2019年3月12日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第9回:江戸城西の丸・二の丸】(その2)

かつてはこの冨士見櫓の前に蓮池御門があり、そこから先が西の丸でした。現在は皇居がある西の丸ですが、当初は蓮池濠で本丸と隔てられたこの西の丸エリアは江戸城の城外でした。徳川家康が関東に入府した頃、今の西の丸の場所は野山で所々に田畑などがあり、天地庵と云う常念仏堂もあったそうです。西の丸にある紅葉山は春には桃・桜・ツツジなどの花が咲き誇り、貴賤を問わず江戸での遊山所になっていました。その後、ここを徳川家康の御隠居所にしようということになり、外構の濠や石垣などが整えられ、屋敷も建てられて「御新城」と呼ばれていたのですが、本丸とは敷地は別になっていて、紅葉山下通りを半蔵門の方へ抜けることができ、紅葉山は引き続き一般庶民の慰み所になっていました。しかし、関ヶ原の戦い後、徳川家康が征夷大将軍となると、徳川家康の御隠居所は御新城ではなく駿府ということになったので、御新城は曲輪の内に組み込まれて、紅葉山下と坂下に門ができて通り抜けができなくなりました。そのため、一般庶民は紅葉山にあった山王社への参詣ができなくなり、江戸庶民が困っているとの話が第2代将軍徳川秀忠の耳に入り、それならばと半蔵御門の外(麹町隼町)の濠端に新たに山王社を建立し、そちらに遷座しました。これが現在の日枝神社です (日枝神社では、江戸三大祭の1つ、山王祭が行われます)

西の丸にも御殿があり、本丸御殿と同じく、表・中奥・大奥と仕切られ、主な部屋をあげれば、遠待・殿上間・虎間・大広間・大廊下・溜間・白木書院・帝鑑の間・連歌歌間・山吹間・菊間・雁間・竹間・芙蓉間・中間・桔梗間・焼火間・躑躅間・柳間・梅竹間・檜間・蘇鉄間などがありました。西の丸の御殿や櫓などは寛永11(1634)、嘉永5(1852)、文久3(1863)3度にわたって大火で焼失しています。明治元年(1868)4月、朝廷に明け渡された当時の御殿の建物は4度目の建築でしたが、明治6(1873)55日に火事で焼失しました。その後、明治21(1888)にここに明治宮殿が建設されました。

この西の丸は元々は将軍の世子(後継者)の居所、また、将軍の御隠居所として使われたところです。この西の丸にも大奥があった理由ですが、将軍の後継者が居住するのが西の丸で、お世継ぎ様には幼少の頃から正室が定められて嫁いでいる場合がありますし、お世継ぎ様が成人に達すれば側室も持ちますので、そうした方々とそのお付き、使用人などで構成された大勢の女性陣の居住エリアを確保する必要があったためです。また、実際には初代将軍徳川家康以外存在しませんが、将軍職を次代に譲って大御所となった場合に、それまでの正室や側室、そしてその使用人などを引き連れて移る場合があったためです。

江戸城の本丸御殿は慶長11(1606)に完成以降、何度も地震や火災により倒壊・焼失し、そのたびに再建されたというのはこれまで書いてきたとおりです。最後に焼失したのは文久3(1863)のことで、それ以降は本丸御殿は再建されずに、機能を仮復旧した西の丸御殿に移したため、現在、本丸御殿跡は広大な芝生の広場になっています。江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、天皇がその奏上を勅許した大政奉還があったのは慶応31014(1867119)のことですから、文久3(1863)というのはその4年前、まさに幕末のことです。

