする地元住民の方々の強い思いから平成12年度に結成された地元保存団体「段畑を守ろう会」を中心に休耕地の復旧に取り組み、国や県の支援を受けながら、現在は5ha近くまで回復しているのだそうです。現在は、地元JAで水荷浦産ジャガイモのブランド化が図られるなど、遊子水荷浦の段々畑を資源とした産官民一体の地域活性化へと広がっています。

 

奥内の棚田及び農山村景観(北宇和郡松野町)

北宇和郡松野町の「奥内の棚田及び農山村景観」(7月撮影)

北宇和郡松野町の「奥内の棚田及び農山村景観」(7月撮影)

北宇和郡松野町は、愛媛県の西南部、高知県との県境に位置し、周囲を標高9001,200メートル級の山々に取り囲まれた山間の町です。四万十川の支流となる広見川や目黒川が流れ、河岸段丘によって平坦地が形成されています。「奥内の棚田及び農山村景観」は、その名称のとおり、主体となる構成要素は棚田です。その棚田を中心に、江戸時代から続く伝統的な土地利用の維持、継承によって良好な農山村の景観が保たれてきました。最大で4メートルを超える石垣をもつ棚田は主に谷の底に向かって展開し、農民が住む民家は谷の上の尾根の部分に、野菜等を栽培する畑は民家の周辺から山際にかけてというように現在でも生活・生業の主体となる部分は、それぞれ昔からの基本的な立地を踏襲している感じです。また、この農山村を取り巻く山林は広葉樹主体の天然林の占める割合が高く、豊富な生物環境を育む場ともなっており、かつては山林資源の利用も活発であったと推定できます。さらに、奥内では集落に溜(た)め池が存在しておらず、周囲の山林全体が棚田等での営農や生活に欠かすことのできない水の供給源となっている点も特徴として挙げられます。この奥内も素晴らしい風景です。

 

宇和海狩浜の段畑と農漁村景観(西予市明浜町)

西予市の「宇和海狩浜の段畑と農漁村景観」(6月撮影)

西予市の「宇和海狩浜の段畑と農漁村景観」(6月撮影)

西予市は、愛媛県南西部に位置し、西は宇和海から東は四国カルストまで東西に長く、高低差は01,400メートルまであり、多様な自然景観を有し、市全体がほぼ四国西予ジオパークに位置しています。このあたりは四国を東西に横切る御荷鉾(みかぶ)構造線と仏像構造線という2つの構造線(断層帯)に挟まれた秩父帯と呼ばれる四国で最も古い地質帯で、古生代の石炭紀(36千万年前〜約3億年前)から中生代のジュラ紀(2億年前~約15千万年前頃)にかけて形成されたものです。このため、長い年月をかけて海面上昇や地盤沈下を繰り返して出来上がった入り江が宇和海に沿って延々と作り出す美しいリアス海岸が続いています。西予市明浜町狩浜は西予市南西部に位置し、法華津(ほけつ)峠付近から大崎鼻に突き出た半島の中ほど南側にあり、地区全体が宇和海に面しています。海岸部はリアス海岸が広がり、集落の背後には、間近にまで山々が迫っています。民家は海沿いの狭い平地に密集し、耕地は山の斜面に階段状に広がり、「段畑」と呼ばれています。狩浜の段畑は、地元産出の石灰岩で築かれ、他には見られない壮観となっています。狩浜地区は江戸時代より半農半漁の暮らしが続き、現在も、漁業では真珠や魚類の養殖業とシラス漁が行われています。海には真珠養殖筏(いかだ)が浮かび、浜にはシラスを干す干場が点在しています。かつてはイワシ漁が盛んだったそうですが、今はその面影は殆(ほと)んど残っていません。段畑は江戸時代、自給用の芋、麦を栽培していたそうですが、明治以降に養蚕業が入ると桑を植え付け、石灰岩を利用した段畑の石垣化が進みました。養蚕業は第二次世界大戦中に衰退し、戦後は再び芋、麦の栽培が主体になりましたが、昭和30年代からは今度は柑橘栽培が発展し、現在では県内有数の柑橘の産地となっています。集落内には、養蚕業が盛んだった頃に建てられたと思われる養蚕・居住兼用の家屋や養蚕小屋、納屋等が今も多数残っており、伝統的な集落景観が保たれています。このように狩浜には、「農漁村」として歩んできた集落景観が良好に残され、温暖な宇和海に面した愛媛県南予地方に住む人々の伝統的な生活を理解する上で、忘れてはならない景観地であると言えますね。


