松江城天守を出て、松江護国神社を左手に見ながら北の丸を北方向に歩きます。
さすがに12月。紅葉が残る中に、サザンカ(山茶花)も咲いています。気持ちいい散策です。
松江城を出て、内堀を稲荷橋、そして新橋で渡ります。稲荷橋はこの右手に松江城山稲荷神社があることから名づけられた橋です。この稲荷橋と新橋は私達が「堀川めぐり遊覧船」で最初にくぐった2つの橋で、私達が乗船した「ふれあい広場乗船場」はこの右手にあります。
松江城の北、内堀に沿ったこのあたり一帯は「塩見縄手」と呼ばれ、松江開府の祖・堀尾吉晴が慶長12年(1607年)から慶長16年(1611年)にかけての松江城築城の際に城地の亀田山と北側の赤山を掘削して、内堀とそれに並行する道路、及び家臣たちが暮らすための侍屋敷を造成してできた城下町の通りです。縄手とは縄のように一筋に伸びた道路のことをいい、この塩見縄手には武士の家中屋敷が並んでいました。なかでも、この屋敷に一時住んでいた塩見小兵衛がのちに異例の栄進をしたため、それを讃えてこの通りを「塩見縄手」と呼ぶようになりました。
この塩見縄手地区は昭和48年(1973年)に松江市伝統美観保存地区に指定され、さらに昭和62年(1987年)には建設省(現在の国土交通省)の「日本の道100選」に選ばれています。
梁または腕木を側柱筋より外に突出させて、軒を深く前面に張り出した「出桁(だしげた)造り」と呼ばれる江戸時代から続く町家(店舗兼住宅)が建っています。歴史を感じさせてくれます。
その塩見縄手の西の端あたりに松江市ゆかりの小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を記念する松江市立の文学館『小泉八雲記念館』があります。この小泉八雲記念館は小泉八雲と妻のセツが明治24年(1891年)5月から11月までの6ヶ月間、新婚生活を過ごした「小泉八雲旧居」の西隣に新築された木造平屋建ての和風建築の館に2階を設け、昭和9年(1934年)に開館した施設です。
小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)は1850年6月27日にギリシャ西部のレフカダ島で生まれました。父チャールズはアイルランド出身の軍医、母ローザはギリシャのキシラ島の出身です。アイルランドは当時まだ独立国ではなかったので、ラフカディオ・ハーンはイギリス国籍を保有していました。
2歳の時にアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリックの教育を受け、それに疑念を抱きます。16歳の時、遊戯中に左目を失明。19歳の時、父母に代わってラフカディオ・ハーンを養育した大叔母が破産したことから、単身、アメリカに移民。赤貧の生活を体験した後、シンシナティでジャーナリストとして文筆が認められるようになります。その後、ルイジアナ州ニューオーリンズ、さらにカリブ海のマルティニーク島へ移り住み、文化の多様性に魅了されつつ、旺盛な取材、執筆活動を続けます。ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、明治23年(1890年)4月に日本の土を踏みます。
同年8月には松江にある島根県尋常中学校に赴任し英語教師に、さらに熊本第五高等学校、神戸クロニクル社勤務を経て、明治29年(1896年)9月から東京帝国大学分科大学の英文学講師として教壇に立ちました。1903年4月に東京帝国大学を解雇され、後任を夏目漱石に譲り、さらに早稲田大学で教鞭をとりました。
この間、明治24年(1891年)には松江の士族の娘、小泉セツと正式に結婚して、三男一女に恵まれました。明治29年(1896年)に日本に帰化。「小泉八雲」と名乗るようになります。「八雲」は、妻セツが松江の出身で、自身も一時期松江市に在住していたことから、そこの旧国名である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされています。いかにラフカディオ・ハーンがこの古い歴史が残る松江の町、そして出雲の地を愛していたかを物語る命名です。
著作家としては、翻訳・紀行文、さらには『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学のジャンルを中心に生涯で約30の著作を遺しました。明治37年(1904年)9月26日に心臓発作で54歳の生涯を閉じました。(以上、小泉八雲記念館のパンフレットに記された文章をベースに加筆)
小泉八雲記念館の1階は3つの展示室からなり、展示室1では「その眼がみたもの」「その耳が聞いたもの」「その心に響いたもの」というコンセプトのもとに小泉八雲の生涯を編年で紹介、展示室2では小泉八雲の事績や思考の特色を「再話」「クレオール」「いのち」「教育」など8つの切り口から」描き出しています。なお、この展示室2の「再話」コーナーの朗読は俳優の佐野史郎さん、音楽はギタリストの山本恭二さん(ともに松江市出身)が務めています。また、展示室3では小泉八雲に関する様々な企画展示が行われていて、私達が訪れた際には「八雲が愛した日本の美」と題して、明治の松江が生んだ彫刻家・荒川亀斎の作品と、小泉八雲との親交を辿りながら、小泉八雲の審美眼・美術観を紹介していました。特に、荒川亀斎が小泉八雲に贈られ、小泉八雲がこよなく愛したといわれる気楽坊人形が初公開されていました。小泉八雲記念館の2階は小泉八雲の著作や関連書物を多数揃えて展示されています。残念ながら、小泉八雲記念館の館内は写真撮影禁止なので、写真は外観のみです。
松江市指定文化財の「武家屋敷」です。この武家屋敷は塩見縄手の名前の由来となったとされる塩見小兵衛も住んだ屋敷で、500~1,000石程度の藩士が屋敷替えによって入れ替わり住んでいました。享保18年(1733年)の大火で焼失後に再建されたもので、主屋はその後も幾度かの増改築を経ています。平成28年(2016年)度から3ヶ年に及ぶ保存修理工事において、解体調査や資料調査により明らかになった明治期の図面をもとに復元されました。
それにしても、人形相手に、なぁ~にやってんだよ、イッカク。この屋敷の御主人と政策論議かぁ~?
