2018年11月23日金曜日

甲州街道歩き【第10回:猿橋→真木】(その5)

桂川を新大月橋で渡ります。おやおや、新大月橋のたもとに「鮎供養」と刻まれた石碑が建っています。ここらの桂川では鮎がいっぱい獲れたのでしょうね。


桂川の上流側を見ると、先ほど立ち寄った追分がすぐそこに見えます。


桂川の下流側です。桂川は新大月橋の先で大きく右(東方向)に曲がっているのですが、その湾曲部で左(西)から流れてくる支流と合流します。この支流が笹子川。2回後の甲州街道歩きで越える予定の甲州街道最大の難所である笹子峠を源流として流れてくる川です。笹子の地名が出てきて、いよいよ笹子峠越えが現実味を帯びてきました。


新大月橋を渡り終えると、右側から合流してくる狭い道があります。これが旧甲州街道でした。実は、先ほど江戸時代には大月橋はなかった…ということを書きましたが、当然のこととしてこの新大月橋もありませんでした。では旧甲州街道はどこを通っていたかと言うと、追分からまっすぐ北に進み、急な坂道を下り、そこで桂川を渡って、桂川の対岸を大きく迂回してこの場所に出てきました。現在はそのルートで桂川を渡る手段がないので、新大月橋を渡るしかありません。従って、この新大月橋から先は再び旧甲州街道になります。


すぐに大月橋を渡ってきた国道20号線と合流します。すぐ左手に「甲州街道 下花咲宿」の標柱が立っています。このあたりの甲州街道は小規模な宿場が連なっていて、宿場間の距離も短いのですが、それにしても短い。大月橋のたもとの追分が大月宿の諏訪方(西の出入口)だったのですが、その大月橋を渡ったと思ったら、すぐ次の下花咲宿の江戸方(東の出入口)です。これは現在のことで、大月橋が架かっていなかった江戸時代には、旧甲州街道は、前述のように、もっと北のほうで桂川を渡り、対岸を大きく迂回するルートを辿っていたので、それなりに宿間の距離はあったようです。しかし、昔はここからだとおそらく大月宿の追分がすぐ先に見えていたはずで、旅人達は大いに不思議に思ったことでしょうね。


標識の後ろには夥しい数の石仏石塔群があります。近隣の旧甲州街道沿いに建っていた石仏石塔を国道20号線の拡幅工事の際にここに一箇所に集めて祀ったものと思われます。その中に天保13(1842)に建立された松尾芭蕉の句碑があります。句碑には
「しばらくは 花の上なる 月夜かな」

という句が刻まれています。


ここに独特の個性的な字体で「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が建っています。旧街道歩きでは時々見かける徳本上人の念仏碑です。徳本上人(1758年~1818)は江戸時代後期に全国を行脚し、念仏講を広めたとされる浄土宗の念仏行者で、全国的にも高名であり、ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えて日本各地を行脚し、庶民の苦難を救った清貧の思想の持ち主です。庶民からは「生き仏様」と慕われていたのだそうです。紀州(和歌山県)の出身で、信者は近畿地方に多く、東海、北陸、信州、関東地方にまでも広がり、現在でも「徳本講」は引き継がれ、その気高い生き方は時代を超えて人々に大きな影響を与えていると言われている方です。


念仏碑は、徳本上人が巡教された土地に多く建てられていますが、建立の狙いは、旅の交通安全、海上安全、病魔退散、子育て、古戦場の慰霊等と実に様々で、それぞれの人々の願いに即したものなのだそうです。徳本上人の書かれた文字は、丸みを帯び、筆の終わりが跳ね上がっているので縁起がよいといわれ、「徳本文字」と呼ばれています。「南無阿弥陀仏」の文字の下に「徳本」、そして田という字を丸くした様な花押も彫られています。

その石塔石仏群の並びに、江戸の日本橋を発ってから24里目の「下花咲の一里塚」があります。塚は辛うじて残っていますが、一里塚という面影は全くなく、表示も出ていないので、見逃しそうです。それにしても24里目の一里塚ですか24里と言うことは約96km。区切りの25里目(100km)はまもなくです。


前述のように、この下花咲の一里塚のあたりが下花咲宿の江戸方(東の出入口)でした。下花咲宿は天保14(1843)の甲州道中宿村大概帳によると下花咲宿の宿内家数は77軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠22(6軒、中5軒、小11)で、宿内人口は374(202人、女172)でした。下花咲宿と次の上花咲宿は合宿(あいのしゅく)で、問屋継立業務は月のうち上15日を上花咲宿が、下15日を下花咲宿が勤めました。


下花咲宿で本陣と脇本陣を勤め、問屋・名主も兼ねて勤めた星野家の住宅です。幕末には薬の商いも行っていたほか、農地解放前には、25町歩(25ヘクタール)ほどの田畑を所有し、養蚕では100(375kg)ほどの収穫があったと伝えられています。江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、天保6(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。現在の母家は、焼失以前のものと比べると、規模は少し小さくなりましたが、上段の間を含む間取りと部屋数は変えず、街道により近づいて建てられました。明治13(1880)618日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に小休所にあてられました。江戸時代から続く荘厳な佇まいは、由緒ある歴史を今に伝えます。
 

甲州街道に現存する本陣の建物は、日野宿、小原宿とこの下花咲宿の3ヶ所のみで、味噌蔵、文庫蔵の付属家屋とともに3棟が国の重要文化財に指定されています。文庫蔵横に植えられたモミジが色濃く紅葉しています。由緒ある建物と相まって美しい光景です


是非、本陣の中を見学したかったのですが、あいにく「都合により当分休館します」という張り紙が玄関に貼られていて、残念ながらそれはかないませんでした。


稲村神社です。下花咲宿も小さな宿場で、もうこのあたりが下花咲宿の諏訪方(西の出入口)でした。



……(その6)に続きます。

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