2019年7月26日金曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その5)

低気圧(中心気圧984ヘクトパスカル)が通過した影響で、昨日(615)から今日(16)にかけて日本列島の広い範囲で荒天となりました。山梨県地方も昨日は夜になってから雷を伴う激しい雨が降りました。その激しい雷雨も明け方にはやみ、今日は朝から青空が顔を出して、絶好の街道歩き日和となりました。天気予報によるとこの日の山梨県地方のお天気は山沿いで雨が心配されるものの概ね晴れ。最高気温は30℃近くまで上がる真夏日になりそうということです。ちょっとした台風並みの勢力を持つ低気圧(984ヘクトパスカル)が近くを通過したにもかかわらず、昨日が弱い雨で、今日が晴れ。「晴れ男のレジェンド」は今回も健在でした。
宿泊したホテルルートイン韮崎前を観光バスで午前8時に出発。15分ほどで1日目のゴールポイントで、この日のスタートポイントである武川町農作物直売センターの駐車場に到着しました。南アルプスの方角を見ると鳳凰三山は山頂付近がまだ雲がかかって見えませんが、9合目付近より下の山容はハッキリと確認できます。
振り返って東の方角を見ると、雄大な富士山の風景が見えます。参加者の皆さんも一様に「おぉっ!!」という歓声をあげて、カメラを構えています。甲斐国、山梨県と言えば、やはり富士山です。甲州街道からも富士山の姿が楽しめるはずなのですが、【第11回】で笹子峠を越えて以降、【第12回】、【第13回】、そして今回の【第14回】の1日目とあいにくこれまでずっと富士山には雲がかかっていて、その雄大な姿が拝めませんでした。ついに拝めた!!って感じです。さすがに山梨県から見る富士山の姿はデッカイです。
2日目のこの日は台ヶ原宿、教来石(きょらいし)宿を経て県境を越え、甲斐国(山梨県)から信濃国(長野県)に入って最初の宿場「蔦木宿」まで歩きます。前日、雨で当初の予定よりも約4km手前の武川町農作物直売センターで行程を切り上げたので、2日目はその前日切り上げた約4kmが加わって、約20km歩きます。1日に歩く距離としてはこれまでの街道歩きの中で一番長い距離を歩くことになるのかもしれません。しかも、この20kmの区間は基本登りです。

今回【第14回】のスタート地点の韮崎宿が標高約360メートルで、ゴール地点の蔦木宿が標高約710メートル、蔦木宿手前にある今回の区間の最高地点が標高731メートルということなので、この2日間で約370メートルの標高差を、ずっと続く緩斜面でダラダラと登ることになります。しかも、1日目が釜無川に沿った比較的平坦な区間だったので、今回【第14回】の総標高差370メートルのほとんどはこの2日目の区間だけで登ることになります。途中、◯◯峠といった急峻な山道(峠道)を歩くわけではなく、国道20号線に沿ったほぼ舗装された道路ばかりを歩いて登っていくわけで、緩斜面がずっと20km続くと考えておいたほうがよさそうです。このダラダラと続く登り坂の緩斜面、意外と脚に負担がくるんですよね。かつて歩いた中山道の笠取峠を思い出します。笠取峠は芦田宿と長久保宿の間にある標高900メートルの峠で、中山道最大の難所と言われる和田峠や碓氷峠、塩尻峠、鳥居峠といった急峻な山道を登っていく峠道ではなくて、国道142号線の舗装された歩道をダラダラと登っていくだけの峠越えの道だったのですが、私にとってこれまでで一番キツかった峠はどこかと問われれば、迷わずイの一番に答える峠が笠取峠です。和田峠や碓氷峠、塩尻峠、鳥居峠、甲州街道では笹子峠や小仏峠といった急峻な山道を登っていく峠はそれなりに身構えて、用心しながら登っていくのですが、ダラダラとした長く続く緩斜面を登っていく場合には、ついつい油断してしまいますからね。登り坂の途中で左脚の脹脛(ふくらはぎ)を攣ってしまい、途中で何度もリタイアしそうになってしまった笠取峠越えの時の教訓を思い出し、改めて、油断しないで歩いていこうと思いました。

