2019年1月22日火曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その16)

私達が下船した堀川めぐり遊覧船の大手前広場乗船場です。さすがに「水の都・松江」です。多くの観光客が乗下船しています。


この日の昼食はJR松江駅にほど近い『松江 和らく』で懐石料理をいただきました。さすがに著名な茶人でグルメだった不昧公こと松平治郷が第7代藩主を務めた松江です。市内には地元の食材をふんだんに使った懐石料理を楽しめるお店が幾つもあります。この『松江 和らく』もその1つで、シジミやシラウオ、ヨシエビなど宍道湖で獲れる魚介類を中心としたお料理は大変に美味しかったです。



 昼食が終わると、楽しかった2日間の『大人の修学旅行2018in出雲松江』もお終い。『大人の修学旅行」のツアー旗が今回の幹事だった地元香川県在住組のウスキから、次回幹事の関西在住組のヨシキとモトムにバトンタッチされ、JR松江駅前で解散ということになりました。



ここからは来た時と同様、各自めいめいのルートで家路につくことになります。出雲縁結び空港から空路帰宅するココさん、マリコさん、イッカク、ショウチャン。松江在住の大学時代の友人に会ってから深夜高速バスで東京に帰るユウテン、自家用車で岡山へ帰るテッチャン、延泊してさらに山陰旅行を楽しむモトム、テルジ、米子空港から東京へ帰るレンシンとはこのJR松江駅前で別れ、私は鉄路岡山へ向かう地元香川県在住組のウスキ、シンショー、ケンポ、ノリコさん、キョウコさん、関西在住組のバンタロー、ヨシキ、オネエと一緒に1459分松江駅発の岡山駅行き「特急やくも22号」に乗ることにしました。本当はせっかく滅多に来れない山陰地方まで来たので、延泊して、もうちょっと山陰地方の旅を楽しみたかったのですが、翌123()には気象ビジネス推進コンソーシアム(WXBC)の大阪セミナーがあり、そこで開会のご挨拶と基調講演を行わないといけないため、後ろ髪を引かれる思いで松江を後にして、大阪に向かうことにしました。

JR松江駅前では次回第11回、九州・由布院での再会を約束してお互いに硬い握手を交わしてそれぞれの帰路につきました。


特急やくも22号では地元香川県在住組と関西在住組は別々の指定席車両を事前に固まって予約していたのですが、私は運良く香川県在住組と同じ車両、それも通路を挟んで隣の席を確保することができました。

隣の席とは言っても、他の乗客の皆さんもいらっしゃるので、大声では騒げませんので、小声での会話。そうこうするうち、皆さん、昨夜の大騒ぎで睡眠不足なのか、エッチラオッチラ船を漕ぎ出しました。私もさすがに眠いです。


1527分に米子駅を出ると伯耆大山駅から伯備線に入ります。生山(しょうやま)駅に停車。ここから先は中国山地越えの山岳区間で急勾配や急カーブの区間が続きます。特急やくも22号に使用されている車両も振り子式の車体構造を持つ381系直流特急形電車です。前にも書きましたように、伯備線は中国地方の山陽(瀬戸内海側)と山陰(日本海側)を高い山々が折り重なるようにして続く中国山地の中を縫うようにして延びる陰陽連絡線の1つで、地形上の問題から急勾配や急カーブが多く、出力の増大によるスピードアップには限界がありました。そこで当時の国鉄が曲線通過速度を向上させることを目標に開発したのが振り子式のこの381系直流特急形電車で、その性能を遺憾なく発揮し、そうした山岳区間をものともせずに走り続けます。生山駅を発車したのが1609分。冬至も近く日暮れが早くなっているのと、山間の区間を走行するため車窓の風景を楽しむというわけにはいきません。

1636分、新見駅に到着。新見駅は中国地方中央部の主要駅の1つで、この伯備線と姫路へ延びる姫新線、さらには広島へと延びる芸備線(線路名称上の起点は備中神代駅)の分岐駅です。ここから先は岡山県です。現存12天守の1つ高梁城(備中松山城)のある備中高梁駅、白壁の町並みが残る美観地区が有名な倉敷駅と停車し、定刻から2分遅れの1740分に終点の岡山駅に到着しました。瀬戸大橋線の高松行き快速マリンライナーの発車は1742分なので、それに乗らなくてはならない地元香川県在住組の皆さんは、到着するなり特急やくも22号が到着した2番ホームから快速マリンライナーの出る6番ホームへ脱兎のごとく駆けていきました。

