2023年10月5日木曜日

鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】②

 公開日2023/11/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第110回 鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】②


【伊予八藩紀行・新谷藩】

この新谷駅のある大洲市新谷町には、江戸時代、新谷藩の陣屋が置かれていました。新谷藩は、大洲藩の支藩で、石高は1万石。江戸時代、石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主は大名と呼ばれていたので、大洲藩の支藩であったと言っても立派な独立した藩でした。

新谷藩の陣屋跡は大洲市立新谷小学校になっています。右側に立っているのは『銀河鉄道999』のメーテルの像です。

新谷小学校です。元新谷藩の陣屋敷だったところなので、陣屋敷を模した校舎が建てられています。お洒落です。

元和9(1623)、大洲藩初代藩主の加藤貞泰(さだやす)が跡目の届け出を幕府にしないまま急死したのですが、長男の五郎八泰興(やすおき)が時の第2代将軍徳川秀忠に御目見し、相続を認められました。その際、貞泰の遺領6万石のうち5万石を泰興が継いで大洲藩の藩主とし、弟の大蔵直泰(なおやす)が元服した際に残りの1万石を分知することが条件として出されました。これがきっかけとなり寛永16(1639)まで大洲藩加藤家内では長くお家騒動が続き、結局、「内分分知(ないぶんぶんち)」ということで決着がつき、寛永19(1642)に初代藩主・加藤直泰の居宅である陣屋が新谷に完成したことで、新たに新谷藩が立藩しましたた。内分分知とは、江戸時代における武家(特に大名、旗)の分家形態の1つで、分家の創設の際に、主君から与えられた領地の石高を減らすことなく、新規に分家を興す形態のことを言います。藩内の内分分知は、本来は本藩の陪臣(部屋住みの身分)の扱いなのですが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例となりました。まぁ、この分知は第2代将軍徳川秀忠の直々の裁定によるものなので、特例ってことなのでしょう。

ただ、この大洲藩の内分分知にあたっては、長くお家騒動が続き、無理矢理数字上1万石にまとめあげようとしたところもあって、陣屋は大洲藩の城下にほど近い喜多郡新谷村に置かれたものの、その領地は喜多郡のうち3ヶ村と浮穴郡のうち8ヶ村、伊予郡のうち3ヶ村という大洲藩領内に飛び地のように散在する複雑な藩領の形になりました。このような領地分布の形態をもつ藩は全国でも極々少数のことで、このことが愛媛県民の間でも新谷藩という藩が江戸時代に存在したことすらほとんど知られていないことの大きな要因なのではないかと推察されます。

このようにしてめでたく立藩した新谷藩ですが、その後、藩領内及び藩領が異なり隣接する各村落の間で、農業用水についての利害の対立が起こり、ことに藩領が相異する村落間では激しい紛争が頻発しました。その農業用水をめぐる紛争を緩和し解決する手段として、関係する村落を同一藩領分内の村としてまとめ、新谷藩の石高が1万石のまま変わらないように両藩間で調整して交換するいわゆる村替が大洲藩との間で何度か行われ、微妙に藩領の変更が行われています。これにより、藩領の形態がさらに複雑化しています。

伊予八藩紀行(その2)で取り上げた伊予小松藩の場合と同様、石高が1万石という小藩だっただけに藩士の数も限られ、立藩時の藩士の数は僅かに31名だったようで、江戸時代中期の享保12(1727)~天明5(1785)においても総計83人だったようです。現代の中小企業並みですね。

幕末期における新谷藩の陣屋・武家屋敷図です。(出典:愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』)

大洲藩からの内分分知により独立した藩として立藩した新谷藩ですが、初代藩主・加藤直泰に嗣子がいなかったため、寛文9(1669)に大洲藩第2代藩主・加藤泰興の嫡子・加藤泰義の長男(すなわち加藤泰興の孫) 泰觚(やすかど)が直泰の養嗣子となり、天和2(1682)、直泰の死去により跡を継いで新谷藩第2代藩主となりました。これにより新谷藩は独立した藩ではあるものの、大洲藩の支藩の色合いが徐々に濃くなっていきました。