ということで、脚を中心にいつもより入念にストレッチ体操をして、この日の甲州街道歩きをスタートしました。前日とは異なり、この日はよく晴れています。しかも前日の雨で大気中のチリ()が洗い落とされたのか、大気が澄んで、周囲の風景もハッキリクッキリ、鮮やかに見えます。絶好の街道歩き日和(ひより)です。ただ、降雨レーダーの画像を見ると、山梨県長野県の県境付近や中央アルプスや北アルプスといった山岳地帯では一部でまだ雨雲がかかっているようで、周囲の山々も標高の高いところに雲がかかっています。今はは晴れていますが、これから標高が高いところに徐々に登っていきますので、もしかすると多少の小雨に見舞われるかもしれないということで、雨具(レインコート)だけはリュックサックに入れています。
沿道の民家の庭のバラ(薔薇)が見事に咲いています。かなり本格的にバラの園芸に取り組まれていらっしゃるお宅のようです。
ご存知、庚申塔です。旧街道筋ではよく見かける庚申塔ですが、その由来を改めて記載しておきます。
“庚申”と書いて“こうしん”あるいは“かのえさる”と読みます。昔のカレンダーにはたいてい記載されていたので、一度はご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。これは「干支」です。「干支」は“干”と“支”の組み合わせで表現されます。で、このうちの“干”は10進数で十干と呼ばれ、12進数で十二支と呼ばれていました。古代の中国では、この十干十二支を組み合わせて時間や日、月、年、方角などを表していました。1012の最小公倍数を求めると60になります。10進数の十干12進数の十二支”の組み合わせということは、60進数ということになります。円は360度ですから、くるくる回る事象を表現するのにこの60進数というのは極めて合理的な方法だったわけです。

で、“十干”とは、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、葵のこと。また、“十二支”とは、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥のことです。この2つを甲子(きのえね)、乙丑(きのとのうし)、丙寅(ひのえとら)という具合に組み合わせたものを「干支」、正確には「十干十二支」ということになります。単純に「干支」を「十二支」のほうだけで語るのは、本来は間違いなのです。

古代中国では、“十干”と“十二支”で「日」も表現していました。「十干十二支」は60進数ですから、例えば「庚申」の日は60日周期でやってくることになります。「年」も「十干十二支」で表現します。数えで61歳になれば、暦が1周して元に戻ることになります。これが暦を還す、すなわち『還暦』ということになるわけです。

この「十干十二支」に古代の中国の『三尸説(さんしせつ)』という伝承が加わります。この三尸というのは、人の身体に潜んでいると考えられていた、3匹の虫のことです。この3匹の虫達、自分が人の身体から出て自由になりたいがために人の死を望んでやまないという、なかなか困った連中なのです。隙あらば宿主の身体を抜け出して、天に昇り天帝(閻魔大王)の元へ行き、「お願いだから宿主の寿命を縮めてくれ」と宿主の悪行を報告したがるわけです。

天帝(閻魔大王)60日に1回やって来る庚申の日に人々の賞罰を考えるのだそうで、虫にとってはその日がチクリの大チャンスだったわけです。 人が寝静まったのを見計らって、さっさと抜け出して、天帝(閻魔大王)の元へチクリに行くと考えられていたのです。いっぽう、人はといえば、「自分の悪行を報告されて寿命が縮まってはかなわん!」というわけで、その日は一晩中徹夜して虫の自由にさせないようにしたわけです。 特定の神仏にすがるわけでもなく、ただ単純に徹夜をすることで寿命縮小を阻まんとした、なんとも一風変わった習わしが古代の中国ではあったわけです。

この三尸説が中国から日本へ伝わると、公卿などの間で「守庚申」と称して真似をする輩が続出しました。宮中では、夜通し和歌を詠みまくったり、楽器をかきならしたり…といった遊びに耽るようになり、もともとの「三尸説」の本来の意味も忘れて、「庚申御遊」としての側面を強めていったようです。やがてこの庚申の日の徹夜でのお遊びは、公卿達から武士達へも広まっていきました。鎌倉時代には武士たちの間で「庚申待(こうしんまち)」と呼ばれる行事が、60日に一度催されるようになりました。これがさらに広く庶民にも受け入れられるようになることで、その徹夜のお遊びを正当化しようとしたのか、礼拝対象としての神仏が登場してきます。「庚申待」が庶民にも広まると、村単位などでその遊びの資金を集めるために寄合ができ、それを「庚申講」と呼びました。御利益にあずかるためには、とにかく一晩中寝てはいけないということで、お茶をガブガブ飲んだり、太鼓を打ち鳴らしたり‥‥と頑張ったらしいです。江戸時代に入る頃になると、その徹夜のお遊びを正当化するため、仏教では帝釈天や青面金剛が盛んに祀られるようになります。現在でも、帝釈天や青面金剛が庚申様や庚申さんと言う呼び方で親しまれているところもあるようですが、これはその名残です。