1011日の国内キャラバン出張の途中の私は大きなスーツケースを携えているので、そういう彼等を車内から見送り、一番最後に車両から降りました。同じ特急やくも22号で岡山に降りたはずの関西在住組ともはぐれ、1人、山陽新幹線の上り新大阪・東京方面のホームに向かいました。まぁ〜、この日のうちに大阪に着けばいいので、慌てません。



 1803分岡山駅発の九州新幹線さくら562(鹿児島中央駅始発)に乗って新大阪駅に向かいました。さくら562号は定刻の1848分、終着の新大阪駅に到着。まずは夕飯ということで、新大阪駅のコンコース内にあるフードコートでお好み焼きをいただきました。私は大阪にやって来るたびに、決まってお好み焼きをいただくようにしています。この日、注文したのはネギ焼き。このネギ焼き、私のイチオシです。お好み焼きといえば広島のお好み焼きが一番だと思っていますが、粉もん文化の中心地・大阪のお好み焼きも捨てがたいんですよね。大好物です。



お好み焼きで腹ごしらえした後、大阪での私の定宿である梅田の新阪急ホテルアネックスにチェックインしました。

私は大阪にやって来ると必ず訪れる“私の中での聖地”があります。熱烈阪神タイガースファンの私の“聖地”と言っても阪神甲子園球場ではありません。それは『阪急電鉄梅田駅』です。


 今から25年前、平成7(1995)の「阪神・淡路大震災」が起こる2年前の平成5(1993)、この日本の私鉄最大のターミナル駅「阪急梅田駅」の3階メインコンコースに「ラガールビジョン」と呼ばれる旅客案内表示装置が3基設置されていました。フルカラー液晶パネルとプラスチック光ファイバーを組み合わせたフルカラー・フルフラット・大画面ディスプレイで、設計開発したのは不肖私です。まだ、フルカラーLEDが実用化される前のことで、私が中心となって開発したこの「光ファイバースクリーン方式ディスプレイ」は世の中の注目を大いに集めたものです。(下の写真は今から25年前、3基目の神戸線用ラガールビジョンを設置し終えた時の記念写真で、後列右端が私です。)



この「ラガールビジョン」の成功によって私個人も世の中の注目を集めたようなところがあります。加えて、それまで中央省庁の案件ばかり担当していた私が初めて担当した民間のお客様が阪急電鉄様。いきなり関西の老舗企業でした。その阪急電鉄様との各種折衝を通して私の営業センスは鍛えられたようなところが多分にあります。なので、阪急梅田駅は私にとっての最大の“聖地”なのです。今があるのも阪急梅田駅の「ラガールビジョン」の仕事をやらせていただいたからだと感謝しております。

なので、今も私が大阪で定宿にしているのは梅田にある新阪急ホテルアネックスなのです。このホテルの客室の窓からは梅田駅に次々と発着する阪急電車の様子が見えますからね。鉄ちゃんとしては、梅田駅に次々と発着する阪急電車の光景に癒されます。

スマホのラインには参加した皆さんが自宅に帰り着いた旨を知らせるメールが次々と飛び込んで来ます。2120分には一番遠方の青森から参加のココさんが、羽田空港トランジットで空路青森の自宅に帰り着いたというメールが入りました。青森の気温は2.5℃だそうです。冬ですね。

天気予報を見ると、西日本地方は翌日から天気が崩れて雨になる予報が出ています。『晴れ男のレジェンド』は今回も健在でした。幹事団の皆様、大変お世話になりました。参加した皆さん、皆さんとのひと時が私の元気の源です。ありがとうございました。1011日のキャラバン出張(旅?)も前半の5泊が終わり、これから後半の56日に入ります。エッちゃんモードから平常運転のお仕事モードに切り替え、大阪福岡広島埼玉と移動して、もう一仕事やってきまぁ〜す。まず最初の仕事は大阪での講演なので、私のネクタイピンは阪急電車にしました。