江戸時代後期になると、藩領内を流れる肱川やその支流の矢落川のたび重なる氾濫による水害や陣屋町の火災などに見まわれ、年貢収入が思うようにならないこともあって藩の財政は困窮を極め、何度も倹約令が発せられました。文化6(1809)になると財政は藩としての存続さえ危ぶまれるような危機的な状態に陥り、新谷藩は独立藩としての機能を停止し、その後5年間の期限付きで、行政・財政という藩政の両面にわたって、本家である大洲藩に全面的に執行を委ねるということまで行われました。このように新谷藩の財政は常に非常に厳しかったようで、明治初頭での実高は9,693石と、表高の1万石を割り込んでいました。小藩の藩運営の厳しさが窺い知れる数字です。

そういう厳しい財政状況の中ではあったものの(いや厳しい財政事情であったからこそ)、新谷藩は人材の育成に力を入れました。特に、第4代藩主・加藤泰広(やすひろ)は好学の人で、享保17(1732)の在府中に、江戸藩邸ではじめて藩士教育のための塾を開きました。第6代藩主・加藤泰賢(やすまさ)は、天明3(1783)に藩校を創設して「求道軒(きゅうどうけん)」と名づけました。これは大洲藩も藩校「明倫堂」にならったものだと言われています。しかし、藩財政窮乏がその極に達した文化6(1809)頃から藩校「求道軒」は自然休校となり、いったんは廃校となりました。第8代藩主・加藤泰理(やすただ)は、天保年間(1830年〜1844)に藩校「求道軒」を再興し、侍講(藩主に学問を講義する人)であった儒学者・児玉暉山(きざん)を抜擢して教授とし、藩校の経営を全面的に委託しました。児玉暉山はこの藩主の大きな期待に応えて、藩校の校則諸規定を時代に合わせて全面改定を行うなどの大改革を断行しました。こういうこともあってこの児玉暉山の門弟は多く、その中からは勤王につとめた維新の志士・香渡晋(こうどすすむ)なども輩出しています。ちなみに、香渡晋は幕末の戊辰戦争においては新谷藩大参事を務めて新政府軍の一員として活躍し、明治維新後は岩倉具視の招きにより宮内省へ出仕。岩倉具視の顧問として各界で活躍した人物で、明治憲法の制定にも貢献しました。また、大正天皇の御用掛を拝命し、御養育の大任を果たしました。また、江戸時代初期の陽明学者で近江聖人と称えられた中江藤樹(とうじゅ)はもともとは大洲藩士でしたが、寛永9(1632)、新谷藩に任地替えとなり、2年後の寛永11(1634)27歳の時に母への孝養を理由に故郷の近江国へ脱藩しています。

新谷藩の陣屋町は、北端の陣屋から南に伸びる道路に沿って武家屋敷、続いて町人屋敷が配置されていました。武家屋敷は31軒、町人屋敷は上の町・中の町・下の町・町裏・古町などから成り、寛政8(1796)の記録によると76軒の町家があったようです。陣屋に近接する部分には、家老屋敷・練兵場・会所・紙役所などが配置され、天明3(1783)に創設された藩校「求道軒」は、武家屋敷町の西端部に置かれていました。陣屋の建築物は、ほとんど現存していませんが、現在大洲市立新谷小学校の敷地内の北隅に「麟鳳閣」と呼ばれる藩の迎賓館とそこに隣接する庭園の一部が残されています。この慶応4(1868)に建築された「麟鳳閣」は、幕末の転変著しい政情に対処するための迎賓館として、また藩政評議所として使用されました。廃藩置県後は、一時期、新谷県庁としても使用されましたが、現在はこの地に移築されて小学校の施設として利用されています。愛媛県の登録有形文化財に指定されています。なかなか歴史の重みを感じさせてくれる趣きのある建物です。

