2023年6月3日土曜日

鉄分補給シリーズ(その9) 芸予汽船・上島町営魚島航路③

 公開日2023/06/03

 

[晴れ時々ちょっと横道]第105 鉄分補給シリーズ(その9) 芸予汽船・上島町営魚島航路③


「ゆめしま海道」は、越智郡上島町の弓削島、佐島、生名島、岩城島を弓削大橋、生名橋、岩城橋の3橋で結ぶ愛媛県道338号岩城弓削線(延長約6.1 km)です。


【ゆめしま海道…弓削大橋&生名橋】

魚島港を出港して45分。弓削島の弓削港に戻ってきました。ここから「ゆめしま海道(上島架橋)」と呼ばれる愛媛県道338号岩城弓削線(延長約6.1 km)に架けられた3つの橋のうち、弓削大橋、生名橋を渡って生名島まで行き、生名島東岸にある立石港(たていしこう)からフェリーで因島(広島県尾道市)の土生港に渡ります。

弓削港に戻ってきました。弓削港からは“ゆめしま海道”の2つの橋を歩いて渡って、生名島の立石港までいきます。
上島諸島の島々と「ゆめしま海道」です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

弓削港から海岸線に沿って南方向に歩き、弓削大橋に向かいます。弓削商船高専の桟橋があります。弓削商船高専はこことは反対側の島の東側にあります。その弓削商船高専の前を通って「ゆめしま海道(上島架橋)」に入ります。

弓削大橋です。手前に停泊している船は弓削商船高専の練習船「弓削丸」です。

弓削大橋は弓削島とその西側にある佐島の間に架かる全長980メートルの日本ではトップクラスの規模の美しい斜張橋です。

弓削商船高専です。弓削大橋は弓削商船高専の前をかすめるようにUターンして徐々に高度を上げ、入っていきます。

繰り返しになりますが、「ゆめしま海道」は、越智郡上島町の岩城島を起点とし、岩城橋、生名橋、弓削大橋の3橋で生名島、佐島を経て弓削島へと至る、愛媛県道338号岩城弓削線(延長約6.1 km)を指します。その弓削大橋を渡ります。弓削大橋は弓削島とその西側にある佐島の間に架かる全長980メートルの日本ではトップクラスの規模の美しい斜張橋です。「ゆめしま海道」では一番早く、平成8(1996)に完成しました。

まずは「ゆめしま海道」の3本の橋のうちの1本、弓削大橋を渡ります。

「ゆめしま海道」の橋はいずれも橋の下が航路になっているので。かなり高いところに架かっています。遠くに見えるのは因島(広島県)。造船所のクレーンが何本も立っています。

弓削大橋を渡った先は佐島です。佐島は西に岩城島、北東に弓削島、そして北に生名島とまさに近距離で隣接する島で、これら有人4島を中心に上島諸島を形成しています。

弓削大橋を渡った先は佐島。ただ、「ゆめしま海道」は佐島の北の端をかすめるように通っているので、すぐに生名橋になります。生名橋は佐島とその西側にある生名島の間に架かる全長515メートルの斜張橋で、「ゆめしま海道」の3本の橋の中では弓削大橋に次いで2番目の平成23(2011)に完成しました。この橋の特徴は建設コスト縮減のため幅が狭いことで、歩道や路肩を除いた車道幅が4メートルの「1車線道路」であり、普通車同士の離合はなんとかギリギリでできるのですが、大型車とは橋中央部の待避所(5メートル)で離合する形をとっています。この「ゆめしま海道」、サイクリングに最適な感じです。今回は時間の関係で渡ることができませんでしたが、生名島と西側にある岩城島との間に架かる岩城橋を使って岩城島・生名島・佐島・弓削島と巡るコースは“本家”とも言える「瀬戸内しまなみ海道」と比べ距離は短いものの、海と島々の広大な風景や、離島に暮らす人々の生活を味わうには、むしろこの「ゆめしま海道」を使ったコースのほうがいいかもしれません。お薦めです。

「ゆめしま海道」は佐島の北の端をかすめるように通っているので、すぐに生名橋になります。

生名橋を渡ります。生名橋は佐島とその西側にある生名島の間に架かる全長515メートルの斜張橋です。

橋の中央部はかなりの高さになっているので、高所恐怖症の私は足がすくんでしまいます。しかし、渡らないといけないので、勇気を振り絞って前へ進みます。この日の瀬戸内海は波は穏やかなので、潮流がいかに速いのかが分かります。海面が乱れているのは潮流によるものです。