次回第11回の『大人の修学旅行』の開催地は九州大分の由布院(湯布院)です。由布院と言えばなんと言っても温泉。古くから神の山と崇められ豊後富士といわれ親しまれている名峰・由布岳の雄大な眺望も楽しみですし、食も大分特産豊後牛、お酒は大分特産の麦焼酎とあり、今から楽しみです。


  
――――――――〔完結〕――――――――

2019年1月21日月曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その15)

松江城天守を出て、松江護国神社を左手に見ながら北の丸を北方向に歩きます。


さすがに12月。紅葉が残る中に、サザンカ(山茶花)も咲いています。気持ちいい散策です。


松江城を出て、内堀を稲荷橋、そして新橋で渡ります。稲荷橋はこの右手に松江城山稲荷神社があることから名づけられた橋です。この稲荷橋と新橋は私達が「堀川めぐり遊覧船」で最初にくぐった2つの橋で、私達が乗船した「ふれあい広場乗船場」はこの右手にあります。


松江城の北、内堀に沿ったこのあたり一帯は「塩見縄手」と呼ばれ、松江開府の祖・堀尾吉晴が慶長12(1607)から慶長16(1611)にかけての松江城築城の際に城地の亀田山と北側の赤山を掘削して、内堀とそれに並行する道路、及び家臣たちが暮らすための侍屋敷を造成してできた城下町の通りです。縄手とは縄のように一筋に伸びた道路のことをいい、この塩見縄手には武士の家中屋敷が並んでいました。なかでも、この屋敷に一時住んでいた塩見小兵衛がのちに異例の栄進をしたため、それを讃えてこの通りを「塩見縄手」と呼ぶようになりました。

この塩見縄手地区は昭和48(1973)に松江市伝統美観保存地区に指定され、さらに昭和62(1987)には建設省(現在の国土交通省)の「日本の道100選」に選ばれています。


梁または腕木を側柱筋より外に突出させて、軒を深く前面に張り出した「出桁(だしげた)造り」と呼ばれる江戸時代から続く町家(店舗兼住宅)が建っています。歴史を感じさせてくれます。


その塩見縄手の西の端あたりに松江市ゆかりの小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を記念する松江市立の文学館『小泉八雲記念館』があります。この小泉八雲記念館は小泉八雲と妻のセツが明治24(1891)5月から11月までの6ヶ月間、新婚生活を過ごした「小泉八雲旧居」の西隣に新築された木造平屋建ての和風建築の館に2階を設け、昭和9(1934)に開館した施設です。


小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)1850627日にギリシャ西部のレフカダ島で生まれました。父チャールズはアイルランド出身の軍医、母ローザはギリシャのキシラ島の出身です。アイルランドは当時まだ独立国ではなかったので、ラフカディオ・ハーンはイギリス国籍を保有していました。

2歳の時にアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリックの教育を受け、それに疑念を抱きます。16歳の時、遊戯中に左目を失明。19歳の時、父母に代わってラフカディオ・ハーンを養育した大叔母が破産したことから、単身、アメリカに移民。赤貧の生活を体験した後、シンシナティでジャーナリストとして文筆が認められるようになります。その後、ルイジアナ州ニューオーリンズ、さらにカリブ海のマルティニーク島へ移り住み、文化の多様性に魅了されつつ、旺盛な取材、執筆活動を続けます。ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、明治23(1890)4月に日本の土を踏みます。

同年8月には松江にある島根県尋常中学校に赴任し英語教師に、さらに熊本第五高等学校、神戸クロニクル社勤務を経て、明治29(1896)9月から東京帝国大学分科大学の英文学講師として教壇に立ちました。19034月に東京帝国大学を解雇され、後任を夏目漱石に譲り、さらに早稲田大学で教鞭をとりました。

