2020年12月21日月曜日

中山道六十九次・街道歩き【第16回: 長久保→和田峠】(その2)

と、その前に腹ごしらえ。昼食はかつて旅籠を営んでいた丸木屋(まるきや)さんの建物の中でお弁当をいただきました。この丸木屋は幕末期の慶応3(1867)に建てられた典型的な旅籠建築の建物を今に残しています。片土間2列の奥行きがある建物で、裏庭に面した奥座敷には濡縁が設けられ、一階部より二階部を前方に張り出した出梁造り(出桁造り)となっています。入り口は狭く(低く)、ちょっと屈まないと中に入ることができません。非常に味わい深い建物です。

中山道六十九次・街道歩き【第15回】の(その12)でご紹介しましたが、ちょっと長久保宿のおさらいです。長久保宿(ながくぼしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて27番目の宿場です。元々は長窪宿と表記していました。現在の地名では長野県小県郡長和町長久保です。ともに難所であった笠取峠と和田峠との間にあって、また、善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)だったこともあり、最盛期には旅籠が43軒と比較的大きな宿場でした。

長久保宿は当初は現在の位置より西下の依田川沿いに設けられていました。しかし大洪水によって宿場全体が流失してしまったため、寛永8(1631)に河岸段丘の上にある現在の地に移り、本陣・問屋を中心に“堅町”を形成し、後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に“横町”を形成していったため、珍しいL字型に曲がった町並みの宿場町になっています。

本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」であったのですが、宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し、久しく保つという意味を持つ「久保」に縁起を担いだらしい…と言われています。安政6(1859)には宿方から代官所へ宿名変更の願書すら出されたが、許可はされなかったようです。そのため、以降も公文書には「長窪宿」と記されていたのですが、明治の時代になりようやく認められたのだそうです。天保14(1843)の記録(中山道宿村大概帳)によれば、長久保宿の宿内家数は187軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は721人であったそうです。善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)が宿内にある交通の要衝で、長久保宿は最大で43軒の旅籠があり、信濃国にある中山道26宿の中では塩尻宿に次ぐ2番目の数を誇りました。

“堅町”を歩きます。昼食を摂った丸木屋の道向かいにあるのが一服処「濱屋」です。ここは明治の初期に旅籠として建てられたのですが、交通量の減少で旅籠として開業できず、茶店となったのだそうです。現在は無料の休憩所を兼ねる「長久保宿歴史資料館」になっています。

脇本陣の跡です。

中山道最古の本陣建築が現存する長久保宿の本陣です。この本陣は火災の記録がなく、江戸時代初期に建てられた御殿が今も残っています。前述のように、この本陣を務めた石合(いしあい)家の4代目・石合十蔵道定には、NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公・真田信繁(幸村)の長女すへが嫁ぎました。

本陣の横には高札場があります。この高札場、中山道でこれまで見てきた現存する高札場の中では、最も大きな高札場です。なるほど、昔もこんな感じだったんでしょうね。

100坪以上の広さがあり、目を見張るような巨大な本卯建(うだつ)が上がる建物は、江戸初期の17世紀中頃から昭和の初期まで酒造業を営み、宿場の役職も勤めてきた「釜鳴屋(かまなりや)(竹内家)です。長野県内最古の町屋なのだそうです。母屋の屋根の端部には、妻壁を高く突出させ、それに小屋根を付けた「本卯建(ほんうだつ)」が見られます。この天を衝くような卯建は“火煽り”とか“火返し”と呼ばれています。

この建物が建てられた年代は明らかになってはいませんが、寛延2(1749)に描かれた絵図に、現在と同じ間取りが記載されていることや、玄関口に打ち付けられている最も古い享保16(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がなかったことから、これ以前に建てられていたものと考えられています。品質の上等な酒があることを示す「上酒有」と書かれた元禄時代からの看板があるそうです。

その「釜鳴屋」の斜め前にあるのが、長久保宿の創設期から問屋を勤めてきた「小林家」です。現在の母屋は明治3(1870)の大火で焼失し、再建されたものですが、出格子を付けた2階部分が昔の形状を伝えています。屋根には旧主君・真田氏との関係を示す「六文銭」の鬼瓦が見られます。

堅町は正面で突き当り、長久保宿はこのT字路を左折して、横町の宿場通りを進みます。このT字路を右折するとJRバス関東小諸支店の長久保営業所があり、ここからが本当の意味での中山道六十九次・街道歩きの続きです。

先ほど長久保宿は東西方向に「堅町」、南北方向に「横町」が形成され、その2つが直角に曲がる特殊なL字型の町並みになっていることを書きましたが、ここからがその中の南北方向に伸びる「横町」です。

長久保宿は最大で43軒の旅籠があり、中山道の信濃二十六宿の中では塩尻宿に次ぐ旅籠の数を誇っていたということを書きましたが、長久保宿で現在でも唯一営業を続けている旅館がこの「濱田屋旅館」です。現在も中山道を歩いて旅する人達にとって、大切な宿として利用されているのだそうです。

ここも元旅籠だった辰野屋の「竹重家住宅」です。宿場全盛時代の贅を尽くした出梁造りの大きな建物です。

この奥に長安寺という寺院があります。この寺院の経蔵(きょうぞう)は幕末頃に建てられた土蔵造りで、大般若経600巻を納める輪蔵が中にあるのだそうです。明治4(1871)の火災で本堂などは焼失してしまったのですが、経蔵だけは難を逃れ現存しています。

この横町消防庫のところに長久保宿の京方の枡形(入り口)がありました。ここには珍しく枡形がほぼ枡形のままの形で残っています。枡形があるということは、このあたりまでが長久保宿の宿場でした。このあたりに旧馬宿がありました。傾斜地を利用して1階に馬屋、2階に客室が設けられていたそうです。

長久保宿は往時の面影が色濃く残る実に風情のある素晴らしい宿場でした。この2年間ほど歩いた甲州街道では、残念ながらこれほど往時の面影が残る宿場はなかったので、本当に久方ぶりに旧街道が栄えた江戸時代にタイムスリップできた感じです。街道歩きの再開のスタート地点が長久保宿で本当に良かったです。

枡形からすぐの長久保宿の標柱のある横町交差点で国道142号線と合流します。

右手には稲刈りを終えた田んぼが広がっています。

ススキ()と鈴なりのカキ()。もうすっかり晩秋です。

スノーローダー(除雪車)がスタンバイしています。間もなくこの辺りも一面の雪に覆われるのでしょうね。

ちょっと傾斜が大きな坂道をグングン下っていきます。

すぐに長久保交差点で上田市から南下してきた国道152号線(大門街道)と合流します。

なんとこの国道142号線と国道152号線の重複区間には歩道がありません。車道の端を歩くのですが、すぐ隣りを大型トラックが道幅いっぱいに通り抜けていきます。現代の“難所”です。45分歩くと旧中山道は四泊落合の標識のあるところで右側の細い道に下っていきます。ホッと一安心です。

  

……(その3)に続きます。



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