生名橋の特徴は建設コスト縮減のため幅が狭いことで、歩道や路肩を除いた車道幅が4メートルの「1車線道路」であり、普通車同士の離合はなんとかギリギリでできるのですが、大型車とは橋中央部の待避所(5メートル)で離合する形をとっています。

【生名島】

生名橋を渡って生名島に上陸しました。生名島はそれぞれ狭い海峡を隔てて、北側を因島(広島県尾道市)、南側を佐島、東側を弓削島、西側を岩城島に囲まれた上島諸島に属する島です。面積は3.67平方km。周辺には平内島(へなしま)、鶴島、坪木島、亀島(竹島)、能小島(のこじま)、大島、小島および甑島(こしきじま)という無人島が点在しています。地場産業は、農業と漁業(クルマエビ養殖)。それと造船。造船と言っても生名島自体には主たる造船所はなく、あるのは長崎瀬戸と呼ばれる狭い海峡を挟んだ因島(広島県尾道市)の土生(はぶ)。ここにはかつて国内有数の大手造船メーカーの1社であった日立造船の因島工場がありました。

生名橋を渡り終え、生名島に入ってきました。美しい斜張橋です。この「ゆめしま海道」、サイクリングに最適な感じです。この生名島は愛媛県越智郡上島町で、ここまでが愛媛県です。

因島は明治以降「造船の島」として発展してきました。その因島の造船業の中核を担っていたのが、その因島の土生にあった日立造船の因島工場でした。昭和40年代のピーク時には約3,400人もの従業員がその日立造船因島工場で働き、造船業が地域経済と雇用の大部分を担っていました。生名島は旧日立造船の企業城下町として栄えてきたところです。島の東岸に立石港があり、因島の土生港との間はフェリーでわずか3分。まさに渡し舟の感覚で行き来ができる感覚なので、日立造船因島工場の従業員の多くが生名島に住んで、フェリーを使って通勤していました。また、かつては日立造船の社員寮も生名島にあったくらいです。

生名島では海岸線に沿って歩いていくのですが、右手には対岸の因島の造船所のドックが幾つも見えます。

しかし、1970年代に襲ったオイルショックや円高による未曾有の造船不況で、因島は「島が沈む」と言われる程の経済不況に陥り、島の造船業の中核を担っていた日立造船・因島工場も合理化により、まず1986年に新造船部門が撤退。工場自体は残ったものの、因島艦船修繕工場に改称し、大幅に規模が縮小されました。さらには平成14(2002)には日立造船自体が日本鋼管と共同で設立したユニバーサル造船(現在のジャパン マリンユナイテッド)に造船事業全体を移管。それにより、現在は因島工場もジャパンマリンユナイテッドの因島工場と日立造船のグループ会社である内海造船の因島工場になっています。会社は変わったものの、造船所自体は残っているので、現在も造船所で働く多くの従業員の方々が生名島を生活の場とされています。この巨大なクレーンが林立する光景は、迫力があり、かつての日本の高度成長時代を彷彿とさせてくれます。

立石港にほど近い立石山の麓には、今東光さんの小説「悪名」のモデルで、男装の女傑と呼ばれた麻生イトさんが造り、島民に開放していた日本庭園『三秀園』があります。ちなみに、この麻生イトさん、日立造船因島工場の操業と同時期に造船所への人材派遣と船のスクラップを請負う「麻生組」を創業し、島外からの宿泊施設がなかったため「麻生旅館」を開業したりした実業家だったのですが、麻生組の扱う人材の数は常時数百人にも及び、彼らはイトさんを親分のように慕ったことから、舎弟は3千人にも及んだと言われています。特に、勝新太郎さん主演の大ヒット任侠映画『悪名シリーズ』で、2千人の子分を従えた侠客「因島の女親分」として唯一実名で出てくることでも知られています。麻生イトさんは家業を引退した晩年は、この生名島の三秀園に移り住み、観音菩薩に帰依したと言われています。