この間、明治24(1891)には松江の士族の娘、小泉セツと正式に結婚して、三男一女に恵まれました。明治29(1896)に日本に帰化。「小泉八雲」と名乗るようになります。「八雲」は、妻セツが松江の出身で、自身も一時期松江市に在住していたことから、そこの旧国名である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされています。いかにラフカディオ・ハーンがこの古い歴史が残る松江の町、そして出雲の地を愛していたかを物語る命名です。

著作家としては、翻訳・紀行文、さらには『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学のジャンルを中心に生涯で約30の著作を遺しました。明治37(1904)926日に心臓発作で54歳の生涯を閉じました。(以上、小泉八雲記念館のパンフレットに記された文章をベースに加筆)

小泉八雲記念館の1階は3つの展示室からなり、展示室1では「その眼がみたもの」「その耳が聞いたもの」「その心に響いたもの」というコンセプトのもとに小泉八雲の生涯を編年で紹介、展示室2では小泉八雲の事績や思考の特色を「再話」「クレオール」「いのち」「教育」など8つの切り口から」描き出しています。なお、この展示室2の「再話」コーナーの朗読は俳優の佐野史郎さん、音楽はギタリストの山本恭二さん(ともに松江市出身)が務めています。また、展示室3では小泉八雲に関する様々な企画展示が行われていて、私達が訪れた際には「八雲が愛した日本の美」と題して、明治の松江が生んだ彫刻家・荒川亀斎の作品と、小泉八雲との親交を辿りながら、小泉八雲の審美眼・美術観を紹介していました。特に、荒川亀斎が小泉八雲に贈られ、小泉八雲がこよなく愛したといわれる気楽坊人形が初公開されていました。小泉八雲記念館の2階は小泉八雲の著作や関連書物を多数揃えて展示されています。残念ながら、小泉八雲記念館の館内は写真撮影禁止なので、写真は外観のみです。

歴史を感じさせる「塩見縄手」の街並みです。さすがに「日本の道100選」に選ばれただけのことはあります。風情が感じられる味わいのある街並みです。


松江市指定文化財の「武家屋敷」です。この武家屋敷は塩見縄手の名前の由来となったとされる塩見小兵衛も住んだ屋敷で、5001,000石程度の藩士が屋敷替えによって入れ替わり住んでいました。享保18(1733)の大火で焼失後に再建されたもので、主屋はその後も幾度かの増改築を経ています。平成28(2016)度から3ヶ年に及ぶ保存修理工事において、解体調査や資料調査により明らかになった明治期の図面をもとに復元されました。

主屋はおよそ67坪で、表側である式台玄関(来客用玄関)から座敷にいたる部分と、裏側である私生活の部分では造りも使われている材料も特に区別がなされ、武家の公私の別の厳しさを示しています。また、築山式の庭園は、飾りを省いた素朴な作りで、質実剛健の気風が窺えます。


それにしても、人形相手に、なぁ~にやってんだよ、イッカク。この屋敷の御主人と政策論議かぁ~?



塩見縄手の東の端で宇賀橋を渡ったところにあるのが松江歴史観です。松江歴史観の前には北惣門橋があり、堀川めぐりの遊覧船が行き交っています。「水の都松江」を象徴する光景です。ちなみに、北惣門橋は家老や藩士達の登城橋でした。橋を渡った先は松江城の三の丸です。


松江歴史観は松江城の東に隣接し、松江藩の家老屋敷が建ち並んでいた場所にあります。松江歴史観では、国宝松江城や城下町の仕組みなど、松江の江戸時代を中心とした歴史や文化を紹介しています。


松江歴史観の館内に入ると目に入るのが、和菓子でできた彫像です。カラフルで、繊細で、とてもこれがすべて和菓子でできているとは思えないほどの見事な彫像です。


これを作ったのが創作松江和菓子の名工・伊丹二夫さん。この方です。松江藩第7代藩主・松平治郷は不昧(ふまい)と号して茶人としての才能は一流であり、わび茶の理念を説いた『贅言』や、『古今名物類従』『瀬戸陶器濫觴』など茶器に関する著書を残しています。治郷の収集した茶器の銘品や銘菓(山川・若草など)は「不昧公御好み」として現在にも伝えられています。ただし、砂糖など当時の高級食材をふんだんに使用した「お留菓子」であったため、明治時代の庶民には購入できるような金額でもなく、いったんは途絶えていたのですが、後にこの伊丹二夫さんたちが中心になって、その製法を再現、復刻されています。松江歴史観の喫茶「きはる」では、この現代の名工・伊丹二夫さんが目の前で作る和菓子や抹茶をいただくことができます


