2019年8月15日木曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その4)

瀬沢の集落を進みます。写真では分かりにくいと思いますが、集落内はかなりの登り坂になっています。この日は標高差約250メートルの登りだということは最初に書いたとおりですが、この瀬沢も集落までは登りといっても気づかないほど緩やかで、さほど高度を稼いでいるとは言えません。しかし、この瀬沢集落からそれまでとは一変、急に本格的な登り坂になるようです。
家名の入った土蔵の横を通っていくのですが、その土蔵との比較でどれだけの急勾配で坂を登っているのかがお分かりいただけると思います。瀬沢集落から富士見峠のサミット(頂上)までは約2.5km。そこで約250メートル登るというのは平均斜度100‰(パーミル)ってことです。角度に直すと約6度ってこと。この100‰がどの程度の急勾配かというと、日本の鉄道(JR:国鉄)3大難所と言われる信越本線の碓氷峠(現在は廃線)が最大斜度66.7 ‰、山陽本線の瀬野八(瀬野〜八本松間)の平均斜度が22.6‰、奥羽本線の板谷峠の最大斜度が33‰なので、アプト式や補機連結でも通常の鉄道では登れないほどの勾配です。もちろん、中山道の碓氷峠や和田峠、甲州街道の小仏峠や笹子峠などの山道はもっと急な勾配の道ですが、それは登山の一種と身構えて臨むので別格です。舗装された道路で平均斜度100‰の勾配が2km以上も続くというのはけっこうキツイです。明治天皇も明治13(1880)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際、平岡一里塚近くの御野立所で二頭立ての馬車から4人担ぎの板輿にお乗り換えになられたということを先に書かせていただきましたが、それだけ富士見峠に向かうこの瀬沢坂、芓ノ木坂が急勾配の難路だということがお分かりいただけるかと思います。
おっ! 民家の軒下に架けられているのは「めどでこ」ですね。「めどでこ」は諏訪大社で7年ごとに行われる御柱祭で、山中から切り出された御柱となる樅(もみ)の大木16(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4)を各宮の社殿まで曳行する「山出し」と「里曳き」という行事で御柱の前後に二本の角の様に取り付けられる道具です。前回【第14回】で蔦木宿を歩いている際にも蔦木簡易郵便局の軒下にぶら下がっているのを見かけました。棒に連なった輪になっている縄が結ばれて、ここに若者たちが乗って山を下る「木落し」と宮川を渡る「川越し」と呼ばれる「山出し」が7年ごとの43日前後に行われます。甲州街道の終点である下諏訪宿が徐々に近づいてきていることを実感します。
さらに瀬沢集落の中を急勾配の坂道で登っていきます。
かつてこのあたりの立場を勤めていた吉見屋さんです。立場とは、江戸時代,街道の宿場(宿駅)の出入口等に設けられた休息所のことで,掛け茶屋とも呼ばれていました。江戸幕府公認の公式休憩所ということで旅人や人足などが休憩に使っていましたが,宿泊は禁じられていました。この瀬沢は宿場ではありませんが、この急坂の登り口(下り口)なので、休憩所として設けられていたのでしょう。
この吉見屋の前は追分(街道の分岐点)になっていて、小さな道標が立っています。文字が弱々しくなっており読みづらいのですが、その道標には「左 すわ道  右 山浦」と刻まれています。右に進む道はかなり平坦で、こっちだったらいいなと思ったのですが、その期待に反して甲州街道は左側の「すわ(諏訪)道」のほう。こちらはここまでの坂以上にかなりの急坂になっています。やれやれです。ちなみに、右に行く山浦とは、八ヶ岳西麓のかなり広い地域を指す地名なのだそうです。
瀬沢坂と呼ばれるかなり急な坂を登っていきます。このあたりも集落が続いています。集落ということはここに住んでいる人がいらっしゃるっていうこと。と言うことは、住民の方々は、毎日、日常的にこのかなりの急勾配の坂を上り下りしているってこと。若い人ならまだしも、最近はこのあたりも住民の高齢化が進み、お年寄りにとってはこの急勾配の坂はさぞや大変なことだろうと推察します。すぐ下に平らな住みやすそうな土地がいっぱいあるのに、わざわざこんな住みにくいところに住まなくても…と急坂に喘ぎついでに思ったりもしますが、先祖代々住んでいたところということで、私のような者が無責任に考えているのとは別の事情がきっとあるのでしょうね。こういうところも旧甲州街道の歴史なのかもしれません。
瀬沢坂はさほど長くはなく、一気に高度を稼いで、いったん平らな台地の上に出ます。ここから右に入る道があります。この右に入る道の先に、天文11(1542)3月に、甲斐国守護・武田晴信(後の信玄)軍と信濃国諏訪の領主・諏訪頼重と信濃国守護・小笠原長時、村上義昌連合軍が戦った「瀬沢の戦い」の合戦場があります。
天文10(1541)6月、甲斐国武田家の当主・武田信虎は嫡子の晴信を擁した一門・譜代重臣のクーデターに遭い、姻戚関係にあった駿河守護・今川義元の許に追放されました。信虎は甲斐国を統一すると隣国・信濃国への侵略を開始していたのですが、それと並行して諏訪家の当主・諏訪頼重に娘(晴信の妹)の禰々を嫁がせてもいました。しかし信虎の追放で武田家と諏訪家の縁戚関係は徐々に微弱なものとなります。天文11(1542)2月、諏訪頼重は武田晴信(信玄)の政権基盤がまだ盤石でないのを見て、信濃国守護・小笠原長時や村上義昌、木曾義在らと連合して甲斐への侵攻を図りました。信濃国連合軍はここ甲信国境にほど近い瀬沢に陣を構えました。この動きを察知した武田晴信はひそかに自ら軍勢を率いて迎撃。39日の早朝、信濃勢の不意を突きました。戦いは辰の刻(午前8時頃)に始まり、未の刻(午後2時頃)に終わり、武田軍は信濃勢1,621人を討ち取る大勝を収めたとされています。しかし、この合戦での被害はまだ盤石な体制を築けていない武田軍のほうにむしろ多数の被害(死傷者)が出たともいわれていて、不明なところが多い戦いです。その戦場となったのは、この瀬沢を中心に新田原から横吹にかけての広い範囲と考えられています。