どこもちょっと行きにくいところばかりではありますが、さすがに国の『重要文化的景観』に選定されている3カ所です。いつまでも眺めていたい美しい景観に癒されます。一度は訪れてみる価値は十分にあります。いつまでも残しておきたい愛媛の、そして日本の原風景ですね。


2023年10月5日木曜日

鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】②

 公開日2023/11/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第110回 鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】②


【伊予八藩紀行・新谷藩】

この新谷駅のある大洲市新谷町には、江戸時代、新谷藩の陣屋が置かれていました。新谷藩は、大洲藩の支藩で、石高は1万石。江戸時代、石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主は大名と呼ばれていたので、大洲藩の支藩であったと言っても立派な独立した藩でした。

新谷藩の陣屋跡は大洲市立新谷小学校になっています。右側に立っているのは『銀河鉄道999』のメーテルの像です。

新谷小学校です。元新谷藩の陣屋敷だったところなので、陣屋敷を模した校舎が建てられています。お洒落です。

元和9(1623)、大洲藩初代藩主の加藤貞泰(さだやす)が跡目の届け出を幕府にしないまま急死したのですが、長男の五郎八泰興(やすおき)が時の第2代将軍徳川秀忠に御目見し、相続を認められました。その際、貞泰の遺領6万石のうち5万石を泰興が継いで大洲藩の藩主とし、弟の大蔵直泰(なおやす)が元服した際に残りの1万石を分知することが条件として出されました。これがきっかけとなり寛永16(1639)まで大洲藩加藤家内では長くお家騒動が続き、結局、「内分分知(ないぶんぶんち)」ということで決着がつき、寛永19(1642)に初代藩主・加藤直泰の居宅である陣屋が新谷に完成したことで、新たに新谷藩が立藩しましたた。内分分知とは、江戸時代における武家(特に大名、旗)の分家形態の1つで、分家の創設の際に、主君から与えられた領地の石高を減らすことなく、新規に分家を興す形態のことを言います。藩内の内分分知は、本来は本藩の陪臣(部屋住みの身分)の扱いなのですが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例となりました。まぁ、この分知は第2代将軍徳川秀忠の直々の裁定によるものなので、特例ってことなのでしょう。

ただ、この大洲藩の内分分知にあたっては、長くお家騒動が続き、無理矢理数字上1万石にまとめあげようとしたところもあって、陣屋は大洲藩の城下にほど近い喜多郡新谷村に置かれたものの、その領地は喜多郡のうち3ヶ村と浮穴郡のうち8ヶ村、伊予郡のうち3ヶ村という大洲藩領内に飛び地のように散在する複雑な藩領の形になりました。このような領地分布の形態をもつ藩は全国でも極々少数のことで、このことが愛媛県民の間でも新谷藩という藩が江戸時代に存在したことすらほとんど知られていないことの大きな要因なのではないかと推察されます。

このようにしてめでたく立藩した新谷藩ですが、その後、藩領内及び藩領が異なり隣接する各村落の間で、農業用水についての利害の対立が起こり、ことに藩領が相異する村落間では激しい紛争が頻発しました。その農業用水をめぐる紛争を緩和し解決する手段として、関係する村落を同一藩領分内の村としてまとめ、新谷藩の石高が1万石のまま変わらないように両藩間で調整して交換するいわゆる村替が大洲藩との間で何度か行われ、微妙に藩領の変更が行われています。これにより、藩領の形態がさらに複雑化しています。

伊予八藩紀行(その2)で取り上げた伊予小松藩の場合と同様、石高が1万石という小藩だっただけに藩士の数も限られ、立藩時の藩士の数は僅かに31名だったようで、江戸時代中期の享保12(1727)~天明5(1785)においても総計83人だったようです。現代の中小企業並みですね。