立石港にほど近い立石山の麓には、今東光さんの小説「悪名」のモデルで、男装の女傑と呼ばれた麻生イトさんが造り、島民に開放していた日本庭園『三秀園』があります。

『三秀園』です。

「麻生組」を創業し、3千人にも及ぶ舎弟がいたといわれる麻生イトさんです。

その『三秀園』の園内中央部に高さ7メートルもあるメンヒルと呼ばれる巨石が聳え立っています。メンヒルは1本の巨大な石を加工をほとんど加えないで、単独に垂直に立てたものの呼称です。この巨石は学術的な調査の結果、弥生時代の巨石文化の一部と考えられ、上島町有形文化財に指定されています。立石という地名もこのメンヒルに由来したものと思われます。それにしても、いったい誰が、いつ、どのような方法でこの巨石をここに運んできて、垂直に立てたのでしょうね。謎です。緑豊かな日本庭園の中に巨石が佇む不思議な光景は、古代人ならずとも神秘的な感銘を受ける風景です。

『三秀園』の園内中央部に高さ7メートルもあるメンヒルと呼ばれる巨石が聳え立っています。メンヒルは1本の巨大な石を加工をほとんど加えないで、単独に垂直に立てたものの呼称です。

立石港です。生名島の島の東岸に位置し、因島の土生港に向かい合っているこの立石港は、因島への“直結ルート”として重要な役割を果たしてきました。前述のように、土生港との間は生名フェリーでわずか3分。ホント対岸の様子が手に取るように分かるほどの近さです。フェリーと言うより渡し船ですね。地元の人は、今でもフェリーではなく、渡しと呼んでいるのだそうです。立石港からは、この土生航路に加えて三原港(広島県三原市)との間を結ぶ土生商船の三原航路も就航しており、通勤通学時には、乗降客・乗降車等でかなりな混雑がみられるのだそうです。

島の東岸に立石港があり、因島の土生港との間はフェリーでわずか3分。まさに渡し舟の感覚で行き来ができる感覚なので、日立造船因島工場の従業員の多くが生名島に住んで、フェリーを使って通勤していました。また、かつては日立造船の社員寮も生名島にあったくらいです。

生名島の立石港です。対岸は土生港の長崎桟橋で、フェリーがシャトル運航しています。運賃は大人片道70円。所要時間は僅か3分です。

【土生港…因島】

立石港から“渡し”に乗って因島の土生港に渡りました。広島県の瀬戸内海の離島航路でよく見かける“神中型”と呼ばれる操舵室が中央に付いて、前後両方向に進むことができるタイプのフェリーです。ホント、出港したらすぐに対岸の土生港に到着しちゃいました。

因島は面積が35.04平方km。芸予諸島の島々の中では江田島(広島県)、倉橋島(広島県)、大三島(愛媛県)、大島(愛媛県)、大崎上島(広島県)に次いで6番目に大きな島で(瀬戸内海全体では9番目)、現在では尾道市に編入されていますが、かつては離島ながらも独立して因島市を形成していたほど賑わう島で、周辺の島々の中核を成していました。中世には村上海賊の一派・因島村上氏の拠点として栄えていました。これは、芸予諸島の海流が激しく、航行が困難であったためです。京大坂と広島や九州を行き交う船の水先案内人として、今で言うガイド料を請求(拒否したものは襲撃)し、力を蓄えた日本最大の海賊衆でした。産業としては農業と工業。農業ではミカンや八朔などの柑橘類の栽培が盛んに行われています。また、かつては除虫菊の栽培が盛んでしたが、産業としての栽培は近年廃れています。工業では、前述のように造船業が主力産業で、明治から昭和にかけて、この因島にある造船所で数多くの船が建造され、海洋国家日本を支えていました。

フェリーから見た風景です。巨大なクレーンが林立する光景は、迫力があり、かつての日本の高度成長時代を彷彿とさせてくれます。

土生港は因島では最も規模の大きな港であり、ここから芸予汽船や上島町営魚島航路、土生商船といった四国や本州の港を結ぶ船が運航されています。その土生港から芸予汽船の快速船に乗って今治に帰ることにしました。

土生港はかつては多くのフェリーや高速船が寄港する瀬戸内海の主要港の1つだったのですが、今やすっかり寂れてしまっています。因島もしまなみ海道(西瀬戸自動車道)”が島の北部を通っていて、今や本州や四国と地続きになっていますから。

帰りも芸予汽船の快速船「第一ちどり」でした。これから今治港へ、そして松山の実家に帰ります。

入港してきた船は行きと同じく快速船「第一ちどり」。土生港を1710分に出港して、今治港到着は1830分。1時間20分の船旅です。この日はいっぱい船に乗れて、十分に塩分の補給ができました。

さぁ〜て、次はどこに行こう?

 

 

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