2018年11月24日土曜日

甲州街道歩き【第10回:猿橋→真木】(その6)

笹子川です。標識の向こうに見える超近代的な建物はNECプラットフォームズ株式会社の大月事業所です。昭和61(1986) NEC伝送通信事業部直轄の通信用デバイス専用工場として操業開始を開始しました。光デバイスが得意で、海底光ケーブルの中継器や小型光電気ハイブリット製品を作っています。下花咲宿と上花咲宿の間の宿間も短く、この笹子川の標識が立っているあたりが上花咲宿の江戸方(東の出入口)でした。そして、このあたりに上花咲宿の本陣がありました。現在は本陣の跡を示すものは何も残っていません。


ここから国道20号線から右へ入る道があるのですが、これが旧甲州街道でした。しかし、この道は40メートルほどで行き止まりになっているそうなので、仕方なく国道20号線を進みます。


しばらく歩くとちょっと離れた右側に大きな廿三夜碑があります。先ほど右に分岐した旧甲州街道の道沿いですね。その廿三夜碑の左側には数十基の石碑が並び、ここが旧甲州街道だよ…とアピールしているようです。


山梨県の郡内地域である富士吉田、西桂、都留、大月、上野原は昔から上質の織物の産地でした。古くは、平安時代の法令集「延喜式」に甲斐の国は布をもって納めるよう記されているほどです。その後、南蛮貿易でもたらされた絹をもとに、この地方一帯で甲斐絹(かいきぬ)として農家が絹織物を自家生産を始め、寛永10(1633)に上野国総社(そうじゃ)から郡内に入部した秋元氏が殖産興業として奨励したことから盛んになり、井原西鶴や近松門左衞門の作品にも「郡内織」「郡内縞(じま)」という記述がみられるほど著名になりました。明治時代以降、「甲斐絹」と一般に呼ばれるようになりました。花咲はその郡内織の中でも白絹の上物を製織したところとして知られていました。


「花折」というバス停があります。昔、この地に桜の大樹があって、枝葉が広がり、花が咲くと旅人が木陰に憩い、枝を手折ってかざしたところからこの地を「花折」と呼び、これがこの地の地名になったと言われています。また、「花咲」という宿場に付けられた優雅な地名もこの花折にあった桜の大樹から付けられたと言われています。(また、ここが笹子川が桂川に合流する地点で、2つの川に挟まれた端(はな)の崎にあるところから花咲という地名が付けられたという説もあるようですが、桜の大樹に由来するという説のほうが優美でいいですね。)


天保14(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、上花咲宿の宿内家数は71軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠13(6軒、中4軒、小3)で、宿内人口は304(150人、女154)の宿場でした。前述のように、先ほど通った下花咲宿との合宿(あいのしゅく)で、問屋継立業務は月のうち上15日を勤めました。しかし、元々の上花咲宿のあった地点には、現在、中央自動車道と中央自動車道富士吉田線との分岐合流点である大月ジャンクションがあり、街道筋には往時の面影はほとんど残っていません。

かつてはこの上花咲宿からも南に尾曽後峠(おそごとうげ、天神峠)を越えて鎌倉に向かう旧鎌倉街道が延びていました。ここがその追分(分岐点)でした。


大月警察署の前を過ぎたあたりで、左手に坂道を登り、民家の間を進んでいる生活道路のような細い道があります。実はこれが旧甲州街道です。


旧街道は明治以降の鉄道や国道の建設や都市開発、場合によっては河川氾濫や斜面崩壊といった自然災害によって寸断や消滅しているところが多々あるのですが、ここから笹子峠までの間は特に激しく、いたるところで寸断されていて、旧街道を正しくなぞって歩くことができない状態です。というのも、ここから笹子峠までの区間は笹子川の侵食によってできた渓谷のような地形で、旧甲州街道はここしか通れないと言った狭い平地の部分を縫うように進んでいました。明治以降、ここに鉄道(現在のJR中央本線)や、自動車が走行可能な国道20号線、さらには中央自動車道等を建設するにあたっては、どうしても旧甲州街道と同じルートを通って建設するしかなく、それによって旧甲州街道はいたるところで分断され、さらに消滅してしまっているところがあるのです。

ここからは旧甲州街道はJR中央本線を挟んだ南側を通っていました。写真では国道20号線と並行するように2本の鉄柵が伸びているのがお分かりいただけると思いますが、手前に伸びている鉄柵がJR中央本線の鉄柵、その奥、鉄道の線路の上に伸びている鉄柵が旧甲州街道の鉄柵です。旧甲州街道もこのあたりはJR中央本線のすぐ向こう側を通っているのですが、残念ながらその先で道が消滅して残っておらず、今は通行することができません。


