2019年1月20日日曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その14)

天守の中に入ります。入ってすぐに目につくのが「祈祷札」です。


松江城の天守は平成27(2015)7月に天守建築として63年ぶりに5件目の国宝に指定されました。その要因の1つは平成24(2012)5月に「慶長十六」や「正月吉祥日」などと記された2枚の祈祷札が再発見され、その後、この地階の柱にその祈祷札が打ち付けられていたことが確認されて天守の完成時期が少なくとも慶長16(1611)正月以前であることが明確になったこと、もうひとつは平成22(2010)に松江市が設置した松江城調査研究委員会を中心に取り組まれた学術調査によって、二階分の通し柱を用いながら上層の荷重を分散させて下階へ伝えるという松江城の特徴的な構造が明らかになったことなどです。こうした多面的な調査・研究の成果によって松江城の価値が再評価され、国宝指定へと繋がりました。

城の天守の国宝指定には完成時期が極めて重要な要素になるようです。『既存12天守』のうち、松江城の天守以外に国宝に指定されている天守は犬山城、松本城、彦根城、姫路城の4城で、犬山城の天守建造年は慶長6(1601)、松本城は慶長20(1615)、彦根城は慶長11(1606)、姫路城は慶長6(1601)と、どれも江戸時代初期の慶長年間となっています。それ以外の7城はいずれも重要文化財に指定されているものの、弘前城の天守建造年が文化7(1810)、丸岡城は天守建造年不詳、高梁城(備中松山城)が天和元年(1681)、丸亀城が万治3(1660)、松山城が嘉永5(1852)、高知城が延享4(1747)、宇和島城が寛文6(1666)と慶長年間より後の時代に完成したものです。

加えて、江戸城の天守(寛永天守)が明暦3(1657)の「明暦の大火」で焼失して以降、江戸城では天守が再建されず、時の第4代将軍 徳川家綱が万治2(1659)に「今後は本丸にある(3層の)富士見櫓を江戸城の天守とみなす」と発したことから、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても、徳川将軍家に遠慮して、「御三階櫓」と称するなど、富士見櫓を越えないように高さ制限を自主的に設けるようになりました。『現存12天守』では弘前城(文化8(1811)に竣工)、備中松山城 (天和3(1683)に竣工)、丸亀城(万治3(1660)に竣工)、松山城(安政元年(1854)に竣工)、宇和島城(寛文11(1671)に改修竣工)5つの城の天守がそれにあたり、禄高のわりには天守が小さいという特徴を持っているのは、そのせいです。前述のように、国宝に指定されている松本城、彦根城、犬山城、姫路城、松江城の5つの城は全て「明暦の大火」以前の慶長年間に建てられた天守が残る城であり、それ以外の丸岡城と高知城の2つの城の天守は万治2(1659)より前に建てられたものなので、その限りではありません。 (また、近年になって復元された城の天守閣は、どうしても一番大きかった時代のもので復元する傾向にあり、まったく参考にはなりません)

天守の屋根の上に載っている鯱(しゃち)は木造銅板貼りで高さは210センチメートル。『現存12天守』では最大のものです。昭和25(1950)から昭和30(1955)にかけて行われた天守の「昭和の解体修理」で外された古い鯱が天守地階で保存展示されています。



地階(穴蔵の間)は、籠城用の生活物資の貯蔵倉庫で、中央には深さ24メートルの井戸があります。天守の北方にある池の底とほぼ同底で、常時飲料水が得られました。天守の内部に井戸や塩蔵を設けているところなども、実戦を強く意識している城です。



桐の階段です。板の厚さ約10センチメートル、階段の幅や約1.6メートルで、1階から4階の各階の間に設けてあります。この階段は、万一敵が侵入してきた時に、階段を引き上げてこれ以上の侵入を防いだり、防火防腐のために桐を使ったもので、他の城では見られない特殊な構造のものです。





“矢狭間”です。矢や鉄砲を射かけるために壁面に設けられた穴です。このほか2階の四隅と東・西・北壁には幅広い“石落とし”が設けられていて、石垣に近づく敵に石を落とすようになっています。この松江城天守の石落としは、外部からは容易に発見しにくいように構造物を利用して隠すように設けられていることに特徴があるのだそうです。




松江城天守の柱には各面に厚板を張る“包板”と呼ばれる特徴的な技法が用いられています。松の芯柱の外側に、厚さが2寸~25(610cm)ある板(包板)を揃えて寄せ合わせ、鉄製の釘や鎹(かすがい)、帯金などで固定したもので、これにより太い柱が作られています。この寄木柱の方が普通の柱より力学的に強く、大きな天守を作るために柱の強度を求めた堀尾吉晴の苦心の作と窺えます。


その包板で用いられた釘や鎹が鬼瓦と並んで展示されています。松江城では天守の各層や櫓の屋根の隅々には鬼面の鬼瓦が載っています。それも1枚ごとに異なった表情の鬼面の鬼瓦が。他の地域の城では家紋や吉祥紋様の瓦が鬼瓦に用いられることが多く、文字通り鬼瓦に鬼面を用いる松江城の例は珍しいのだそうです。


これは昭和の解体修理工事で解体された松江城天守の古材で、1階の床梁の部分に使用されていました。松江城を築城した堀尾氏の家紋である分銅文(ぶんどうもん)と、以前の居城・月山富田城(とだじょう)を意味するのではないかと推察される「富」の字が刻まれています。




後藤又兵衛の所用と伝えられる兜・甲冑と槍です。後藤又兵衛基次は黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げた武将です。特に、慶長19(1614)11月から慶長20(1615)5月にかけての大坂の陣では真田信繁(幸村)、毛利勝永、明石全登、長宗我部盛親とともに「大坂城五人衆」の1人に数えられ、慶長20(1615)5月の大坂夏の陣で奮闘の挙句、戦死しました。この甲冑と槍は、その後、又兵衛の弟が所持し、のちに後藤家の親戚で松江藩士の土岐円太夫家に伝来したものです。兜の前立てには、松江藩の合印である「猪の目」が付いています。



天守の壁面にある狭間から狙い撃った鉄砲です。口径5(1.5cm)で、銃身が150cm弱と長い火縄銃です。城の防御のため狭間に備え付けられ、そこから攻めてくる敵を狙い撃つようにしていたと思われます。ちなみに、松江藩では橋南地区の雑賀町に鉄砲を扱う足軽を集住させていたのだそうです。雑賀町ですか…。なるほど、松江藩は鉄砲集団として名高い雑賀衆を雇っていたのですね。




天守閣の起源の1つは四方を展望できる望楼です。天守最上層の5階は手すり(高欄)をめぐらし、壁のない360度の展望が広がる望楼になっています。ここが展望台や司令塔の役割を担っていました。望楼からは松江市の市街地や宍道湖を眺望することができます。 




 江戸時代の松江城の様子を描いた絵図面です。なるほどぉ〜。



明治元年(1868)当時の松江城を撮影した貴重な写真が残っていて、展示されています。まだ廃城令により櫓や御殿が取り壊される前に撮影された写真で、本丸の天守に加えて、二の丸の中櫓、御式台、広間、南櫓、御書院が見えます。石垣の下が三の丸で、そこに建つのが長屋門。この奥に藩主の御殿がありました。





……(その15)に続きます。




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