2019年7月25日木曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その4)

穴山橋を渡り切ったところで、釜無川に沿うように右折します。ここで国道20号線から右に分岐する脇道に入ります。その分岐点に「甲州街道旧道 入口」の標識が掲げられています。ここから500メートルほど行ったところに築200年の古民家を活用した民宿と貸しギャラリーがあるようです。
国道20号線の脇道を進みます。穴山橋を渡ったあたりからまたポツポツと雨が降ってきたので、レインコートの上着を着用します。レインコートを着用すると中は蒸して暑いので私は嫌いなのですが、雨なので仕方ありません。
民家の庭先に植えられた草花がカラフルに咲いていて、癒されます。
旧甲州街道に入ると静かな佇まいとなり 、なまこ壁の土塀の民家があったり、土蔵のある民家があったりと、「旧街道を歩いている」 という雰囲気が味わえます。等高線をなぞるとでも言いますか、そのあたりの最も標高の高いところを選んで道が作られたため、微妙なS字カーブを描いているところも旧街道らしいところです。このあたりは円野(つぶらの)という集落です。
うっかりして写真を撮影するのを忘れてしまいましたが、進行方向左側に「徳翁のおはかみち」と刻まれた小さな石碑が立っていて、そこから入る路地の奥に墓所があります。徳翁とは日本三大堰の1つと言われる徳島堰と用水路を完成させた徳島兵左衛門のことです。徳島堰は寛文5(1665)から寛文11(1671)にかけてこのあたりに作られた堰のことです。甲府盆地を流れる釜無川の西側一帯は、火山灰が堆積してできた水捌けの極めて良い扇状地であったため、土地が渇き、田畑の水が十分に得られず、開発が遅れていました。この土地に灌漑用水路を引いて新田を開発しようと思いついたのが、江戸の町人であった徳島兵左衛門でした。江戸から上円井(かみつぶらいむら:現在の韮崎市円野町上円井)に移住した兵左衛門は、用水路の図面を引き、私財を投げうち、上円井から鰍沢(山梨県南巨摩郡富士川町)まで約28kmにわたって幅3.6メートルの用水路を作ることに着手しました。この計画は工事途中に甲府藩の干渉を受けて中断したのですが、その後、甲府藩もこの用水路の必要性に気づいて甲府藩が工事を引き継ぎ完成させました。江戸幕府は兵左衛門の功績を顕彰し、この用水路を「徳島堰」と命名しました。この用水路は350年を経た今も使われているそうです。このあたり一帯の広々とした水田はこの徳島兵左衛門と彼が開削を手掛けた徳島堰によるものなのですね。振り返って、写真をパチリ!
ちなみに、日本三大堰とは、この徳島堰のほかに、福岡県柳川市にある城濠から有明海に注ぐ灌漑用水路「柳川堰」、静岡県東部で芦ノ湖と黄瀬川を結ぶ灌漑用水路「箱根堰」を指します。