2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』では、宮﨑あおいさん演じる主人公の篤姫(天璋院)が、堀北真希さん演じる和宮(14代将軍徳川家茂の御台所)を助けて、燃え盛る大奥から脱出し、西の丸御殿に入るシーンがありました (今年のNHK大河ドラマ『西郷どん』をはじめ、幕末期を描いたTVドラマ等では、何故かほとんど描かれることはありませんが…)。謹慎中の第15代将軍徳川慶喜から対薩長の戦略を一手に任され、江戸の町が戦場として大火にならないようにと後を託された幕臣・勝海舟と、江戸に進駐してきた新政府軍の総参謀・西郷隆盛が田町の薩摩藩上屋敷(江戸藩邸)において交渉を行い、慶応4(1868)411日、江戸城無血開城を果たした時、江戸城本丸は焼け跡のままで1つの建物も残っておらず、残っていたのは西の丸御殿だけでした。なので、慶応4717(186893)、明治天皇が「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、江戸の地で政務を執ることと、それに伴って江戸を東京とすることを宣言した後、同年1013(新暦1126)1度目の東幸で江戸城に入城してこれを東京城と改称した時も、入城したのは本丸御殿ではなく西の丸御殿でした。

その後、明治12(1879)、太政官による造営令で、明治新宮殿と主要官庁の建設用地の選定が行われたのですが、同年6月に「本丸は新宮殿建設に不適当」と早々に決定されました。調査により周囲が甚だしく壊頽しており、多額の造成費用を要するという結果が出たためです。本丸はもともと低丘地で、周りの濠の開削土で10メートル以上の嵩上げを行い、その周りを石垣で寿司の軍艦巻のように仕上げているためでした。加えて、江戸時代の地震で何度も崩壊した高石垣を積み直した記録も残っていましたから。なので、明治新宮殿は地盤が強固な西の丸に建てられることになり、現在も皇居の宮殿は西の丸にあるわけです。

宮内庁庁舎です。昭和10(1935)に建築された建物で、庁舎3階は,昭和27(1952)に改装され,昭和43(1968)に現在の宮殿が落成されるまでの間は「仮宮殿」として使用されていました。昭和の初期にこの宮内庁庁舎で1度だけ一般参賀が行われました。正面玄関の赤いジュウタンの上の2階の所に平らな屋根がありますが、その一般参賀の際にはそこに天皇皇后両陛下がお立ちなり、お手を振られたとのことです。 


また、昭和天皇がラジオを通じて国民に大東亜戦争の終戦を伝えた「玉音放送」は、終戦前日の昭和20(1945)814日深夜、昭和天皇がこの宮内省庁舎2階の御政務室で読みあげられ、隣室でNHKの技術職員が録音したものです。昭和天皇がマイクに向かって「終戦の詔書」を2回読み上げられ、計2組の玉音盤(レコード)が完成。このうち2回目に録音した方のレコードが翌15日の正午にラジオで放送されました。


改装後の仮宮殿となった昭和27(1952)1110日には、皇太子を正式に天皇の後継者と定める立太子の礼が行われました。当時の日本国民にとって皇太子明仁親王(現在の今上天皇陛下)は復興と希望の象徴であり、翌11日に行われた一般参賀には、合計5回、20万人以上もの国民が皇太子明仁親王を祝福しました。この立太子の礼の一般参賀も皇太子明仁親王がこの現宮内庁庁舎の正面玄関上のバルコニーにお立ちになられて行われました。

さらに、昭和34(1959)410日、皇太子明仁親王と美智子妃殿下(現在の今上天皇陛下と皇后陛下)のご成婚なさった際には、朝見の儀を終えられたお二人がこの現宮内庁庁舎の正面に並んでお立ちになり、記念撮影が行われ、その後、ここから馬車を使った結婚パレードに出られました。そういう昭和の歴史が深く刻まれた宮内庁庁舎です。