幕末期における新谷藩の陣屋・武家屋敷図です。(出典:愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』)

大洲藩からの内分分知により独立した藩として立藩した新谷藩ですが、初代藩主・加藤直泰に嗣子がいなかったため、寛文9(1669)に大洲藩第2代藩主・加藤泰興の嫡子・加藤泰義の長男(すなわち加藤泰興の孫) 泰觚(やすかど)が直泰の養嗣子となり、天和2(1682)、直泰の死去により跡を継いで新谷藩第2代藩主となりました。これにより新谷藩は独立した藩ではあるものの、大洲藩の支藩の色合いが徐々に濃くなっていきました。

江戸時代後期になると、藩領内を流れる肱川やその支流の矢落川のたび重なる氾濫による水害や陣屋町の火災などに見まわれ、年貢収入が思うようにならないこともあって藩の財政は困窮を極め、何度も倹約令が発せられました。文化6(1809)になると財政は藩としての存続さえ危ぶまれるような危機的な状態に陥り、新谷藩は独立藩としての機能を停止し、その後5年間の期限付きで、行政・財政という藩政の両面にわたって、本家である大洲藩に全面的に執行を委ねるということまで行われました。このように新谷藩の財政は常に非常に厳しかったようで、明治初頭での実高は9,693石と、表高の1万石を割り込んでいました。小藩の藩運営の厳しさが窺い知れる数字です。

そういう厳しい財政状況の中ではあったものの(いや厳しい財政事情であったからこそ)、新谷藩は人材の育成に力を入れました。特に、第4代藩主・加藤泰広(やすひろ)は好学の人で、享保17(1732)の在府中に、江戸藩邸ではじめて藩士教育のための塾を開きました。第6代藩主・加藤泰賢(やすまさ)は、天明3(1783)に藩校を創設して「求道軒(きゅうどうけん)」と名づけました。これは大洲藩も藩校「明倫堂」にならったものだと言われています。しかし、藩財政窮乏がその極に達した文化6(1809)頃から藩校「求道軒」は自然休校となり、いったんは廃校となりました。第8代藩主・加藤泰理(やすただ)は、天保年間(1830年〜1844)に藩校「求道軒」を再興し、侍講(藩主に学問を講義する人)であった儒学者・児玉暉山(きざん)を抜擢して教授とし、藩校の経営を全面的に委託しました。児玉暉山はこの藩主の大きな期待に応えて、藩校の校則諸規定を時代に合わせて全面改定を行うなどの大改革を断行しました。こういうこともあってこの児玉暉山の門弟は多く、その中からは勤王につとめた維新の志士・香渡晋(こうどすすむ)なども輩出しています。ちなみに、香渡晋は幕末の戊辰戦争においては新谷藩大参事を務めて新政府軍の一員として活躍し、明治維新後は岩倉具視の招きにより宮内省へ出仕。岩倉具視の顧問として各界で活躍した人物で、明治憲法の制定にも貢献しました。また、大正天皇の御用掛を拝命し、御養育の大任を果たしました。また、江戸時代初期の陽明学者で近江聖人と称えられた中江藤樹(とうじゅ)はもともとは大洲藩士でしたが、寛永9(1632)、新谷藩に任地替えとなり、2年後の寛永11(1634)27歳の時に母への孝養を理由に故郷の近江国へ脱藩しています。

新谷藩の陣屋町は、北端の陣屋から南に伸びる道路に沿って武家屋敷、続いて町人屋敷が配置されていました。武家屋敷は31軒、町人屋敷は上の町・中の町・下の町・町裏・古町などから成り、寛政8(1796)の記録によると76軒の町家があったようです。陣屋に近接する部分には、家老屋敷・練兵場・会所・紙役所などが配置され、天明3(1783)に創設された藩校「求道軒」は、武家屋敷町の西端部に置かれていました。陣屋の建築物は、ほとんど現存していませんが、現在大洲市立新谷小学校の敷地内の北隅に「麟鳳閣」と呼ばれる藩の迎賓館とそこに隣接する庭園の一部が残されています。この慶応4(1868)に建築された「麟鳳閣」は、幕末の転変著しい政情に対処するための迎賓館として、また藩政評議所として使用されました。廃藩置県後は、一時期、新谷県庁としても使用されましたが、現在はこの地に移築されて小学校の施設として利用されています。愛媛県の登録有形文化財に指定されています。なかなか歴史の重みを感じさせてくれる趣きのある建物です。

