2019年3月11日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第9回:江戸城西の丸・二の丸】(その1)


1215()、『江戸城外濠内濠全周ウォーク』の最終回第9回に参加してきました。『江戸城外濠内濠全周ウォーク』の最終回で訪れるところは『皇居』。現在の皇居はかつての江戸城西の丸です。


東京のド真ん中にあり、馴染みがあるようで、馴染みのない場所、『皇居』。一般人にとって新年12日と天皇誕生日の1223日の年2回行われる一般参賀の時以外、滅多なことでは足を踏み入れることなどできない特別なところと思いがちなのですが、実は平日でも訪れることができるのです。それが「皇居一般参観」。「皇居の一般参観」には午前の部と午後の部があり、それぞれ事前申し込み200名、当日受付300名の計500名が参観できるのです。当初は事前申請が必要だった「皇居一般参観」ですが、平成28(2016)625日からは当日受付もOKになっています。それも期間限定のイベントではなく、基本的に通年参観できます。


「皇居一般参観」の集合場所は内桜田御門(桔梗門)の前です。私達は旅行会社が事前申し込みをしてくれているので、集合時刻にここに集合すればよかったのですが、当日受付の方はここで参観整理券の配布を受けます。


「皇居一般参観」の午前の部は午前10時からです(午後の部は13時からです。ちなみに、整理券の配布はその1時間前からのようです)。午前10時に内桜田御門(桔梗門)の守衛の方(皇宮警察?)から案内があって、いよいよ入場です。入場にあたっては運転免許証などの身分証明書の提示が必要です。私も運転免許証を見せて、認識票の付いたストラップをもらい、内桜田御門(桔梗門)の高麗門をくぐります。


この内桜田御門(桔梗御門)は、江戸時代には1万石から10万石の禄高も低いその他大勢の小大名や直参旗本の登城口でした。私達も小大名や直参旗本の気分になって内桜田御門(桔梗御門)をくぐります。最初の高麗門をくぐった先は枡形になっていて、その枡形を右に曲がって、今度は渡櫓門をくぐります。かつてこの渡櫓門を抜けたところには大番所が設けられ、内桜田御門(桔梗門)を潜ってきた者のチェックが行われていたのですが、今でもここで荷物チェックを受け、まずは今回参加の500名全員が窓明館(そうめいかん)なるホールに一堂に集められます。さすがに皇居です。厳重な警戒態勢が敷かれています。


この窓明館は広い講堂みたいなところで、昭和61(1986)から皇居参観の出発前の参観者の休憩所として使われています。前から順番に座って、係員(皇宮警察の職員)からの参観に関する説明を待ちます。その間に、館内左手奥にある売店で皇居参観記念の記念品が購入することができます。多くが天皇および皇室を表すシンボルであるある十六八重表菊(いわゆる菊の御紋章”)の入った記念品で、ここでしか購入できないというレアな記念品も数多くあり、わざわざそうしたレアな記念品を購入することだけが主目的で、皇居の一般参観に参加する人もいらっしゃるのだそうです。私も松山に住む母へのお土産のために、菊の御紋章に形をした和三盆(わさんぼん)を購入しました。ちなみに、和三盆は主に香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている砂糖の一種です。


参観前に、皇居に関するビデオを観たりガイドさん(皇宮警察の職員)の説明をお聞きします。説明は日本語のほか、英語と中国語でも行われます。この日午前の回の参観者約500名のうち、日本人と欧米人と中国人の割合はざっと見回したところほぼ221。すなわち、日本人約200名、欧米人約200名、中国人や台湾人、韓国人を含む東アジアの方々が約100名と言ったところでしょうか。圧倒的に海外からの観光客が多いことに驚かされます。

今年、平成31(2019)は皇紀、すなわち初代の神武天皇が即位してから2679年。現在、同君連合による重複(イギリス連邦加盟国のうち、カナダ、オーストラリアなど15ヶ国がイギリス国王を元首とする立憲君主制を採っている)を除き世界の独立国家には27の王室が存在しているのですが、この2679年というのは、日本の天皇家が現存する世界の王室の中で最も長い歴史を持つ王室であるということを意味します。こういうことを海外からの観光客は私達日本人以上によく分かっていて、一種の憧れの目で日本の天皇家のことを見ているってことなのかもしれません。外国人用に音声ガイドの貸し出しもあり、パンフレットは、日本語、英語、中国語、韓国語に対応しているものが用意されています。

ガイドさん(皇宮警察の職員)からの説明をお聞きした後、窓明館前の広場に集合し、50名ほどの集団ごとに4列くらいになって参観の開始です。最初に欧米人(英語でのガイドが必要な方々)、次に中国人(中国語でのガイドが必要な方々)と出発していき、その後に私達日本人の参観客が出発していきます。ちなみに、コースの途中にはトイレはありませんので、必ずここでトイレを済ましておくこと必要があります。「皇居一般参観」のコースは約2.2km、約1時間の行程です。この2.2kmの参観コースには坂道も多々あるので、車いすや手押し車などは貸してくれるそうです。