現在、宮内庁は皇室関係の国家事務を担う宮内庁長官、侍従長をはじめとする特別職52人、宮内庁次長以下一般職971人の職員で構成されています。

進行方向左手に見えるのは坂下御門です。坂下御門は西の丸の北側入口にあたる門です。西の丸の坂下にあったので、この名がついたといわれています。坂下御門はもともとは高麗門とその左の渡櫓門からなる枡形形式の城門でした。江戸時代には、坂下門橋を渡り、枡形門を抜けて、この緩い坂を登ったところに西の丸御殿(現在は宮殿)がありました。明治の時代に入り、西の丸に皇居が移るとその重要な入口の1つとして使われ、明治18(1885)に高麗門が撤去され、明治20(1887)に渡櫓門のみが角度を90度変えて建て直され、今の形になりました。坂下御門は現在も宮内庁の出入口(通用門)として利用されていますので、警備が厳重です。新年と天皇誕生日の皇居一般参賀の際の出口の1つとして指定されているので、一般人が通れるのはこの機会以外にはありません。


皇居宮殿です。宮殿は日本古来の建築美を活かして造られた建物で、延べ面積24,175平方メートルを誇ります。新年祝賀以下公式の儀式や行事、天皇陛下が日常の政務を行う御座所や儀式の場である「正殿(せいでん)」、天皇誕生日の宴会やその他の皇室主催の儀式の際の饗宴場となる「豊明殿(ほうめいでん)」、国民参賀の時に使用する「長和殿(ちょうわでん)」などの計7つの棟で構成されています。これらの建物群が中庭を取り囲むように配置されています。


明治元年(1868)から明治2(1869)に行われた東京遷都によって、旧江戸城西の丸御殿が皇居となったのですが、明治6(1873)の失火により、西の丸御殿は焼失。直ちに新宮殿造営が政府により上奏されたものの、西南戦争の戦費等の財政負担も大きく、国内整備が先決との明治天皇の意向により、新宮殿造営は見送られました。このため、旧紀州徳川藩江戸上屋敷であった青山御所がしばらくは仮皇居となりました。しかし、青山御所では儀式典礼に支障をきたすようになったため、ようやく宮殿造営が勅許され、新しい宮殿(明治宮殿)が旧江戸城西の丸に建設されました。落成は明治21(1888)107日。落成翌年の明治22(1889)の大日本帝国憲法発布式が行われるなど、明治・大正・昭和の三代にわたり、数々の重要な国家的行事はこの明治宮殿で行われてきました。

明治宮殿は大正12(1923)91日に起きた関東大震災でも、建物の損傷もなく、基礎および建築構造の優秀さを立証しました。しかし、昭和20(1945)525日夜の米軍による大空襲は、皇居南方の霞ヶ関一帯の官庁街を猛火に包み、火災旋風に煽られた火は宮殿に吹き付け、翌26日午前1時すぎ、ついに宮殿より出火しました。宮殿の壮麗な建築群は、次々に焼け落ち約4時間で灰塵と化してしまいました。その後、前述のように皇居内の宮内庁庁舎の一部を改装して仮宮殿としていたのですが、国交回復とともに外国の賓客の往来も増え、宮殿の再建が計画されました。昭和39(1964)629日、新宮殿造営工事の起工式が行われ、昭和43(1968)1114日、新宮殿(現在の宮殿)が落成しました。現在の宮殿の場所には、かつて明治宮殿がありました。


国民による一般参賀の時に使用する「長和殿」です。宮殿で一番長い建物が「長和殿」で、長さが約160メートルあり、中の廊下の長さは約100メートルあります。この場所で、新年12日と天皇誕生日の1223日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央バルコニーにお出ましになり、国民からのお祝いを直接お受けになられます。その際,天皇陛下からのお言葉があります。この日は平成301215日。今上天皇陛下は翌平成31430日に退位なされ、現在の皇太子殿下が次の天皇に即位なさるので、今上天皇陛下の天皇誕生日は8日後の1223日が最後。また、年が明けて新年12日は今上天皇陛下による最後の一般参賀。私もその一般参賀に行きたい気持ちはやまやまなのですが、例年以上の人出が予想されるため、さて、どうしよう……。長和殿の前の広場では、その一般参賀の準備が行われていました。