新谷小学校の敷地内の北隅に「麟鳳閣」と呼ばれる藩の迎賓館とそこに隣接する庭園の一部が残されています。

新谷の陣屋町です。

新谷藩時代を偲ばせる遺構は、この麟鳳閣のほか、陣屋町の跡には武家屋敷の跡が散見でき、陣屋の遺構や商家の町並みなどもところどころに残っています。ちなみに、新谷藩加藤家の江戸上屋敷は現在の東京都台東区の浅草寺近くにあり、その跡は台東区立金竜小学校になっています。また、江戸下屋敷は現在の東京都荒川区南千住1丁目の都電荒川線荒川一中前電停の近くにあり、その跡は住宅地になっています。

新谷藩は幕末の戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いに小藩ながらいち早く参陣。大いに活躍しました。新谷藩は大洲藩とともに明治4(1871)7月の廃藩置県により廃藩となるのですが、その際に戊辰戦争での活躍が評価され、旧藩領を管下とする新谷県が設置され、加藤家は華族に列することとなりました。さらに同年11月、第1次府県統合、いわゆる372県制の実施により新谷県は廃止され、新たな宇和島県に編入されたのですが。その後、神山県(かつて愛媛県南予地方にあった県)を経て愛媛県に編入されました。

 

【銀河鉄道999の始発駅・新谷】

そして、新谷と言えば忘れてはならない人がいらっしゃって、それが漫画家の松本零士さんです。松本零士さんは今年(2023)213日に急性心不全により85歳でお亡くなりになられたのですが、『男おいどん』や『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』など多数の素晴らしい漫画作品を世に残されました。その松本零士さんは福岡県久留米市のご出身ですが、ご両親がともに愛媛県大洲市のご出身だったことで、第二次世界大戦中はお母様のご実家のあった大洲市新谷町に疎開されておられました。新谷で暮らしたのは小学校1年生から3年生までの3年間だったそうですが、その3年間を新谷で過ごされたことがその後の漫画家人生に大きな影響を与えたようで、生前、松本零士さんは新谷のことを「こころの古里」と呼び、毎年のように新谷を訪れては地元の方々との交流を絶やさなかったそうです。松本零士さんが新谷で暮らしておられた頃は、新谷駅を通る列車は国鉄内子線しかありませんでした。なのでしょう、松本零士さんは「山の麓(ふもと)を走る旧内子線の風景が『銀河鉄道999』の作品のモデルになった」と後年語っておられたそうです。新谷ではこうした松本零士さんとのご縁を活かした町おこしに積極的に取り組んでいるのですが、数ある松本零士さんの作品の中で、取り上げているのは『銀河鉄道999』オンリー。もしかしたら、『銀河鉄道999』の始発駅は旧内子線の新谷駅だったのかもしれませんね。

『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』など多数の素晴らしい漫画作品を世に残した漫画家の松本零士さんは新谷に所縁の深い方で、新谷を「こころの古里」と呼んでいたそうです。

松本零士さんは人気漫画家になった後も新谷との繋がりを絶やさず、時々は新谷を訪れては地元の方々との交流を持っていたそうです。

陣屋町に観光客用に置かれたベンチには「銀河鉄道999 始発駅 新谷」と書かれています。新谷は銀河鉄道999オンリーです。松本零士さんにとって国鉄内子線は思い入れがある路線ということなのでしょうね。

その新谷駅をあとにして、「鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線」に戻ります。残りは昭和61(1986)に向井原駅〜伊予大洲駅間内子駅経由の予讃線の新線が完成した際に廃線となった五郎駅までのひと区間。あとちょっとです。

 