この瀬沢の戦いに勝利した武田晴信は、その後、信濃国への侵攻の勢いを高めることになります。まず、伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び諏訪郡への侵攻を行い、居城である上原城を攻められた諏訪頼重は7月に桑原城で降伏した後、弟の諏訪頼高とともに武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽閉された後に自刃しました。弟の諏訪頼高も自刃し、ここに諏訪惣領家は滅亡しました。ただ諏訪一族は頼重の叔父である諏訪満隣の家系が継承し、諏訪大社の神職である大祝(おおほうり)として継続しました。

天正10(1582)3年、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡。同年6月に本能寺の変で織田信長が討たれると武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生します。この時、諏訪大社の大祝を務めていた諏訪満隣の子孫の諏訪頼忠が蜂起し、旧領を回復。頼忠は諏訪氏を再興し、頼忠の息子・頼水が慶長5(1600)の関ヶ原の戦いでの功によって高島藩(諏訪藩)初代藩主に封じられ、その後、幕末まで譜代の高島藩(諏訪藩)3万石の藩主として10代続くことになります。

その瀬沢の戦いの合戦場へ向かう道との分岐点から旧甲州街道はいったん坂を下るのですが、また急な登り坂になってグングン高度を稼いでいきます。
このあたりは旧街道の証しである石塔石仏群が数多く見られます。
この石塔石仏群の一番右に立っている大きな石碑は観世音菩薩碑ですね。
ここにも石塔石仏群があります。
写真では分かりづらいですが、かなり急な勾配の坂道で、グングン高度を上げていきます。皆さん無言で黙々と登っていくのですが、正直、かなりへばってきました。
長く急な登り坂が続き、かなりへばってきたところで、ちょっと坂を下ります。下り坂は嬉しいのですが、行く手にはまた次の登り坂が見えています。次の坂もこれまでの坂と同様に勾配が急なようです。こういうところにも民家があります。広い駐車場もあり、なにかの施設があるのでしょうか。地図でよく見ると、この右手の山の下を旧甲州街道に並行するように国道20号線が走っています。そちらから登ってきたら、ここはすぐの距離です。
小さな石の水神が祀られています。傍をせせらぎが流れているのですが、このせせらぎが時として濁流となってこのあたりを襲うことがあったので、それを鎮めるために立てられた水神なのでしょうか。
水神の先からまたかなり急な登り坂となります。ここからがもう1つの難路の芓ノ木坂(とちのきざか)です。
芓木(とちのき)の集落の中を進みます。家紋を掲げた土蔵のある民家があったりして、なかなかに風情のある集落なのですが、その風情を楽しむ余裕がだんだんなくなっていっています。かなりキツいです。
勾配がいったん緩くなり、また再度キツくなります。
坂道の途中に鳥居があります。尾片瀬神社です。尾片瀬神社の尾片瀬とは、このあたりにあった旧地名です。芓ノ木坂を登ったこのあたり一帯は、かつては芓ノ木平と呼ばれた荒地でした。そこへ享保18(1733)頃に近隣の大片瀬村から人々が移住し、芓之木村を開発しました。その際に廃村になった大片瀬に残っていた片瀬大明神の祠をこの地に遷座し、芓之木村の鎮守社としたのだそうです。その際、大片瀬村が度重なる水害に見舞われたことから“大”の字を“尾”に替えたと言われています。主祭神は瀬織津姫(せおりつひめ)。瀬織津姫は、古事記や日本書紀には記されておらず、神道の大祓詞にのみ登場する謎に満ちた女神です。水神や祓神、瀧神、川神とされたことから、度重なる水害に見舞われた大片瀬の人々は主祭神として祀ったものと思われます。
その芓ノ木平を緩い勾配の坂で登っていきます。
馬頭観音が6基並んで祀られています。


……(その5)に続きます。

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