庚申の日は60日に1度、年に6(多いときは7)訪れます。「庚申待」を3年続ければ18回。これを記念して建てられたものが「庚申塔」です。ほかにも、供養塔として、さらには庚申年の記念として、7庚申年の記念として、庚申講の中でおめでたいことが起こったときの記念として建立されたものもあるようです。いっぽう、道教では「申=猿」というゴロ合わせから、猿田彦神が祀られるようになり、道祖神信仰とも深く結びついていくことになります。道の分岐するところは「分かれ去る」ところ。歴史ある街道の追分(分岐点)の随所に「庚申社」が建てられているのは、このような理由からであると考えられています。また、道教では塞神として祀られていて、通常の神社の簡易版のような位置付けで村境や街道沿いに庚申社が置かれたのではないか‥‥といわれています。

「庚申信仰」というとなにやらオドロオドロしいものを想像してしまうのですが‥調べてみると、なんだか楽しいもののようです(笑)

民家の庭先に題目碑が立っています。この題目碑(題目塔とも)は、日蓮宗の題目である「南無妙法蓮華経」と刻まれた、鎮魂を目的とする供養塔のことで、日蓮宗の盛んな地域でよく見られます。日蓮宗では法華経に帰依する意味で「南無妙法蓮華経」という題目を唱えると、その功徳によって成仏するといわれており、この題目を紙にして本尊としたり、石塔に刻んで寺や村々の辻などに立てていたりしています。
牧之原と呼ばれる集落の中を進みます。この牧之原集落も長屋門や土蔵を構えた大きな民家が建ち並び、旧甲州街道沿いらしく、静かで落ち着いた佇まいを漂わせています。
こちらは長坂勘三郎顕彰碑。碑文によると、長坂勘三郎氏は明治6(1873)、牧之原において父園兵衛の長男として生まれました。明治28(1895)、山梨県師範学校卒業、北都留郡葛野尋常小学校訓導兼校長となり、明治42(1909)、中巨摩郡視学を歴任しました。大正13(1924)、北巨摩郡勢一斑を編纂、退職後は郷里において昭和17(1942)、武川村長、同農業会長となり、昭和20(1945)まで務めました。この間、長坂桂国の号をもって俳句も、精力的に雲母に投句するなど活躍しました。特に書道には長じ雅号を武郷と称しその筆跡を残しているのだそうです。昭和24(1949)77歳をもって逝去されました。全国区で有名な方ではないのですが、この武川村においては多大な貢献を果たされた方のようです。昨日、上円井集落のところで初めて知った日本三大堰の1つ「徳島堰」と用水路を完成させた徳島兵左衛門もそうですが、顕彰碑やその土地に残された伝承から、往時のその土地の様子を窺い知るのも、旧街道歩きの楽しみの1つです。歴史は教科書に載っているような全国区の武将や偉人の歴史だけでなく、名もなき庶民の歴史というものがあり、実はそちらのほうが圧倒的大多数ですから。歴史の真実を知るには、この庶民の歴史にも関心を持たなければいけない…と私は思っています。
一瞬、国道20号線に合流するのですが、すぐに右側の脇道のほうに入っていきます。こちらが旧甲州街道です。
旧甲州街道はこの先で釜無川の支流である大武川を渡るのですが、現在、この先には橋が架かっていないので、左折してすぐ上流側に架かっている大武川橋を渡ります。路地のようになっているこの細い道が旧甲州街道です。
大武川橋で大武川を渡ります。この大武川も釜無川の支流で、このすぐ下流で釜無川と合流します。昨日、小武川橋で小武川を渡ったのですが、同じ武川でも小武川が鳳凰三山を源にしているのに対して、この大武川は甲斐駒ケ岳を源にしています。
大武川橋の上から、水源である甲斐駒ケ岳、さらには鳳凰三山の方向を眺めたのですが、残念ながら山頂付近までは確認することができませんでした。


……(その6)に続きます。




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