金沢宿のはずれにある権現神社の森です。参道正面に祀られているのがこの小さな石祠で、建立されたのは承応3年(1654年)のことです。ちょうど青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた3年後のことです。祀られている金山権現の祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)で、山の神とされています。前述のように、この金山権現は武田信玄が開発した金鶏金山で働いていた人達が武田氏の滅亡後青柳宿へ下り、金山にあった金山権現を移して祀ったものと伝えられています。
ちなみに、金鶏金山は長野県の茅野市と高遠町の境、南アルプスの北の端にあたるところに位置する金山です。すぐ南には入笠山、北側の尾根には金沢峠、杖突峠と続き、また茅野市側(東側)の麓には甲州街道が通っていて、最寄りの宿場(賑やかな集落)はここ金沢宿(信玄の時代から江戸時代初期までは青柳宿)でした。発掘は武田信玄の時代から約400年間、昭和の時代に入っても第二次世界大戦後まで掘り続けられたのだそうです。戦国時代最強と言われた武田軍団を支えた財政基盤が、きっとこの金鶏金山だったのでしょうね。武田晴信(信玄)だけでなく、父の武田信虎も執拗にこの諏訪の地に侵攻を繰り返していたようですが、きっとこの金鶏金山を手中に収めることが狙いだったのかもしれません。加えて、この金沢宿の地名の“金沢”も、きっと金鶏金山にちなんで付けられたものなのでしょうね。
また、石祠が建立された頃に植樹されたと思われるサワラ(椹)の古木が現存し、森に趣きを添えており、信仰の場として、さらには憩いの場として、今も江戸時代の名残りを留めています。
旧甲州街道はそこからすぐに国道20号線から左側の側道に入っていきます。このあたりがかつて青柳宿のあったところで、前述のように、慶安4年(1651年)に度重なる宮川の氾濫と前年の大火で建物のほとんどが焼失したのを機に、南方のこの河岸段丘上の丘陵地に移り、青柳宿から改称して金沢宿となりました。
そのかつての青柳宿の名残りなのか、ここで道が枡形になっています。
田圃の中の一本道を進みます。
ここでTの字の三叉路になっています。実は旧甲州街道はここを直進して真っ直ぐに伸びていたのですが、その道は田圃の中に消滅してしまっているので、これ以上は進めません。なので、左に曲がり、左側に建つラブホテル「虹色のメルヘン」の脇を大きく迂回して進みます。
ここが迂回する前のところから真っ直ぐ来ると出てくるところで、ここから旧甲州街道に戻ります。そして、その場所にあるのが、江戸の日本橋を出てから49里目の「金沢一里塚跡」です。塚だけが残っています。
横を流れるのは天竜川の支流の宮川です。富士見峠が分水嶺なので、峠を越えると川の流れの方向が変わりました。
宮川に沿って進みます。
木舟大橋で宮川を渡ります。
家紋や屋号の入った土蔵を持つ屋敷が幾つも建ち並んでいるのは、旧街道の証しですね。
国道20号線と合流するのですが、すぐにUターンするように右側の急な坂道を登っていきます。
これが旧甲州街道か…と思っているとデッカイ石塔が道端に立っています。間違いなく旧甲州街道のようです。ですが、この石塔の前には鳥居のようなものが立っています。ここは木舟神社です。その昔、諏訪湖はこの辺りまで湖面が来ていて、ここに港があったので木舟神社が祀られているということのようです。本当か?
その後、JR中央本線を跨線橋で越えます。周囲の地形から推察するに、JR中央本線の線路は山を開削した切り通しのところを通っていて、かつて旧甲州街道はこの山の上を斜めに突っ切って伸びていたと思われます。
跨線橋を渡るとしばらくJR中央本線の線路に沿って進みます。
そして緩やかに右に曲がっていきます。おそらく跨線橋の手前からこのあたりまで、旧甲州街道は斜めに伸びていたと推察されます。そう考えると、とても分かりやすい道路です。
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