2019年11月23日土曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その7)

切妻 出桁造りの町屋建築の建物が残るなど、雰囲気のいい街道を歩きます。この町屋建築の建物を見ると、次の宿場が近づいてきたことを感じます。次の宿場はいよいよ甲州街道の終着、下諏訪宿です。
旧承知川橋の一枚岩です。この一枚岩は長く甲州街道の承知川に架かっていた橋の基礎石です。案内板によると、この一枚岩は輝石安山岩でできていて、重量は約30トンということのようです。また、「伝説によると永禄4年武田信玄が川中島の戦いの砌(みぎり)、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う。しかし戦に利あらず、帰途この橋を通過せんとしたが、乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き、『神のお告げ承知仕り候』と申上げ帰国したと言う。爾来承知川と呼びこの一枚石の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。」…とのことです。さらに、「この一枚石の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。」…とのことです。なるほどぉ〜。
ほどなく前方に大きなケヤキ()の巨木が見えてきました。諏訪大社下社の秋宮の社叢にある「専女(とうめ)の欅」と呼ばれる樹齢1000年以上の欅の巨木です。
諏訪大社では御神紋として、カジ()の木の葉をモチーフにした紋を使用しています。古い資料によると、梶は“穀”や、“栲”とも表記され、諏訪を治めていた藩主・諏訪氏や、諏訪氏関係の一族の家紋としても使われています。上社も下社も共に梶の葉を紋としていますが、上社と下社のそれぞれの梶紋には微妙な違いがあります。上社の梶紋は「諏訪梶」呼ばれ、木の根に当たる部分が4本、これに対して下社の梶紋は「明神梶」と呼ばれ、根に当たる部分が5本となります。そのカジ()の木が植えられています。
「専女の欅」の前にあるのが諏訪大社下社秋宮の鳥居です。甲州街道のゴールは、この諏訪大社下社秋宮の近くにある下諏訪宿の宿内の中山道との合流地点(追分)です。諏訪大社下社の秋宮は甲州街道のゴールに到着後、ゆっくりと見学するとして、まずは甲州街道を先に進みます。甲州街道は鳥居の前を素通りして、秋宮の縁に沿って伸びています。
「下諏訪宿甲州道中口 番屋跡」の石碑が立っています。ここが下諏訪宿の甲州街道側の出入口でした。下諏訪宿では甲州街道と同じく江戸の日本橋を出て、武蔵国(埼玉県)、上野国(群馬県)を通って(峠でいうと碓氷峠、和田峠という2大難所を通って)やって来た中山道と合流するのですが、その中山道口はまた別にあります。
諏訪大社の名物と言えば「塩羊羹」。明治6年創業の塩羊羹で有名な和菓子屋『新鶴本店』が番屋跡の斜め前にあります。塩羊羹は塩が貴重品であった信州で生まれた銘菓で、上品な甘みが特徴です。諏訪名物として大変に人気の商品で、休日などお昼を少し回ったばかりで売り切れることもあるということです (私は甲州街道をゴールした後で急いで買いに行ったのですが、運良く購入できてよかったです)
このあたりから下諏訪宿に入っていきます。下諏訪宿は甲州街道と中山道との合流点(追分)で、古くから諏訪大社の門前町として栄えてきました。門前町ではあるのですが、交通の要衝であっただけに旅商人の泊まり客も多く、出桁造りの低い二階建て、堅繋格子の町屋建築の家も多く残っており、宿場町としての特徴も色濃く感じられます。

下諏訪宿は現在の長野県諏訪郡下諏訪町の中心部にあたり、古くから諏訪大社下社(しもしゃ)の門前町として大いに栄えたところでした。また、これまで何度も述べたように甲州街道の終点で、中山道との合流点でもある交通の要衝で、江戸・京都・甲州それぞれの方面から多くの人々の往来があり、中山道・甲州街道で信濃国内最大の40軒の旅籠がありました。宿場の中で甲州街道が分岐・合流する追分がありました。また、古くは鎌倉時代から温泉の利用が確認されており、中山道唯一の温泉のある宿場として知られ、当時の絵画などには温泉を利用する旅人達の姿が描かれています。ともに難所である和田峠と塩尻峠の間にあり、旅人にとって格好の休憩地だったことでしょう。旧称は「下ノ諏訪」と言います。

天保14(1843)の記録(中山道宿村大概帳)によると、下諏訪宿の宿内家数は315軒で、宿内人口は1,345人。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒がありました。この他、茶屋が2軒、商屋が15軒あり、さらには宿の外れには木賃宿があり、巡礼者や下級の旅芸人などが利用したそうです。その当時は宿泊客が非常に多く、足の踏み場もないほどに人が集まり、雑魚寝をしていたほどであったと言われています。宿場は約800メートルほど町並みが続いていたとのことです。