【廃線跡を歩く2

新谷駅から西へ矢落(やおち)川に沿って歩きます。矢落川は一級河川・肱川の主要な支流の一つで、伊予市双海町と大洲市の境にある壺神山(つぼがみやま:標高971メートル)を源としています。源流は海(伊予灘)からわずか直線で4kmあまりのところにあるのですが、中央構造線の断層活動が形成した高い断層崖の地形なので、南側の大洲盆地のほうへ流れ、JR予讃線の五郎駅のすぐ西側で本流である肱川と合流します。この矢落川という河川の名称ですが、数百年前、この川を挟んだ両側に小さな城があり、両方の城から矢を射かけたところ、川幅が広く矢が川の中央で衝突し、ほとんどの矢が川の中に落ちたことから、矢落川と呼ぶようになったと伝えられています。また、矢落川の上流、田処地区から新谷地区の矢落橋に至るまでの約12kmの区間はゲンジボタルの生息地として有名です。この区間は水流も穏やかで、水質も良好なので、ホタルの幼虫の餌となるカワニナ(巻貝の一種)が生息するのに適しており、毎年多くのホタルが発生しています。

新谷を流れる一級河川・肱川の支流の矢落川です。川幅が広く、昔、川を挟んで対峙した軍勢が射かけた矢が、ことごとく川に落ちたことから矢落川と呼ばれるようになったのだそうです。

このあたりの現内子線(予讃線新線)は旧内子線の線路をそのまま使っています。新谷駅から約2km歩いた地点から現内子線(予讃線新線)は高架の線路に変わります。この高架になった区間が、新谷駅~伊予大洲駅間の正味の新線区間です。その現内子線(予讃線新線)の高架線区間が始まる徳の森踏切を過ぎたあたりで、旧内子線は右へ(北方向へ)大きく弧を描くように現内子線の高架線からそれていきます。この緩く右カーブする道路が旧内子線の廃線跡です。

新谷駅から約2km歩いた地点から現内子線(予讃線新線)は高架の線路に変わります。徳の森踏切を過ぎたあたりから旧内子線は大きく弧を描くように現内子線の高架線から右へ(北方向へ)それていきます。この緩く右カーブする道路が旧内子線の廃線跡です。

分岐地点から約500メートル行った先で大洲市肱北浄化センターに突き当たります。この先、旧内子線の廃線跡はこの大洲市肱北浄化センターの敷地内を通っており、部外者は歩くことができません。仕方なく広大な大洲市肱北浄化センターの敷地を大きく迂回します。大洲盆地のシンボルとも言える「冨士山(とみすやま)」が山裾に至るまでその姿を見せています。大洲盆地の中央に聳(そび)える「冨士山」は、その姿が富士山に似ていることから名付けられた標高320メートルの山です。

分岐地点から約500メートル行った先で大洲市肱北浄化センターに突き当たります。

大洲盆地のシンボルの「冨士山(とみすやま)」です。

【五郎駅】

すぐに予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の線路の下を潜り、予讃線の線路と並行する愛媛県道24号大洲長浜線をほんの少し歩きます。矢落川を渡る鉄橋の手前で旧内子線の線路は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)に合流していました。矢落川を橋で渡った先が旧内子線の起点駅だった五郎駅です。

五郎駅です。今は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)にあるメチャメチャ鄙びた田舎の無人駅ですが、かつてはこの駅が予讃線と内子線の分岐駅で、木造の駅舎があり、駅員も配置されていました。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみです。

1時間~2時間おきの運転なのですが、タイミングよく松山行きの上り普通列車(キハ54形ディーゼルカー)がやって来ました。1両編成のワンマン運転です。

現在は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)にあるメチャメチャ鄙びた田舎の無人駅ですが、かつてはこの駅が予讃線と内子線の分岐駅で、かつては木造の駅舎があり、駅員も配置されていました。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみです。また現在は11線の単式ホームだけですが、内子線の分岐駅だった頃にはさらに島式ホーム12線があり、あわせて23線の立派な駅でした。今でも使われなくなった島式ホームは残っていて、構内は意外なほど広いです。その使われなくなった島式ホームと広い構内にかつての分岐駅だった頃の栄光を感じます。