塩見縄手の東の端で宇賀橋を渡ったところにあるのが松江歴史観です。松江歴史観の前には北惣門橋があり、堀川めぐりの遊覧船が行き交っています。「水の都松江」を象徴する光景です。ちなみに、北惣門橋は家老や藩士達の登城橋でした。橋を渡った先は松江城の三の丸です。
松江歴史観は松江城の東に隣接し、松江藩の家老屋敷が建ち並んでいた場所にあります。松江歴史観では、国宝松江城や城下町の仕組みなど、松江の江戸時代を中心とした歴史や文化を紹介しています。
松江歴史観の館内に入ると目に入るのが、和菓子でできた彫像です。カラフルで、繊細で、とてもこれがすべて和菓子でできているとは思えないほどの見事な彫像です。
これを作ったのが創作松江和菓子の名工・伊丹二夫さん。この方です。松江藩第7代藩主・松平治郷は不昧(ふまい)と号して茶人としての才能は一流であり、わび茶の理念を説いた『贅言』や、『古今名物類従』『瀬戸陶器濫觴』など茶器に関する著書を残しています。治郷の収集した茶器の銘品や銘菓(山川・若草など)は「不昧公御好み」として現在にも伝えられています。ただし、砂糖など当時の高級食材をふんだんに使用した「お留菓子」であったため、明治時代の庶民には購入できるような金額でもなく、いったんは途絶えていたのですが、後にこの伊丹二夫さんたちが中心になって、その製法を再現、復刻されています。松江歴史観の喫茶「きはる」では、この現代の名工・伊丹二夫さんが目の前で作る和菓子や抹茶をいただくことができます。
食べてしまうのが勿体なく感じられるほどの見事な和菓子を抹茶とともにいただきます。松江の「茶の湯文化」を感じさせるお点前セットです。私がいただいたのは紅葉の和菓子。色や形だけでなく、味も甘すぎることなく美味しかったです。
「茶の湯文化」をはじめ松江の文化を語る上で忘れてはならない人物が松江藩第7代藩主の松平治郷(不昧)です。歴代の松江藩主の中でも、松江藩中興の祖と呼ばれる人物で、大名茶人と名高い人物でした。明和4年(1767年)に松平治郷が藩主になった当時、松江藩はどうしようもないほどの財政難でした。治郷は「御立派(おたては)の改革」と呼ばれる財政再建策を推し進め、藩の財政を立て直しました。その一方で、茶の湯や禅学を学び、自らの茶道観を確立。「不昧(ふまい)公」の名で今も多くの人に親しまれています。大変なグルメだったようで、懐石料理の数々も創作していました。 松江市が今もって文化の街として評される礎となったことは、現代までに至る松平治郷(不昧)の功績と言えます。
「江戸や上方の大相撲で名を馳せた松江藩お抱えの力士達」という展示があります。松江藩は雷電や陣幕などの名力士を数多く抱えていました。全国の相撲で活躍した力士達が藩主とともに出雲に帰ってくると、楽山や白潟天満宮付近、平田、出雲大社などで御国相撲が行われました。番付が作られ、力士のブロマイドとも言える錦絵が出回り、人々は相撲に熱狂しました。……と書かれています。
おおっ! 寛政元年(1789年)初土俵、文化8年(1811年)引退、と寛政、享和、文化年間を通じて現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(うち大関在位27場所)で、通算成績が254勝10敗2分41休。勝率.962で大相撲史上未曾有の最強力士とされる名大関・雷電爲右エ門、嘉永3年(1850年)初土俵、慶応2年(1867年)引退と明治維新の動乱の中で現役期間は短かったものの通算成績87勝5敗17分65休で、第12代横綱となった陣幕久五郎という相撲ファンにとっては超有名な2人の力士は、松江藩お抱えの力士だったのですね。
宍道湖と中海の間を繋ぐ大橋川に架けられた松江大橋のジオラマです。慶長12年(1607年)、堀尾吉晴が松江城建築のために架橋工事を始め、翌慶長13年(1608年)、初代にあたる153メートルの木製の橋が完成しました。北の末次と南の白潟の間にある唯一の橋として使われ、松江藩以外の所属の船は南詰の渡海場(船着き場周辺)で必ず荷物を降ろさなければならなかったのだそうです。前述のように、松江城下の町割りは、この松江大橋の北側の城に近い殿町・母衣町・内中原町・田町一帯を侍町、その外側の末次本町・茶町・苧町・東本町は町人町として形成されています。また、大橋川を挟んだ松江大橋の南側の白潟本町・八軒屋町・天神町・灘町などは町人町、その南は足軽が住む雑賀町になっています。また、松江大橋の南東側には、合戦のとき出城となった寺町があります。その後何度も架け替えられ、現在の橋は17代目にあたります。
国宝・松江城の紹介です。ここでも国宝指定の決め手となった祈祷札についての説明がなされています。松江城天守は、築城当時の史料によって完成時期を確認できる数少ない現存天守の1つですので、当然ですね。
「盛土が語る松江の歴史」と題した展示です。写真の土層はぎ取り断面は松江歴史博物館の日本庭園付近の地下から採取されたものだそうです。一番下の江戸時代初期の土層は最初に湿地帯に山土や砂土を盛ったものです。その上には200年あまりの間に3層もの盛土が繰り返され、合わせて1メートル以上も土が盛られました。地盤沈下や大水に浸かったことが、その理由と考えられています。なるほど、人工の町ならではですね。現実的な歴史を感じさせます。
……(その16)に続きます。
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