その長和殿の前の広場が「宮殿東庭」で、広さが約4,500坪あり、新年12日と天皇誕生日の1223日の一般参賀などの多い時には約2万人が一度に参賀できます。足元の石畳は由良石と言われ、香川県高松市由良町で採石されている安山岩が使用されています。この由良石は石質が柔らかく加工しやすいうえ、降った雨水がたちどころに吸収されて水溜りができにくく(水捌けが極めて良い)滑らないという足に優しい石なのだそうで、昭和天皇が足に優しい石をと指定したことで選ばれたのだそうです。へえ~~、知らなんだ。また、宮殿東庭の石畳の下は駐車場になっており、約120台の乗用車が収容できます。

右側にある大きな塔は、「松の塔」と言われ、葉と葉の間から光が灯すように作られた照明塔です。先端にある輪は、“ふしろ”という古代婦人の腕輪を模(かたど)ったものです。照明灯なので夜には灯りがともるわけで、夜に灯りがともったところも見てみたいところですが、一般の人はその時間にここへは入れません。


新年12日と天皇誕生日の1223日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方がお出ましになり、国民からのお祝いを直接お受けになられる中央バルコニーがこれです。TVの映像や報道写真を見ると建物の3階や4階といったちょっと高いところから日の丸の小旗が振られる広場に向けてご挨拶されておられるような印象を受けるのですが、実際に長和殿のバルコニーを観ると、思いのほか低いことに驚きます。喩えて言うと、一般の住宅の2階の窓から見下ろすよりも低い位置です。宮殿東庭の石畳の上に立って手を振る一般の参賀者の側からすると、すぐ目の前に天皇皇后両陛下と皇族方がお出ましになる…って感じで、「エッ⁉︎ こんなに近くていいの? 大丈夫なの?」と思ってしまうほどです。もっとも、運良く大群衆の中、最前列付近にまで進めた方々に限られますが。ちなみに、長和殿のバルコニーは分厚い防弾ガラスになっているのだそうです。


長和殿前には幅2メートルほどの寒椿と山茶花の植え込みがあり、その脇にある黄色い灯篭は有田焼で11基あり、照明塔として利用されています。

長和殿の左側にある大きな玄関は「宮殿の表玄関南車寄せ」で、各国の大統領や大使など外国の国賓など主賓の方が利用される玄関です。ここまで車で乗りつけた諸外国からの国賓御夫妻がこの玄関で車を降り、赤絨毯がひかれたこの玄関の上で天皇皇后両陛下の歓迎を受けるところをテレビや新聞の報道で目にします。


「長和殿」の左奥は「宮殿の南庭」と呼ばれ、広い地形と芝生を利用した日本庭園になっています。刈り込みの下は小川が流れていて、流れを主とした庭なのだそうです。小山のように見える二つの刈り込みは「南庭の大刈り込み」と呼ばれ、いろいろな樹木が合わさって出来た刈り込みです。大変大きなもので高いところでは6メートルもあるそうです。この刈り込みは職人が樹木の下に入り込んで、すべて手バサミで刈り込みをしているのだそうです。まさに職人の技ですね。


「宮殿東庭」を過ぎて、中門の跡を過ぎて皇居正門の方に向かうと鉄製の橋があります。「正門内鉄橋(てつばし)」で、かつてはこの橋のことを「二重橋」と呼んでいました。この橋はかつては慶長19(1614)に建造された江戸城「西の丸下乗橋(別名;月見橋)」という青銅製の擬宝珠の欄干の付いた木製の橋でした。その西の丸下乗橋は濠が大変に深いために、橋桁を上下2重に組んで橋の上に橋を作るような二重構造をしていました。それで通称「二重橋」と呼ばれていましたが、明治17(1885)から明治22(1890)にかけての皇居御造営(明治宮殿造営)に際して掛け替えられ、現在は鉄製の橋になりましたので2重構造ではなくなり、「正門内鉄橋」が正式名称になりました。現在の鉄橋は、昭和の新宮殿造営(竣工・昭和43)に先立ち架け替えられたものですが、明治21(1889)の明治宮殿造営にあたり架け替えられた錬鉄製の橋の意匠などをほぼそのまま踏襲したものになっています。