ちなみに、「五郎」という人名のような珍しい駅名は、このあたりの昔の地名によるものだそうです。「ごろう」は礫(石ころ)のこと。ゴロゴロした石ころの多い土地という意味なのでしょう。この五郎駅の付近で肱川に内子方面から流れてきた矢落川が合流します。その関係で、石ころがゴロゴロと転がっていたのでしょう。歌手の野口五郎さんが全盛だった時代は、この駅の入場券が飛ぶように売れたのだそうです。

 

【肱川】

左手前から流れてくる一級河川の肱川が、手前から流れてくる支流の矢落川と合流するところです。

五郎駅のすぐ近くを一級河川の肱川が流れています。肱川の源は西予市の鳥坂峠(標高460メートル)で、途中、四国山地の1,000メートルを越える標高の高い地点を源流とする小田川、矢落川、船戸川など474 本もの数多くの支流と合流しながら四国山地の中を蛇行しつつ横断し、大洲盆地を貫流して、伊予灘に注ぐ愛媛県随一の大河川です。肱川は、その名が示すように中流部において(ひじ)”のように大きく弧を描くように曲がっており、本流の流路延長距離が約103kmであるのに対して、源流から河口までの直線距離はわずか18kmほどしかありません。また、肱川流域の大部分は、約200万年間に隆起して形成された四国山地ですが、肱川はこの四国山地が形成される以前より存在したと考えられており、山地の隆起とともに下方浸食が進んだために、流域の大部分を山地が占めるわりには河川勾配が緩く、野村盆地~大洲盆地間、大洲盆地~伊予灘(瀬戸内海)間の区間には狭隘なV字谷が形成されている全国的にも珍しい河川です。また、大洲盆地には日本最大の断層帯である中央構造線と並行して東西に伸びる御荷鉾構造線(みかぶこうぞうせん)と呼ばれる断層帯が走っており、この中央構造線と御荷鉾構造線というほぼ平行に走る2つの断層帯によって区切られ、峡谷のような形状をなしている地溝帯と呼ばれる地形になっています。大洲盆地はその地溝帯によって形成された地形で、肱川によって運搬されてきた大量の土砂が堆積し、特に平坦な沖積地を形成しています。

このような地形であるため、肱川流域の大洲盆地は、昔から水害がたびたび発生してきました。洪水を防ぐような堤防がなかった江戸時代の大洲藩主加藤家の記録によると、1688年から1860年までの173年間のうち62年間は出水が記録されており、約3年に1回の割合で洪水が発生し、大洲盆地や肱川流域の低地はたびたび水害に見舞われてきました。

ダムや堤防が整備された現代でも根本的にそれは変わらず、時として大きな河川氾濫を起こしています。記憶に新しいのが平成30(2018)7月に発生した「平成 30 7月豪雨(平成30年西日本豪雨)」です。この時、肱川流域では梅雨前線や台風7号から変わった温帯低気圧の影響で74 22 時頃 から断続的に雨が降り続きました。特に73時から7時の間は時間雨量 20 mm を超える降雨が続き、同日7時には、野村ダム上流域の平均雨量が1時間当たり最大で 53 mm を記録しました。このため、48 時間の降雨量は、野村ダム上流域で 421 mm、鹿野川ダム上流域で 380 mm を記録し、さらには4 22 時から7 14 時までの肱川橋上流域の総雨量は 367.4 mmに達するという記録的な豪雨になりました。こうした記録的な豪雨により肱川本流の水位が上昇し、鹿野川ダム完成後には道路冠水の経験がなかった言われた肱川町鹿野川地区が浸水したほか、上流域から下流域まで広範囲に渡って浸水の被害が発生し、浸水面積は約 1,372ha に 達しました。また、断続的に降り続いた雨のため多数の土砂災害も発生しました。 こうした浸水被害及び土砂災害により、大洲市では 4名の尊い人命が失われました。 また、電気、水道、電話などのライフラインも断絶し、道路、鉄道も通行止めや運休が発生するなど、浸水被害・土砂災害による直接的な被害だけにとどまらず、市内全域 に大きな影響が発生しました。