中世より、この地は湯の町として知られ、街道の道端に高温の温泉が幾つも自噴し、多くの旅人が疲れを癒した温泉場で、名湯として広く知られてきました。
繰り返しになりますが、甲州街道の終点は諏訪大社下社秋宮の近くのある下諏訪宿内にある中山道との合流地点(追分)です。以前、中山道を歩いた時に通ったところです。その合流地点には既に先頭集団が到着しています。
甲州街道を江戸から歩いてくると、同じく江戸から伸びてきた中山道が前方からやって来てここで合流、と言うか正面からぶつかります。前からやって来るのが中山道です。同じ江戸の日本橋を出発して、かたや甲斐国(山梨県)、かたや武蔵国(埼玉県)、上野国(群馬県)を経て、信濃国の諏訪湖畔で合流する、それも真正面からぶつかるように。ちょっと不思議な感じがします。

ちなみに、東京から諏訪湖を目指す場合、現代では中央自動車道やJR中央本線の特急あずさ利用するのが一般的ですが、江戸時代は中山道を利用するのが一般的でした。実際、参勤交代に利用した大名の数も甲州街道が僅かにいずれも譜代大名の3(信濃国高島藩、高遠藩、飯田藩)だけだったのに対して、中山道は加賀100万石前田家をはじめ中山道はその10倍以上の34藩でした (東海道は154)。幕末の一大イベントであった皇女和宮の江戸幕府第14代将軍徳川家茂への御降嫁の際の行列も中山道のほうを通りました。一見、甲州街道のほうが近そうに思えるのに何故?…って疑問が湧きますが、甲州街道は元々は江戸幕府の軍事用道路として整備された街道で、お堅い雰囲気が強かったので敬遠されたのではないか…とのことです。問題の距離についてですが、中山道は武蔵国(埼玉県)、上野国(群馬県)を通って来るので、随分と遠回りしている印象を受けますが、実は甲州街道と比べてそれほど長いわけではありません。甲州街道の江戸日本橋からこの下諏訪宿の追分までの距離は532420(210.8km)。いっぽう、中山道は55614(216.7km)。意外や意外、僅かに6km弱長いだけです。中山道の場合、途中、和田峠や碓氷峠といった難所を通るのですが、これだけの距離の差であれば、雰囲気のいいほうの街道を利用したくもなりますわね。

甲州街道と中山道との合流地点には「下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地」の石碑が立っています。甲州街道歩きのゴールの「下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地」の石碑前では全員で万歳を三唱\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/ 甲州街道完歩を祝いました。ちなみに、私は【第11回】の真木笹子(10km)が所用があって不参加だったので、残念ながら途中の下初狩宿・中初狩宿・白野宿・阿弥陀海道宿を通っておりません。なので『準完歩』です。
せっかく下諏訪宿まで来たので、一応、本陣の前まで行ってみました。本陣は「下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地」の石碑からすぐの中山道沿いにあります。格式高い門構えの岩波家本陣跡です。この岩波家本陣は本陣と問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家で、現在の当主は28代目にあたるのだそうです。この岩波家本陣は諏訪大社下社秋宮の境内を借景とし、当時、ここの広大な庭園は中山道随一の名園としても有名だったそうです。現在も一部が一般公開され、皇女和宮が御降嫁される際に、また明治天皇が宿泊した際に利用された奥の座敷を見学することができます。また、玄関には、参勤交代の際、大名家が宿泊している時に掲げる関札を展示しています。徳川御三家や彦根藩井伊家などの関札が残されているのだそうです。残念ながら、時間の関係で立ち寄れませんでした。
岩波家本陣の向かいにある大津屋も真っ白い漆喰の壁が印象的な建物です。歴史を感じます。 この大津屋の前に「下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地」の石碑が立っていて、中山道はここで右に曲がり(甲州街道から見ると左に曲がり)、塩尻峠、鳥居峠という2つの峠を越えて木曽路へ。さらに妻籠宿や馬籠宿を通って美濃路へ。そして終点の京都三条大橋に向かって伸びています(下の写真でいうと、左方向) 。ここから中山道の終点、京都三条大橋までは802753(317.2km)です。
「下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地」の石碑の近く(甲州街道沿い)に「綿の湯」の跡があります。ここには当時の「錦の湯」の様子を描いたタイル絵が飾られています。江戸時代、各旅籠には温泉は引き込まれておらず、宿泊客も一般開放されていたこの「錦の湯」を利用しました。この時代、他の湯は地元の人以外は入れず、加えて、温泉は混浴が普通だったのだそうです。
「錦の湯」跡に「甲州道中終点 中山道下諏訪宿 問屋場趾」の石碑が立っています。先ほど訪れた岩波家本陣は問屋場も兼ねていたそうなので、このあたりまである広い敷地のお屋敷だったわけですね。
諏訪大社下社秋宮に戻って、甲州街道完歩の記念撮影です。この日のさいたま新都心駅発の参加者は19名でしたが、このうち9名の方が甲州街道完歩を達成されました。残りの方も、そのほとんどは私のように1区間だけ参加できなかった準完歩の方々です。達成感が漲っています。さいたま新都心発のほかに、上野・東京発と横浜発のコースがあり、総勢約80名。このうち34名が甲州街道完歩者です。


……(その8)に続きます。

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