おおっ! これが甲州街道旧道入口のところに書かれていた築200年の古民家を活用した民宿と貸しギャラリーですね。なかなか立派な建物です。このあたりは緩い登り坂になっていて、道路の両側からサラサラという涼やかな水の音が聞こえます。
この築200年の古民家だけでなく、このあたりには立派な門構えの家や、土蔵を構えた家が幾つも建ち並んでいます。この円野は宿場ではないものの、甲州街道の間宿(あいのしゅく)だったところです。間宿とは、江戸時代の旧街道において宿場と宿場の間にあって、旅人を休息させた施設のことです。宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、需要に応える形で旅人への便宜を図る施設が自然発生的に興るもので、そのようにして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間宿」でした。ただし、宿場としては非公認の施設であって、公式には宿ではなく、村もしくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていました。そのため、旅籠は存在しませんし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場も表向きは設けられていませんでした。韮崎宿と次の台ケ原宿までの間は4(16km)と旧甲州街道で最も長い宿間距離の区間でしたので、その途中にあるこの円野村が間宿の機能を果たしていたようです。
その証拠がこれです。なまこ壁の土蔵を有した立派な長屋門を持つ大きな民家の中を覗かせていただくと、中の庭に「明治天皇圓野御小休所跡」と刻まれた石碑が立っています。この内藤家は間宿であった円野村で本陣の機能を果たしていた豪農で、明治13(1880)の明治天皇の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際に、明治天皇はこの内藤家で休憩を取られました。現在は長屋門と明治天皇の御座所だけが残っています。
往時の雰囲気が色濃く残る円野村上円井の街並みを進みます。円野は宿場ではないのですが、集落のはずれは道路が枡形になっています。まずは左に曲がり、次に国道20号線と合流する地点で右に曲がります。
その合流地点に秋葉山常夜燈が立っています。
ここから200メートルほどは国道20号線の歩道を歩くのですが、旧甲州街道は必ずしも現在の国道20号線のようにほぼ直線で伸びていたわけではありません。そのあたりで一番高いところをほぼ等高線に沿うような形で伸びていました。そのため、右へ左へ微妙な曲線を描くように伸びていたわけで、その痕跡がここに残っています。バス停の先の自動販売機が立ち並んでいるところに半円形の土地があるのですが、実はこれが旧甲州街道の跡です。このように旧甲州街道は現在の国道20号線を左右に縫うように緩やかな蛇行を繰り返しながら伸びていました。
ビワ(枇杷)の木です。私の故郷四国では今がビワの旬の時期なのですが、ここ甲州ではまだまだこれからのようです。このビワの木は民家の庭木で、農業として栽培されているものではないようです。
「鳳凰三山 登山口」の標識が出ています。鳳凰三山は南アルプス北東部にある地蔵岳(標高2,764メートル)・観音岳(標高2,841メートル)・薬師岳(2,780メートル)という3つの山の総称です。南アルプスの主脈からは離れており、山がある支脈は甲斐駒ヶ岳から始まり、アサヨ峰、高嶺、鳳凰三山へと続いています。鳳凰三山の山頂部は3山とも森林限界より上にあるため眺めがよく、天気が良ければ、北岳、仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳、富士山などが眺められ、また、鳳凰三山の東には視界を遮る高い山はなく甲府盆地が一望できるため、非常に開放感の高い山で、登山客に人気の山です。茶色っぽい色の山が多い南アルプスの中で、甲斐駒ヶ岳とともに例外的に花崗岩の白い山肌となっているのも特徴です。晴れていればここからはその鳳凰三山の山容が楽しめるのですが、あいにくの雨空で見ることができません。
小武川橋で小武川を渡ります。小武川は鳳凰三山を源とする釜無川の支流です。実に綺麗な清流です。渓流釣りの名所として、知る人ぞ知る川なのだそうです。小武川はこの小武川橋の先で釜無川に合流します。
小武川橋を渡ったところで北杜市に入ります。北杜市は山梨県内の自治体として最北端に位置する自治体です。平成16(2004)と平成18(2006)のいわゆる「平成の大合併」により、山梨県北巨摩郡に所属する小淵沢町・長坂町・高根町・大泉村・白州町・武川村・須玉町・明野村の8町村が合併して生まれました。八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳といった山々に囲まれ、市域のおよそ3分の1が八ヶ岳南麓の冷涼な山岳高原地からなっているため、高原観光によって支えられています。その北杜市のうち、このあたりは旧武川村にあたります。
小武川橋を渡ったところで旧甲州街道は国道20号線から右に分かれ、しばらく北に七里岩に向かって進んだ後、釜無川に沿って道なりに西に進路を変えます。
武川の集落の中を進みます。武川も旧甲州街道沿いの集落らしい面影を残す静かな佇まいの集落です。
黒沢川を黒沢橋で渡ります。この黒沢川も黒沢橋の先で釜無川に合流します。
黒沢橋を渡ったところに馬頭観音をはじめとした石塔石仏群が祀られています。この石塔石仏群のところまで来た時、それまで降っていた小雨があがり、奇跡的に青空が顔を覗かせて、急に明るくなってきました。
武川一里塚跡を示す石柱が立っています。この一里塚には「甲府から六里なので、六里塚とも云う」と刻まれています。甲州街道の正規の一里塚は日本橋が起点なのですが、この一里塚(六里塚)の起点は甲府。これは甲州街道が整備される以前に武田信玄が作らせた一里塚で、武田信玄の本拠であった躑躅ヶ崎館のある甲府府中からの距離で築かれた一里塚です。甲州街道の一里塚は鶴瀬宿のあたりにあった江戸の日本橋から29里目の鶴瀬一里塚以降、この先の台ヶ原宿の近くにある43里目の台ヶ原一里塚まで、ずっとその痕跡が残っておらず、現代では正しい場所の比定ができておりません。この武川のあたりには日本橋を出てから42番目の甲州街道の武川一里塚があったはずなのですが、その痕跡はまったく残っていません。
この日は武川一里塚跡の先の武川町農産物直売センターの駐車場がゴールでした。本当はここから約4km先の台ヶ原宿のすぐ手前まで歩く予定だったのですが、雨の中の歩きということでウォーキングリーダーさん(旅行会社)の判断で4kmほど手前のこの場所でこの日の歩きを打ち切って、その4kmを翌2日目に回すことにしたのでした。
韮崎宿と次の台ケ原宿までの間は4(16km)と旧甲州街道で最も長い宿間距離の区間で、途中、たいした見どころもなく、七里岩と呼ばれる約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊による韮崎岩屑流(溶岩流?)が形成した台地(平坦地)を、西側を流れる釜無川に沿って宿間をただひたすら歩く感じの1日でした。紀行文に書くことも少ないのかなと思って書き始めたのですが、書きだしてみると、それなりに書くことがあるのですね。自分でもちょっと感心しています。

それにしても、中心気圧984ヘクトパスカルの強い勢力の温帯低気圧が接近して、西日本から東日本の広い範囲でどしゃ降りの荒天となった中、ほとんど雨中の街道歩きになってしまいましたが、幸いなことにどしゃ降り(時間雨量換算で20ミリ/時以上)”本降り(同じく5ミリ/時以上)”といった強い雨に見舞われることはなく、ほとんどが時間雨量換算で1ミリ/時以下の小雨か時折1ミリ/時以上5ミリ/時未満の弱い雨の中での歩きでした。「晴れ男のレジェンド」としては引き分けってところでしょうか。雨はたいしたことはなかったのですが、レインコートの中が自分の発する体温で異常に蒸し暑くなり、中に着ていた衣類が汗でグッショリになってしまいました。もっと通気性のよいレインコートが開発されたならば、今後の街道歩き用に購入するのですが…。

下の写真はFacebookの友達が送ってくれたこの日の1525分時点での降雨レーダーのキャプチャー画像です。確かにこの日歩いた周辺だけ、奇跡的に雨雲がかかっていません。おそるべし、南アルプス……です。
2日目はこの武川町農産物直売センターの駐車場をスタートして、台ヶ原宿、教来石宿を経て蔦木宿まで20km弱を歩きます。いよいよ信濃国長野県に足を踏み入れます。低気圧が今夜のうちに日本列島を縦断するように通過するはずなので、2日目は朝から晴れてくれるでしょうか?
この日は15.0km、歩数にして20,508歩、歩きました。

山梨の郷土料理といえばご存知「ほうとう(餺飥)」。この日の夕食ではその「ほうとう」をいただきました。


……(その5)に続きます。

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