食べてしまうのが勿体なく感じられるほどの見事な和菓子を抹茶とともにいただきます。松江の「茶の湯文化」を感じさせるお点前セットです。私がいただいたのは紅葉の和菓子。色や形だけでなく、味も甘すぎることなく美味しかったです。


「茶の湯文化」をはじめ松江の文化を語る上で忘れてはならない人物が松江藩第7代藩主の松平治郷(不昧)です。歴代の松江藩主の中でも、松江藩中興の祖と呼ばれる人物で、大名茶人と名高い人物でした。明和4(1767)に松平治郷が藩主になった当時、松江藩はどうしようもないほどの財政難でした。治郷は「御立派(おたては)の改革」と呼ばれる財政再建策を推し進め、藩の財政を立て直しました。その一方で、茶の湯や禅学を学び、自らの茶道観を確立。「不昧(ふまい)公」の名で今も多くの人に親しまれています。大変なグルメだったようで、懐石料理の数々も創作していました。松江市が今もって文化の街として評される礎となったことは、現代までに至る松平治郷(不昧)の功績と言えます。


「江戸や上方の大相撲で名を馳せた松江藩お抱えの力士達」という展示があります。松江藩は雷電や陣幕などの名力士を数多く抱えていました。全国の相撲で活躍した力士達が藩主とともに出雲に帰ってくると、楽山や白潟天満宮付近、平田、出雲大社などで御国相撲が行われました。番付が作られ、力士のブロマイドとも言える錦絵が出回り、人々は相撲に熱狂しました。……と書かれています。

おおっ! 寛政元年(1789)初土俵、文化8(1811)引退、と寛政、享和、文化年間を通じて現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(うち大関在位27場所)で、通算成績が25410241休。勝率.962で大相撲史上未曾有の最強力士とされる名大関・雷電爲右エ門、嘉永3(1850)初土俵、慶応2(1867)引退と明治維新の動乱の中で現役期間は短かったものの通算成績8751765休で、第12代横綱となった陣幕久五郎という相撲ファンにとっては超有名な2人の力士は、松江藩お抱えの力士だったのですね。


宍道湖と中海の間を繋ぐ大橋川に架けられた松江大橋のジオラマです。慶長12(1607)、堀尾吉晴が松江城建築のために架橋工事を始め、翌慶長13(1608)、初代にあたる153メートルの木製の橋が完成しました。北の末次と南の白潟の間にある唯一の橋として使われ、松江藩以外の所属の船は南詰の渡海場(船着き場周辺)で必ず荷物を降ろさなければならなかったのだそうです。前述のように、松江城下の町割りは、この松江大橋の北側の城に近い殿町・母衣町・内中原町・田町一帯を侍町、その外側の末次本町・茶町・苧町・東本町は町人町として形成されています。また、大橋川を挟んだ松江大橋の南側の白潟本町・八軒屋町・天神町・灘町などは町人町、その南は足軽が住む雑賀町になっています。また、松江大橋の南東側には、合戦のとき出城となった寺町があります。その後何度も架け替えられ、現在の橋は17代目にあたります。


国宝・松江城の紹介です。ここでも国宝指定の決め手となった祈祷札についての説明がなされています。松江城天守は、築城当時の史料によって完成時期を確認できる数少ない現存天守の1つですので、当然ですね。


「盛土が語る松江の歴史」と題した展示です。写真の土層はぎ取り断面は松江歴史博物館の日本庭園付近の地下から採取されたものだそうです。一番下の江戸時代初期の土層は最初に湿地帯に山土や砂土を盛ったものです。その上には200年あまりの間に3層もの盛土が繰り返され、合わせて1メートル以上も土が盛られました。地盤沈下や大水に浸かったことが、その理由と考えられています。なるほど、人工の町ならではですね。現実的な歴史を感じさせます。



……(その16)に続きます。