仕方ないので、JR中央本線や旧甲州街道と並行するように延びている国道20号線を歩きます。


笹子川を真木橋で渡ります。


大月市真木歩道橋の右手に「親鸞聖人舊跡太布名号」と刻まれた石碑があります、ここから北に向かって道なりに約1.5kmほど進むと福正寺という寺院があり、そこには親鸞聖人が白布に南無阿弥陀仏と描いた名号布が納められた名号堂があるのだそうです。もともと真言密教の寺院であった福正寺は、当時の住職が親鸞聖人と出会い、感動して浄土真宗の寺院となりました。親鸞聖人は白布に「南無阿弥陀仏」と名号を書かれました。これが「太布(たふ)の名号」と呼ばれているもので、今でも年1回奉懸して法要が勤まっているのだそうです。


その「親鸞聖人舊跡太布名号」と刻まれた石碑が建っている場所から国道20号線を少し進むと、右手に石段が見えてきます。その石段を上ると「真木(まぎ)諏訪神社」が鎮座しています。真木諏訪神社の創建は不詳ですが古くから諏訪大社(信濃国一宮)の分霊が勧請され、真木村の産土神として信仰されてきた神社で、当時は奥宮や下宮があった大社として社運が隆盛していたと思われています。当初は狩猟神として信仰されていたようで、狩場となった複数の山々に祭られていましたが、1ヶ所に纏められ、その後周辺が牧として整備された事で牧場の守護神となり、中世は領主から武神として信仰されていたようです。


現在の入母屋造りの真木諏訪神社本殿は文政10(1827)に真木村出身の金左衛門が棟梁として再建されたもので、一間社流造、銅板葺(元檜皮葺)、正面屋根には千鳥破風が設けられ、一間棟唐破風向拝が付いている立派な建物です。社殿全体には禅宗の高僧の伝説や道教の神仙などを模した彫刻や、龍や獅子、植物など縁起の良い彫刻が施され、八王子出身の腕利きの彫師・藤兵衛父子が手掛けたとされます。甲府県内でも大月方面は武蔵国に接していることもあり江戸系の大工が携わっている例が多く、文化の交差している点も注目される建物です。


それにしても、見事な彫刻の数々です。



ちなみに、これって「瓢箪から駒」を描いたものです。真ん中下に割れた瓢箪があり、左上にその割れた瓢箪から飛び出してきた馬()が天に向かって駆け上る様子が描かれています。分かりますか?


真木諏訪神社本殿は江戸時代後期に建てられた神社本殿建築の遺構として貴重な事から昭和49(1974)に大月市の指定文化財に指定されています。



この日の甲州街道歩きはこの真木諏訪神社がゴールでした。神社の境内でストレッチ体操を行い、境内下で待っていた観光バスに乗って埼玉に戻りました。駐車場の前を流れる川は桂川の支流の笹子川のそのまた支流の真木川で、切り立った深い渓谷は紅葉が進んでいました。


この日は19,699歩、距離にして14.3km歩きました。この日のコースでは猿橋宿、駒橋宿、大月宿、下花咲宿、上花咲宿と5つの宿場を通ってきたのですが、どれも規模の小さな宿場ばかりで、めぼしい見どころもなく、ほとんど国道20号線を歩く、言ってみれば甲州街道を完歩するための繋ぎの区間と言ってもいいコースだったので、果たしてブログは書けるのかと思っていたのですが、まぁ〜それなりに書けるものですね。

次回【第11回】は真木諏訪神社を出発して下初狩宿、中初狩宿、白野宿、阿弥陀海道宿という小さな宿場を通り、甲州街道最大の難所であった笹子峠への登り口である黒野田宿まで歩くのですが、あいにく私はどうしても外せない用事が入っているので参加することができません。ここまで皆勤賞できた甲州街道歩きですが、ここで途切れることになってしまいました。まぁ、ウォーキングリーダーさんの話によると、【第11回】のコースも、基本国道20号線に沿っているということなので、機会があれば自力で歩いて、空白になる区間を埋めたいと思っています。

と言うことで、私の甲州街道歩きは次々回【第12回】の笹子峠越えになります。ただ、笹子峠はこれから冬季、雪に覆われて通行不能となるため、【第12回】の笹子峠越えは年が明けた3月下旬になる予定です。ついに甲州街道最大の難所と言われる笹子峠越えです。楽しみです。

今日も甲州街道歩きの道中は曇り一時晴れで、一度も雨具を使うことはなかったのですが、さいたま市に戻ってきたら小雨が降っていました。ウンウン、「晴れ男のレジェンド」はまだまだ健在です。


――――――――〔完結〕――――――――


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