2023年6月2日金曜日

鉄分補給シリーズ(その9) 芸予汽船・上島町営魚島航路②

 公開日2023/06/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第105 鉄分補給シリーズ(その9) 芸予汽船・上島町営魚島航路②


【上島町営魚島航路】

芸予汽船の快速船「つばめ」が出港していったすぐ後に、因島の土生港(はぶこう)始発魚島港行きの上島町営魚島航路の快速船「ニューうおしま2」が入港してきました。この上島町営魚島航路、魚島村が弓削町などと合併して上島町となる前は魚島村営航路と呼ばれていました。瀬戸内海のほぼ中央、燧灘(ひうちなだ)のそのまた中央にポツリと浮かぶ離島、魚島。その名のとおり漁業が盛んで、かつては1,500人を超える人々が暮らしていた島なのですが、過疎化によって閉村直前には約290人にまで人口減少が進み、愛媛県で、いや、西日本で一番小さな独立した小規模自治体として知られた島でした。その旧魚島村が魚島本島と他島を結ぶ唯一の定期旅客船航路として開設したのがこの航路です。具体的には魚島から同じく旧魚島村の高井神島(たかいかみしま)、旧弓削町の豊島(とよしま)を経由して弓削島の弓削港に至る航路で、「ニューうおしま」が就航した4年後の平成8年(1996)に因島(現在は尾道市)の土生港まで延長されて現在の航路形態となりました。現在は、快速船「ニューうおしま2」が14往復、因島の土生港と魚島港の間を結んでいます。


魚島行きの上島町営魚島航路の快速船「ニューうおしま2」が入港してきました。芸予汽船の「第一ちどり」と違って「ニューうおしま2」は上部デッキがあるので、開放空間で景色が楽しめそうです。


この魚島航路の歴史は古く、明治41(1908)に魚島に郵便局が設置された頃に遡ります。その頃、魚島には個人経営の櫓を使用する木造船が2隻あり、弓削島からの郵便物も運んでいたので、郵便船とも呼ばれていました。この郵便船が村営になったのが昭和23(1948)のことです。村営汽船は離島性の解消を目指して、船舶の大型化、高速化、増便を図り、昭和、平成と時代ごとに離島には珍しい優秀な旅客船を次々と就航させました。この「ニューうおしま2」は平成の大合併により上島町が発足した平成16(2004)に就航した快速船で、総トン数は52トン。旅客定員は82名、航海速力は17ノット(時速約30km)です。見るからに軽快そうな船です。

上島町営魚島航路の快速船「ニューうおしま2」は魚島港に15分ほど停泊した後、1127分に弓削港を出港しました。前述のように、上島町営魚島航路は因島の土生港と魚島の魚島港の間を14往復しています。弓削港を出ると、途中、豊島の豊島港と高井神島の高井神港に寄港して、終点の魚島港に至るのですが、豊島港に寄港するのは14往復の便の中の2便だけ。私が乗船したこの便も、豊島には寄らずに、高井神島を目指します。弓削港の近くにも造船所があり、巨大なクレーンが立ち並んでいます。

弓削港を出港しました。弓削島と言えば「国立弓削商船高等専門学校」ですね。実は私も乗り物好きだったので、中学時代に進学先の1つとして考えたことがありました。その弓削商船高専の練習船「弓削丸」が停泊しています。

「ニューうおしま2」は弓削大橋の下を潜っていきます。

魚島と高井神島という2つの有人島と2つの無人島からなる魚島群島は、瀬戸内海のほぼ中央、燧灘のそのまた中央にポツリと浮かぶ離島群で、上島町営魚島航路の「ニューうおしま2」から見える景色は、これまで芸予諸島の島々の間を縫うように進んできた芸予汽船の快速船からは一変します。瀬戸内海って海と言うだけあって、広いなぁ〜って感じです。気持ちいい船旅です。


後方の風景です。弓削島が徐々に遠ざかっていきます。で、弓削島出港時はこんな感じだったのですが……


弓削島から少し離れて沖合に出ると一気に加速して、こんな感じになります。航海速力は17ノット(時速約30km)。のどかな船旅って感じではなくなり、この速さですので風も強いので、のどかに上部デッキからの風景を楽しむという感じではなくなり、客室に入りました。

船内風景です。この便の乗客は私を含め僅かに3名でした。

魚島群島の島々です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

【高井神港…高井神島】

弓削港を出港して30分。「ニューうおしま2」は定刻の1157分に高井神島の高井神港に入港しました。高井神島は本島である魚島とともに魚島群島を構成する有人島で、面積は1.34平方km20世帯26人が生活している小さな島です(平成27年国勢調査)。島は山間部が多く、平地がほとんどないため、農業は難しく、漁業が主要産業となっています。


途中、高井神島の高井神港に寄港します。

高井神島は本島である魚島とともに魚島群島を構成する有人島で、面積は1.34平方km20世帯26人が生活している小さな島です(平成27年国勢調査)。島は山間部が多く、平地がほとんどないため、農業は難しく、漁業が主要産業となっています。

乗降客もなく、運んできた荷物を降ろしただけで、「ニューうおしま2」はすぐに高井神港を出港して、最終目的地の魚島にある魚島港を目指します。すぐに前方に魚島の姿が見えてきます。魚島が燧灘(瀬戸内海)に浮かぶ孤島で、島の南側には他の島もないことから、遠くに西条市から新居浜市までの四国本島が見えます。ちょっと霞んでいますが、石鎚山系の山々も見えます。また、魚島のすぐ南に隣接するように面白い形をした無人島があります。瓢箪島(ひょうたんじま)です。私が子供の頃に夢中になって観たNHKの大人気人形劇「ひょっこりひょうたん島」に登場する「ひょうたん島」のモデルになった島の一つだとされています。確かに「ひょっこりひょうたん島」に登場する「ひょうたん島」と同じ形をしていますし、背後には広い燧灘が広がっていますので、「波をチャプチャプチャプチャプかき分けて」で始まる「ひょっこりひょうたん島」の主題歌のイメージにピッタリです。