新谷小学校の敷地内の北隅に「麟鳳閣」と呼ばれる藩の迎賓館とそこに隣接する庭園の一部が残されています。

新谷の陣屋町です。

新谷藩時代を偲ばせる遺構は、この麟鳳閣のほか、陣屋町の跡には武家屋敷の跡が散見でき、陣屋の遺構や商家の町並みなどもところどころに残っています。ちなみに、新谷藩加藤家の江戸上屋敷は現在の東京都台東区の浅草寺近くにあり、その跡は台東区立金竜小学校になっています。また、江戸下屋敷は現在の東京都荒川区南千住1丁目の都電荒川線荒川一中前電停の近くにあり、その跡は住宅地になっています。

新谷藩は幕末の戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いに小藩ながらいち早く参陣。大いに活躍しました。新谷藩は大洲藩とともに明治4(1871)7月の廃藩置県により廃藩となるのですが、その際に戊辰戦争での活躍が評価され、旧藩領を管下とする新谷県が設置され、加藤家は華族に列することとなりました。さらに同年11月、第1次府県統合、いわゆる372県制の実施により新谷県は廃止され、新たな宇和島県に編入されたのですが。その後、神山県(かつて愛媛県南予地方にあった県)を経て愛媛県に編入されました。

 

【銀河鉄道999の始発駅・新谷】

そして、新谷と言えば忘れてはならない人がいらっしゃって、それが漫画家の松本零士さんです。松本零士さんは今年(2023)213日に急性心不全により85歳でお亡くなりになられたのですが、『男おいどん』や『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』など多数の素晴らしい漫画作品を世に残されました。その松本零士さんは福岡県久留米市のご出身ですが、ご両親がともに愛媛県大洲市のご出身だったことで、第二次世界大戦中はお母様のご実家のあった大洲市新谷町に疎開されておられました。新谷で暮らしたのは小学校1年生から3年生までの3年間だったそうですが、その3年間を新谷で過ごされたことがその後の漫画家人生に大きな影響を与えたようで、生前、松本零士さんは新谷のことを「こころの古里」と呼び、毎年のように新谷を訪れては地元の方々との交流を絶やさなかったそうです。松本零士さんが新谷で暮らしておられた頃は、新谷駅を通る列車は国鉄内子線しかありませんでした。なのでしょう、松本零士さんは「山の麓(ふもと)を走る旧内子線の風景が『銀河鉄道999』の作品のモデルになった」と後年語っておられたそうです。新谷ではこうした松本零士さんとのご縁を活かした町おこしに積極的に取り組んでいるのですが、数ある松本零士さんの作品の中で、取り上げているのは『銀河鉄道999』オンリー。もしかしたら、『銀河鉄道999』の始発駅は旧内子線の新谷駅だったのかもしれませんね。

『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』など多数の素晴らしい漫画作品を世に残した漫画家の松本零士さんは新谷に所縁の深い方で、新谷を「こころの古里」と呼んでいたそうです。

松本零士さんは人気漫画家になった後も新谷との繋がりを絶やさず、時々は新谷を訪れては地元の方々との交流を持っていたそうです。

陣屋町に観光客用に置かれたベンチには「銀河鉄道999 始発駅 新谷」と書かれています。新谷は銀河鉄道999オンリーです。松本零士さんにとって国鉄内子線は思い入れがある路線ということなのでしょうね。

その新谷駅をあとにして、「鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線」に戻ります。残りは昭和61(1986)に向井原駅〜伊予大洲駅間内子駅経由の予讃線の新線が完成した際に廃線となった五郎駅までのひと区間。あとちょっとです。

 