窓明館の前にある三角屋根が印象的な建物が元枢密院庁舎です。枢密院は、明治21(1888)に憲法草案審議を行うため、枢密院官制及枢密院事務規程に基づいて創設され、翌明治22(1889)に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた組織です。憲法問題も扱ったため「憲法の番人」とも呼ばれました。枢密顧問により組織され、初代議長は、伊藤博文でした。国政に隠然たる権勢を誇り、政党政治の時代にあっても、藩閥・官僚制政治の牙城をなしていたのですが、昭和6(1931)の満州事変以後、軍部の台頭とともにその影響力は低下。日本国憲法施行により、昭和22(1947)に廃止されました。建物は大正10(1921)に建てられたもので、帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)のモデルになったといわれています。戦後は最高裁判所庁舎や皇宮警察本部庁舎として使用された後、一時期は使われなくなり無人の建物となりましたが、平成25(2013)春に大改修され、現在は皇宮警察本部庁舎として使用されています。

この皇宮警察本部庁舎前の道路は大手御門から入ってすぐの「大手三ノ御門(下乗門)」に繋がっていて、内桜田御門(桔梗門)から登城してきた10万石以下の小大名や直参旗本達はここを通って本丸に向かい、大手御門から登城してきた徳川御三家をはじめ禄高10万石以上の大大名達と合流して、本丸に登城していました。

内桜田御門(桔梗門)の石垣には、石の切り出しや運搬に携わった藩の刻印が刻まれています。


この「丸に十の字」は薩摩藩ですね。


現在は埋め立てられていますが、内桜田御門(桔梗御門)より先はかつては濠(蛤濠)になっていて、ここには橋も架かっていませんでした。なので、内桜田御門(桔梗御門)を通って登城してきた登城してきた10万石以下の小大名や直参旗本達は現在の皇宮警察本部庁舎前の道路を通って「大手三ノ御門(下乗門)」に向かったというわけです。


突き当りが江戸城本丸になっていて、右へ曲がると「百人番所」が控える「中の御門」に出ます。私達は突き当りを左に曲がって、皇居宮殿のある西の丸を目指します。


富士見櫓です。この富士見櫓には前回【第8回】で本丸側から間近で観たのですが、あいにくの逆光で、その美しさがイマイチよく分からなかったのですが、この日は順光。冬の澄みきった青空をバックにその端正のとれた威風堂々たる姿がよく分かります。これは皇居の一般参観に来ないと見えない光景です。


この富士見櫓は江戸城のほぼ中央、江戸城本丸東南隅に位置し、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓です。明暦3(1657)の明暦の大火で天守(寛永天守)が焼失した後に、天守閣の代わりとして使用された三重櫓です。「櫓(やぐら)」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。現在は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っているだけです。その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。明暦の大火で消失した後、江戸城の天守閣は再建されず、この富士見櫓が天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。


初代のものは慶長11(1606)、本丸造営工事の際に建てられました。現存する三重櫓は、明暦3(1657)の明暦の大火での焼失後、万治2(1659)に再建されたものです。どの角度から見ても同じような形に見えることから、「八方正面の櫓」の別名がありました。天守閣焼失後には天守の役目を果たしたことから、「代用天守の櫓」ともいわれています。前の濠は江戸城本丸と西の丸を隔てる「蓮池濠」です。


富士見櫓の上からは、その名の通り富士山をはじめ、秩父連山や筑波山、江戸湾(品川沖など=現在の東京港)が見え、さらには将軍は両国の花火などをこの富士見櫓から眺望したと言われています。富士見櫓が建つ場所は、天守台(標高30メートルほど)についで高い場所(標高23メートルほど)に位置し、眺望的には江戸城のなかでも一等地で、徳川家康の江戸城築城以前、太田道潅の築城した望楼式の「静勝軒」があったのは、この富士見櫓の場所ではないかと推定されています。
「わが庵は 松原つづき海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」
という歌を太田道灌が残しているからです。まさにその歌にぴったりのところです。

富士見櫓の石垣は主に伊豆半島から運ばれてきた安山岩を野面積み(のづらづみ=自然石をそのまま積み上げた石垣)の手法で積み上げたもので、シンプルながら関東大震災でも崩れなかった堅牢さを誇り、城造りの名手と謳われた加藤清正による普請と推測されています。石垣上には、石落し仕掛けが設けられています。その南側の櫓の屋根が描く曲線はとても優美で、見られることを強く意識したデザインになっています。石垣の高さは14.5メートル、櫓の高さは15.5メートル。櫓は大正12(1923)の関東大震災で損壊しましたが、大正14(1925)に主要部材に旧材を用いて補修されています。

江戸時代中期以降、お茶壺道中(幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運んだ行事)で運ばれてきた宇治茶はこの富士見櫓に収められました。また、幕末の慶応4(1868)、幕府軍(上野彰義隊)との戦いで新政府軍の指揮官・大村益次郎は、この富士見櫓から上野寛永寺の堂塔が炎上するのを見て勝利を確信したといわれています。

明治4(1872)、明治新政府は本初子午線の基準を京の改暦から東京の富士見櫓に移し(その後、明治19年に国際基準のグリニッジ子午線を採用)、明治5(1873)、工部省測量司が開始した三角測量の三角点を東京府内13ヶ所の最初にこの富士見櫓に設置しました。


……(その2)に続きます。




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