また、この極めて特異な地形が生み出す世界的にも珍しい気象現象があり、それが「肱川あらし」です。「肱川あらし」とは、10月頃から翌年の3月頃にかけての風のないよく晴れた日の朝、上流の大洲盆地で発生した濃い霧を伴った冷気が、日の出とともに肱川沿いを一気に河口(大洲市長浜)に向かって流れ出し、局地的に強い風(局地風)が吹く珍しい自然現象が起こることがあります。この「肱川あらし」は大洲盆地と伊予灘で大きな気温差が生ずることによって吹く風で、地形による収束の効果が加わった南よりの(すなわち川筋に沿った)強風です。早朝から昼頃にかけて発生し、霧を伴うことが多くあります。 その強風はゴォーゴォーと唸りをたてて可動橋として知られる長浜大橋を吹き抜け、時には霧は扇形に沖合い数kmにまで達することがあります。風速は長浜大橋付近において10メートル/秒以上が観測されることがあります。濃い霧が町をのみ込み、唸りをたてながら海へと扇状に広がるこの「肱川あらし」の様子は、世界中探しても他にほとんど例を見ないほど幻想的な光景で、長浜の冬の風物詩となっています。

ここ五郎は大洲盆地の北端にあたります。五郎から河口の長浜までの区間は、高低差が極めて小さく、両岸に山脚が迫り渓谷的な地形になっています。これが「肱川あらし」発生の大きな要因になっています。また、肱川の河口部は比較的水深が深い上に、前述のように河川勾配も緩いため、特に河川流量の少ない時期には河口から10km以上も遡上したこのあたりまで海水の流入が起こり、中流域にあたるこの五郎の付近でもボラなど海に棲息する魚類が観察されるのだそうです。この海水の大洲盆地あたりまでの流入も、「肱川あらし」の発生に大きく関係しています。

 

【予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)

五郎駅からは予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の各駅停車で松山に帰りました。愛ある伊予灘線のその名のとおり穏やかな伊予灘(瀬戸内海)を車窓に見ながら海岸線を走る予讃線(旧線)もなかなか魅力的な路線です。このあたりの海岸線は日本最大の断層帯である中央構造線によって形成されているため地図で見ると伊予市付近から佐田岬半島の先端の佐田岬まで100km近くほぼ直線に伸びています。この中央構造線の断層活動が形成した断層崖(だんそうがい)が海から急に立ち上がっているため、予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の線路は海沿いのわずかに残る平地になった部分や、断層崖を削ったところに敷設されています。そのため、車窓は松山に向かう上り列車の場合、左側がすぐ海で、右側が断層崖という特異なものが続き、運転席のすぐ後ろに立って前方の景色を眺めていると超楽しいです。下灘駅や串駅など海に近い駅としてポスターや映画のロケなどにもたびたび使われることで全国的に有名になった駅もあり、鉄道マニアのみならず駅や鉄道風景を目当てに多くの観光客が訪れる観光スポットとなっています。平成26(2014)からは四国初の本格的な観光列車『伊予灘ものがたり』が松山駅〜伊予大洲駅・八幡浜駅間がこの「愛ある伊予灘線」経由で運行され、人気を博しています。現在は1両編成(単行)か短い2両編成のディーゼルカーがのどかにワンマン運転の各駅停車で運行されているだけの路線ですが、昭和61(1986)に向井原駅〜伊予大洲駅間内子駅経由の新線が完成するまでは、この伊予灘に面した伊予長浜駅経由の海線(愛ある伊予灘線)を特急列車や急行列車がバンバン運行され、猛スピードで駆け抜けていました。

海が近いことで超有名な下灘駅に停車です。今日も大勢の観光客が訪れています。驚くことにそのほとんどが中国人。いったいどこで下灘駅のことを知っているのでしょうね。

この日はなんやかんや途中寄り道したこともあって、約30km、歩数にして約4万歩ほど歩きました。さすがに足や膝の筋肉を中心に肉体的には疲れましたが、気持ちの上では十分にリフレッシュも行えました。さぁて、次はどこに行こう?