【廃線跡を歩く2

新谷駅から西へ矢落(やおち)川に沿って歩きます。矢落川は一級河川・肱川の主要な支流の一つで、伊予市双海町と大洲市の境にある壺神山(つぼがみやま:標高971メートル)を源としています。源流は海(伊予灘)からわずか直線で4kmあまりのところにあるのですが、中央構造線の断層活動が形成した高い断層崖の地形なので、南側の大洲盆地のほうへ流れ、JR予讃線の五郎駅のすぐ西側で本流である肱川と合流します。この矢落川という河川の名称ですが、数百年前、この川を挟んだ両側に小さな城があり、両方の城から矢を射かけたところ、川幅が広く矢が川の中央で衝突し、ほとんどの矢が川の中に落ちたことから、矢落川と呼ぶようになったと伝えられています。また、矢落川の上流、田処地区から新谷地区の矢落橋に至るまでの約12kmの区間はゲンジボタルの生息地として有名です。この区間は水流も穏やかで、水質も良好なので、ホタルの幼虫の餌となるカワニナ(巻貝の一種)が生息するのに適しており、毎年多くのホタルが発生しています。

新谷を流れる一級河川・肱川の支流の矢落川です。川幅が広く、昔、川を挟んで対峙した軍勢が射かけた矢が、ことごとく川に落ちたことから矢落川と呼ばれるようになったのだそうです。

このあたりの現内子線(予讃線新線)は旧内子線の線路をそのまま使っています。新谷駅から約2km歩いた地点から現内子線(予讃線新線)は高架の線路に変わります。この高架になった区間が、新谷駅~伊予大洲駅間の正味の新線区間です。その現内子線(予讃線新線)の高架線区間が始まる徳の森踏切を過ぎたあたりで、旧内子線は右へ(北方向へ)大きく弧を描くように現内子線の高架線からそれていきます。この緩く右カーブする道路が旧内子線の廃線跡です。

新谷駅から約2km歩いた地点から現内子線(予讃線新線)は高架の線路に変わります。徳の森踏切を過ぎたあたりから旧内子線は大きく弧を描くように現内子線の高架線から右へ(北方向へ)それていきます。この緩く右カーブする道路が旧内子線の廃線跡です。

分岐地点から約500メートル行った先で大洲市肱北浄化センターに突き当たります。この先、旧内子線の廃線跡はこの大洲市肱北浄化センターの敷地内を通っており、部外者は歩くことができません。仕方なく広大な大洲市肱北浄化センターの敷地を大きく迂回します。大洲盆地のシンボルとも言える「冨士山(とみすやま)」が山裾に至るまでその姿を見せています。大洲盆地の中央に聳(そび)える「冨士山」は、その姿が富士山に似ていることから名付けられた標高320メートルの山です。

分岐地点から約500メートル行った先で大洲市肱北浄化センターに突き当たります。

大洲盆地のシンボルの「冨士山(とみすやま)」です。

【五郎駅】

すぐに予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の線路の下を潜り、予讃線の線路と並行する愛媛県道24号大洲長浜線をほんの少し歩きます。矢落川を渡る鉄橋の手前で旧内子線の線路は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)に合流していました。矢落川を橋で渡った先が旧内子線の起点駅だった五郎駅です。

五郎駅です。今は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)にあるメチャメチャ鄙びた田舎の無人駅ですが、かつてはこの駅が予讃線と内子線の分岐駅で、木造の駅舎があり、駅員も配置されていました。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみです。

1時間~2時間おきの運転なのですが、タイミングよく松山行きの上り普通列車(キハ54形ディーゼルカー)がやって来ました。1両編成のワンマン運転です。

現在は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)にあるメチャメチャ鄙びた田舎の無人駅ですが、かつてはこの駅が予讃線と内子線の分岐駅で、かつては木造の駅舎があり、駅員も配置されていました。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみです。また現在は11線の単式ホームだけですが、内子線の分岐駅だった頃にはさらに島式ホーム12線があり、あわせて23線の立派な駅でした。今でも使われなくなった島式ホームは残っていて、構内は意外なほど広いです。その使われなくなった島式ホームと広い構内にかつての分岐駅だった頃の栄光を感じます。