上島町営魚島航路は高井神島や魚島といった離島で暮らす人々にとっては貴重な生活の足となっていて、船体後部には郵便物や宅配便の荷物、食料品や生活用品が積み込まれています。船が到着すると、郵便局員をはじめ、多くの人が荷物を受け取りに港の桟橋にやって来ます。

高井神港を出港すると15分で終点の魚島港に到着します。魚島のすぐ沖にあるのが瓢箪島。私が子供の頃に夢中になって観たNHKの大人気人形劇「ひょっこりひょうたん島」に登場する「ひょうたん島」のモデルになった島の一つだとされています。魚島から南側の燧灘(瀬戸内海)には島がないので、西条市から新居浜市までの四国本島が一望できます。霞んでいますが石鎚山も見えます。


【魚島港…魚島】

高井神港を出港して15分。定刻の1212分に終点の魚島の魚島港に到着しました。弓削港からの所要時間は45分でした。魚島は燧灘に浮かぶ魚島群島の主島で、かつてはここに魚島村役場が置かれていました。面積は1.34平方kmの極々小さな島で、島の人口は平成27(2015)の国勢調査によると168人。島内は急峻で農地はほとんどなく、自給的な農業が行われているにすぎず、魚島の名前のとおり主産業は漁業です。

魚島港に到着しました。先に私以外の2人の乗客が下船していきました。弓削港からの所要時間は45分でした。

魚島は燧灘に浮かぶ魚島群島の主島で、かつてはここに魚島村役場が置かれていました。面積は1.49平方kmの極々小さな島で、島の人口は平成27(2015)の国勢調査によると168人です。


漁業ではデベラ漁が有名です。デベラは「出平鰈(でべらかれい)」と呼ばれていますが、正式名称は「タマガンゾウビラメ」。カレイなの?ヒラメなの?って聞きたくなりますが、写真を見ると「左ヒラメに右カレイ」なので、やっぱりヒラメの一種なのでしょうね。手を広げたような形なので「手平」が訛って「デベラ」と呼ばれるようになったという説が有力です。港の周辺に広がるデベラ干しの風景は冬の風物詩となっています(残念ながら訪れたのが4月だったので、デベラ干しの風景は見られませんでした)。また、タコ壺漁も盛んで、港にたくさんのタコ壺が並ぶ、島ならではの風景が観られます。

タコ壺漁も盛んで、港にたくさんのタコ壺が並ぶ、島ならではの風景が観られます。

島内は急峻で農地はほとんどなく、自給的な農業が行われているにすぎず、魚島の名前のとおり主産業は漁業です。民家はこのような細い坂道の左右に密集するように建っています。

島の山の上にある魚島小中学校です。運動場のような広い場所を確保するには、山の上しかありません。

魚島の歴史は古く、島内からは弥生式土器が出土されているほか、56世紀の祭祀場跡からは古代朝鮮との関係を思わせる遺物も出土しています。室町時代は「沖ノ島」と呼ばれ村上水軍の出城が置かれており、篠塚公園周辺には「村上水軍」の財宝伝説が残っています。島の中央部にある平安時代の天徳年間(957年〜961)に創建されたと伝えられる亀居八幡神社が立っています。この亀居八幡神社は総檜造りで、銅板が使用され、装飾品にも多くのこだわりがあって、人口が200人にも満たない規模の小島に対しこれだけの本格的な神社があるのは珍しいことだと言われています。また亀居八幡神社には、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将・新田義貞の忠臣4人、いわゆる「新田四天王」の1人である篠塚伊賀守重広に所縁のある宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、国の重要文化財に指定されています。また、篠塚重広は興国3(1342)、北朝方の細川頼春と戦い、今治市朝倉にあった世田山城に篭城したももの敗戦となり、自ら「沖ノ島」に落ち延びて、同年に没したといわれていており、この「沖ノ島」が現在の魚島のことで、亀居八幡神社の宝篋印塔は篠塚重広の墓所とされています。


魚島での滞在時間は40分間と限られていたために、島内で唯一訪れたのが島の中央部にある亀居八幡神社です。亀居八幡神社は平安時代の天徳年間(957年〜961)に創建されたと伝えられる古い神社です。


亀居八幡神社には、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将・新田義貞の忠臣4人、いわゆる「新田四天王」の1人である篠塚伊賀守重広に所縁のある宝篋印塔があり、国の重要文化財に指定されています。


帰りの船の出港時間までの滞在時間はわずかに40分。大急ぎで港に引き返し、1300分、上島町営魚島航路の「ニューうおしま2」で弓削港に戻ることにしました。この便に乗り遅れると次は1725分発。4時間以上も間が開き、その予定も残っていますので、かなり忙しい魚島滞在でした。またいつかゆっくりと時間を取って訪れてみたいと思います。


郵便局員や島の商店の方が、船で運ばれてきた荷物の受け取りと、送る荷物の運び込みにやって来ています。

魚島港に戻ってきました。13時ちょうど発の弓削港経由土生港行きに間に合いました。魚島周辺の海はとても綺麗で、港の桟橋から下を覗くと、海底までハッキリ見えます。港なのでかなり水深は深いはずなのですが、ここまでハッキリ見えるということはよっぽど海水が透き通っていて、綺麗なんでしょう。

もっと滞在していたかったのですが、次の予定があるので魚島をあとにします。

 

……③に続きます。③は明日6月3日に掲載します。

 


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