正門内鉄橋の上から日比谷(皇居前広場)方向を眺めると、眼下に石で造られた「正門外石橋(いしばし)」と皇居正門が見えます。


皇居正門は江戸時代には「西の丸大手門」と呼ばれていました。明治21(1888)の明治宮殿造営の際、高麗門を撤去し、名称も皇居正門と改めました。皇居正門(かつての江戸城の「西の丸大手門」)はふだんは閉じられ、皇宮警察の皇宮護衛官の儀仗隊が常時警護を行っており、通常一般人は通ることはできません。天皇の即位大礼、天皇、皇后、皇太后の大葬儀など特別な行事のある時や国賓来訪の際にのみ使用されます。また、新年や天皇誕生日の皇居一般参賀の時には正門が開放されます。

皇居正門の手前の「正門外石橋」はもともと江戸城の「西の丸大手橋」があった位置に架かっていて、現在の石橋は明治宮殿が竣工する前年の明治20(1888)12月に建造されたものです。石造りの二重アーチ橋で、花崗岩が使用され、照明灯や高欄を含め、西洋建築の意匠が採用されています。二重アーチ構造であることから俗称で「眼鏡橋」とも言い、「この石橋が二重橋である」と誤認されることが多いのですが、前述のようにそれは間違いです。

外から宮殿に向かう際には、皇居前広場→正門外石橋→正門→正門内鉄橋→中門→宮殿東庭(新宮殿前広場)→宮殿(長和殿)というルートをたどることになります。一般参賀で渡ることができるのは「正門内鉄橋」のみで、ここで私達もここで折り返します。


正門内鉄橋の奥に見えるのが伏見櫓(伏見二重櫓)です。現在の伏見櫓は関東大震災の際に一度倒壊したため、解体して復元されたものです。この伏見櫓は皇居(江戸城)で最も美しい櫓であると言われていて、別名「月見櫓」とも呼ばれています。高さは13.4メートル。この伏見櫓は、皇居前広場から見ると、手前にある「正門外石橋」「正門内鉄橋」という2つの橋とともに皇居の代表的な見所になっています。学校の修学旅行ではここを背景に記念写真を撮ることが多いので、ご存知の方も多いと思います。


二重の櫓の両袖に多聞櫓(防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの建物)を備えておりますが、このような形の櫓は、江戸城ではここだけしか残っていません。なお、多聞櫓は、永禄元年(1559)に、戦国武将の松永久秀が築いた大和国(奈良県)の多聞城の櫓が始まりとされています。江戸城には、かつては19もの櫓が存在しましたが、現在では、この伏見櫓とこの後で行く桜田巽櫓、富士見櫓の3基を残すだけです。この伏見櫓は石垣も含めてとても堅牢にできているため、関東大震災で一度倒壊したと書きましたが、大きく崩れることはなく、その後、元どおりに復元されました。

伏見櫓の名前の由来としては、第3代将軍・徳川家光が豊臣秀吉が京都伏見に築いた伏見城の櫓を移築したからだという説があります。その説によると、伏見城は慶長3(1603)に徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けたところで、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行ったという徳川将軍家に大変にゆかりの深い城で、慶長20(1615)に江戸幕府が制定した一国一城令により伏見城と二条城の2つの城があった山城国では二条城を残し伏見城を廃城することが決まったのですが、そうした徳川将軍家にゆかりの深い城の一部、櫓だけでも残そうと、江戸城に移築したとのだそうです。非常にもっともらしい説ではあるのですが、残念ながら憶測の域を出ないのだそうです。


……(その3)に続きます。




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