ちなみに、「五郎」という人名のような珍しい駅名は、このあたりの昔の地名によるものだそうです。「ごろう」は礫(石ころ)のこと。ゴロゴロした石ころの多い土地という意味なのでしょう。この五郎駅の付近で肱川に内子方面から流れてきた矢落川が合流します。その関係で、石ころがゴロゴロと転がっていたのでしょう。歌手の野口五郎さんが全盛だった時代は、この駅の入場券が飛ぶように売れたのだそうです。

 

【肱川】

左手前から流れてくる一級河川の肱川が、手前から流れてくる支流の矢落川と合流するところです。

五郎駅のすぐ近くを一級河川の肱川が流れています。肱川の源は西予市の鳥坂峠(標高460メートル)で、途中、四国山地の1,000メートルを越える標高の高い地点を源流とする小田川、矢落川、船戸川など474 本もの数多くの支流と合流しながら四国山地の中を蛇行しつつ横断し、大洲盆地を貫流して、伊予灘に注ぐ愛媛県随一の大河川です。肱川は、その名が示すように中流部において(ひじ)”のように大きく弧を描くように曲がっており、本流の流路延長距離が約103kmであるのに対して、源流から河口までの直線距離はわずか18kmほどしかありません。また、肱川流域の大部分は、約200万年間に隆起して形成された四国山地ですが、肱川はこの四国山地が形成される以前より存在したと考えられており、山地の隆起とともに下方浸食が進んだために、流域の大部分を山地が占めるわりには河川勾配が緩く、野村盆地~大洲盆地間、大洲盆地~伊予灘(瀬戸内海)間の区間には狭隘なV字谷が形成されている全国的にも珍しい河川です。また、大洲盆地には日本最大の断層帯である中央構造線と並行して東西に伸びる御荷鉾構造線(みかぶこうぞうせん)と呼ばれる断層帯が走っており、この中央構造線と御荷鉾構造線というほぼ平行に走る2つの断層帯によって区切られ、峡谷のような形状をなしている地溝帯と呼ばれる地形になっています。大洲盆地はその地溝帯によって形成された地形で、肱川によって運搬されてきた大量の土砂が堆積し、特に平坦な沖積地を形成しています。

このような地形であるため、肱川流域の大洲盆地は、昔から水害がたびたび発生してきました。洪水を防ぐような堤防がなかった江戸時代の大洲藩主加藤家の記録によると、1688年から1860年までの173年間のうち62年間は出水が記録されており、約3年に1回の割合で洪水が発生し、大洲盆地や肱川流域の低地はたびたび水害に見舞われてきました。

ダムや堤防が整備された現代でも根本的にそれは変わらず、時として大きな河川氾濫を起こしています。記憶に新しいのが平成30(2018)7月に発生した「平成 30 7月豪雨(平成30年西日本豪雨)」です。この時、肱川流域では梅雨前線や台風7号から変わった温帯低気圧の影響で74 22 時頃 から断続的に雨が降り続きました。特に73時から7時の間は時間雨量 20 mm を超える降雨が続き、同日7時には、野村ダム上流域の平均雨量が1時間当たり最大で 53 mm を記録しました。このため、48 時間の降雨量は、野村ダム上流域で 421 mm、鹿野川ダム上流域で 380 mm を記録し、さらには4 22 時から7 14 時までの肱川橋上流域の総雨量は 367.4 mmに達するという記録的な豪雨になりました。こうした記録的な豪雨により肱川本流の水位が上昇し、鹿野川ダム完成後には道路冠水の経験がなかった言われた肱川町鹿野川地区が浸水したほか、上流域から下流域まで広範囲に渡って浸水の被害が発生し、浸水面積は約 1,372ha に 達しました。また、断続的に降り続いた雨のため多数の土砂災害も発生しました。 こうした浸水被害及び土砂災害により、大洲市では 4名の尊い人命が失われました。 また、電気、水道、電話などのライフラインも断絶し、道路、鉄道も通行止めや運休が発生するなど、浸水被害・土砂災害による直接的な被害だけにとどまらず、市内全域 に大きな影響が発生しました。

