2020年2月19日水曜日

甲州街道歩き【第11回:真木→笹子峠】(その3)

休憩時間も終わり、JR初狩駅前交差点脇のコンビニの駐車場を出発して、次の中初狩宿に向かいます。
 宮川橋で宮川を渡ります。この宮川橋は『宮川橋のひと目富士』と呼ばれ、昔から富士山が見える名所として甲州街道を行く旅人達の間で評判のところでした。甲州街道は東海道とは違い富士山のすぐ北側を通るのですが、実は手前の山々に遮られて意外と富士山を見ることができません。そんな中、富士山の姿が見られる数少ないポイントの1つが、ここ宮川橋なのです。この日も既に真っ白く綺麗に雪化粧をした富士山の5合目付近から上部が遠く山々の間から顔を覗かせていました。肉眼では確認できたのですが、残念ながら背後の空が白く曇っているので、写真では見分けがつかず、確認できません。ちなみに、下を流れる宮川は笹子川の支流で、やがて桂川、そして相模川となって太平洋へと注ぎ込みます。
  宮川橋を渡りきったところが中初狩宿の江戸方(東の出入口)です。このあたりは宿場間の距離が短く、中初狩宿は下初狩宿から8(880メートル)ほどしか離れていないという近さでした。なので、下初狩宿の諏訪方(西の出入口)を出てからほんの45分も歩くと、次の中初狩宿に入っていきます。昔は現在の宮川橋が架かっているあたりに土橋が架けられ、この宮川土橋を境に、下初狩宿と中初狩宿に分かれていました。
 旧甲州街道はここで国道20号線を渡り、右手に大きく迂回するコースをとり、再び国道20号線と合流します。
 その合流点にある初狩小学校の前に「芭蕉句碑」が立っています。
山賊乃 願とつる 葎哉(やまがつの おとがいとずる むぐらかな) 芭蕉
 その句碑の左隣に立つ50cmほどの石が芭蕉塚なのだそうです。初狩小学校にはスクールバスが停まっています。このあたりは過疎が進んで、幾つかの小学校が統合されたのか、小学校にスクールバスが停車している光景をよく目にします。
 前述のように、中初狩宿は下初狩宿から8(880メートル)ほどしか離れていないという近さではあったのですが、天保14(1843)に編纂された「甲州道中宿村大概帳」によると、本陣1軒と脇本陣1軒を備え、旅籠は下初狩宿より多い25軒ほどあったそうです。家数84軒、人口318人。これも前述のように、中初狩宿はその前の下初狩宿との2宿で人馬の継ぎ立て等の1つの宿場の任を担う「合宿(あいしゅく)」で、月の前半15日をこの中初狩宿が、後半15日を下初雁宿が宿場の任を勤めました。元は旅籠でしょうか。宿場町の象徴のような切妻、出桁造りの町家建築の建物が残っています。
 右側に見える大きな建物が中初狩宿の小林家本陣跡です。建物は明治時代以降に建てられたものですが、建物の左側には本陣特有の立派な屋敷門が現存しています。本陣跡の左側に明治天皇が巡幸の際に立ち寄ったことを示す「明治天皇御小休遺跡碑」が建てられており、ここが本陣だったことが分かります。ちなみに、中初狩宿の脇本陣は本陣の斜め向かい側にあったそうなのですが、今はその痕跡は何も残っていません。
  道なりに進むと唐沢橋の手前に「首塚」と記された標識が立っています。標識に従ってJR中央本線のガードをくぐり山の中に入って行きます。その先にあったのが「小山田左兵衛尉信茂顕彰の碑」。小山田信茂は武田勝頼に反旗を翻し勝頼を自害に追い込み、甲斐武田家を滅亡させた人物です。
  

……(その4)に続きます。

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