また、この極めて特異な地形が生み出す世界的にも珍しい気象現象があり、それが「肱川あらし」です。「肱川あらし」とは、10月頃から翌年の3月頃にかけての風のないよく晴れた日の朝、上流の大洲盆地で発生した濃い霧を伴った冷気が、日の出とともに肱川沿いを一気に河口(大洲市長浜)に向かって流れ出し、局地的に強い風(局地風)が吹く珍しい自然現象が起こることがあります。この「肱川あらし」は大洲盆地と伊予灘で大きな気温差が生ずることによって吹く風で、地形による収束の効果が加わった南よりの(すなわち川筋に沿った)強風です。早朝から昼頃にかけて発生し、霧を伴うことが多くあります。 その強風はゴォーゴォーと唸りをたてて可動橋として知られる長浜大橋を吹き抜け、時には霧は扇形に沖合い数kmにまで達することがあります。風速は長浜大橋付近において10メートル/秒以上が観測されることがあります。濃い霧が町をのみ込み、唸りをたてながら海へと扇状に広がるこの「肱川あらし」の様子は、世界中探しても他にほとんど例を見ないほど幻想的な光景で、長浜の冬の風物詩となっています。

ここ五郎は大洲盆地の北端にあたります。五郎から河口の長浜までの区間は、高低差が極めて小さく、両岸に山脚が迫り渓谷的な地形になっています。これが「肱川あらし」発生の大きな要因になっています。また、肱川の河口部は比較的水深が深い上に、前述のように河川勾配も緩いため、特に河川流量の少ない時期には河口から10km以上も遡上したこのあたりまで海水の流入が起こり、中流域にあたるこの五郎の付近でもボラなど海に棲息する魚類が観察されるのだそうです。この海水の大洲盆地あたりまでの流入も、「肱川あらし」の発生に大きく関係しています。

 

【予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)

五郎駅からは予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の各駅停車で松山に帰りました。愛ある伊予灘線のその名のとおり穏やかな伊予灘(瀬戸内海)を車窓に見ながら海岸線を走る予讃線(旧線)もなかなか魅力的な路線です。このあたりの海岸線は日本最大の断層帯である中央構造線によって形成されているため地図で見ると伊予市付近から佐田岬半島の先端の佐田岬まで100km近くほぼ直線に伸びています。この中央構造線の断層活動が形成した断層崖(だんそうがい)が海から急に立ち上がっているため、予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の線路は海沿いのわずかに残る平地になった部分や、断層崖を削ったところに敷設されています。そのため、車窓は松山に向かう上り列車の場合、左側がすぐ海で、右側が断層崖という特異なものが続き、運転席のすぐ後ろに立って前方の景色を眺めていると超楽しいです。下灘駅や串駅など海に近い駅としてポスターや映画のロケなどにもたびたび使われることで全国的に有名になった駅もあり、鉄道マニアのみならず駅や鉄道風景を目当てに多くの観光客が訪れる観光スポットとなっています。平成26(2014)からは四国初の本格的な観光列車『伊予灘ものがたり』が松山駅〜伊予大洲駅・八幡浜駅間がこの「愛ある伊予灘線」経由で運行され、人気を博しています。現在は1両編成(単行)か短い2両編成のディーゼルカーがのどかにワンマン運転の各駅停車で運行されているだけの路線ですが、昭和61(1986)に向井原駅〜伊予大洲駅間内子駅経由の新線が完成するまでは、この伊予灘に面した伊予長浜駅経由の海線(愛ある伊予灘線)を特急列車や急行列車がバンバン運行され、猛スピードで駆け抜けていました。

海が近いことで超有名な下灘駅に停車です。今日も大勢の観光客が訪れています。驚くことにそのほとんどが中国人。いったいどこで下灘駅のことを知っているのでしょうね。

この日はなんやかんや途中寄り道したこともあって、約30km、歩数にして約4万歩ほど歩きました。さすがに足や膝の筋肉を中心に肉体的には疲れましたが、気持ちの上では十分にリフレッシュも行えました。さぁて、次はどこに行こう?


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