11月4日(日)、甲州街道歩きの【第10回】に参加してきました。今回の街道歩きのスタートポイントは前回【第9回】のゴールだった日本三大奇橋の1つ猿橋。ここから猿橋宿、駒橋宿、大月宿、下花咲宿、上花咲宿と5つの宿場を通り、下初狩宿までの途中の真木というところまで歩きます。
この日は東海地方から関東地方、東北地方南部にかけては、湿った空気や気圧の谷の影響で所々で雨雲が湧くという予報で、スタートポイントの猿橋あたりも一面の曇り空。これから向かう西のほうの空も厚い雲に覆われています。雨が降ると気温も下がるし、嫌だなぁ〜。いちおう雨具(レインコート)はリュックサックに入れて歩くことにしましたが、「晴れ男のレジェンド」がどこまで通用するか…ってところです。
約1ヶ月前に【第9回】でも訪れたのですが、スタートポイントの猿橋は紅葉が始まっていました。深い渓谷が赤や黄色に色づき、見事としか言いようがありません。紅葉はまだ始まったばかりです、これから多くの観光客が訪れるのでしょうね。
ストレッチ体操を終えて、街道歩きのスタートです。前回、生姜の佃煮を買った趣きのある町屋造りのお土産物屋の軒下には干し柿が吊るされています。いいですね。
猿橋を渡ったところが猿橋宿の江戸方(東の出入口)でした。猿橋を出てすぐ、新猿橋西交差点を右折して、国道20号線に入ります。ここから笹子峠の登り口付近まではほぼ国道20号線に沿って歩きます。
天保14年(1843年)の甲州道中宿村大概帳によると、猿橋宿の宿内家数は138軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠10軒(大2軒、中5軒、小3軒)、宿内人口は542人(男267人、女275人)と甲州街道では比較的小さな宿場でしたが、名勝「猿橋」があるため、見物客などで賑わったと伝えられています。最盛期には観光客目当てに芝居小屋などもあったと言われています。
この江戸方(東の出入口)だった新猿橋西交差点付近に猿橋宿の本陣があったそうなのですが、その面影は全く残っていません。
その本陣があったと思われるところに建つ民家の玄関脇には「電話
猿橋41番」という標識が貼られています。これはまだ電話機が「磁石式」と呼ばれた時代の加入者宅に貼られていたものです。現在では想像できないと思いますが、かつて電話機は壁掛け形で、電話をかけるときには、まず電話局の交換手を呼び出し、口頭で相手の電話番号を告げて、人手で接続してもらう方式でした。その交換手を呼び出す方法には、磁石式と共電式があり、磁石式は発信時、電話機についているクランクハンドルを回して発生する電気で交換手に連絡する方式で、1890年代はこの方式でした。共電式は、通話や呼び出しの電源が電話局内から送られており、受話器を取ることで自動的に交換機のランプを点灯させ電話交換手を呼び出す仕組みで、日本では1903年から採用が始まりました。
しかし、都市部、特に首都である東京での電話加入者数の増加は著しく、従来の交換手が手作業で回線を接続する形態では、一層の増強が困難な状況に陥りました。そこで、当時の逓信省は大正12年(1923年)の関東大震災からの復旧を契機として、ステップ・バイ・ステップ交換機と呼ばれるダイヤルパルス信号による自動交換方式を導入することとなり、大正15年(1926年)、東京の京橋電話局に日本最初の自動交換機が導入されました。第二次世界大戦後、逓信省から独立した日本電信電話公社(電電公社:現在のNTT)はステップ・バイ・ステップ自動交換機の導入を全国に広げ、ついに昭和53年(1978年)3月、電電公社創設以来悲願であった全国ダイヤル即時化(自動化)を果たし、現在のようにダイヤルをするとすぐに相手に繋がる電話網が完成しました。そしてその翌月の昭和53年(1978年)4月に、私はその電電公社に入社しました。
猿橋宿を進みます。とは言え、猿橋宿の宿長は3町34間(約385メートル)と短いもので、この写真に写っているくらいの長さしかなく、猿橋警察官駐在所を過ぎたこの「幼稚園前」のバス停のあたりが猿橋宿の諏訪方(西の出入口)でした。
その「幼稚園前」のバス停の手前に富士急山梨バスの大月営業所の車庫があり、路線バスが何台も停まっています。富士急のバスの塗装って渋くて好きなんですよね。
「幼稚園前」のバス停を過ぎると、左手に大きな馬頭観世音文字塔をはじめとした石塔群が集めて祀られています。もとはこのあたりの甲州街道沿いに別々に祀られていたと思われますが、おそらく国道20号線の拡幅工事の際に、ここに集められたのでしょう。一番左手の大きな馬頭観世音文字塔は比較的新しいもので、地元の運送会社が建立したものなのだそうです。
このあたりは国道20号線(旧甲州街道でもあります)と並行して中央自動車道が走っています。
宮下橋南詰交差点を過ぎると、右手に日蓮宗円行寺があります。その参道口には明治13年(1880年)に建立された南無妙法連華経題目碑、文久2年(1862年)に建立された廿三夜塔、道祖神などが祀られています。
その円行寺の並びに三嶋大明神(三嶋神社)があります。この神社の由緒によると、この三嶋神社は、平安時代初め、この地方が開拓され、村落が生まれつつあった大同元年(806年)に、伊予国(愛媛県)大三島の大山祇神社より勧請されたものだということのようです。富士山の噴火が相次ぎ、田畑山林の荒廃が厳しいため、富士即木花咲耶姫命の御怒りを鎮むべく、父神に坐す大山祇命をお迎へし、復興の精神的よりどころとしたと伝えられているそうです。御神体は大松山の大松を三段に伐って作った「衣冠の立像」です。
霊現あらたかであることで知られ、中世には繰り返される戦さのたびに武将が祈願に参拝し、名刀景光、延元元年銘の大石灯籠などが残されているのだそうです。特に、岩殿城主(岩殿城はこの後に出てきます)であった小山田氏と縁深ったと伝えられています。さすがは大山祇神社、日本の総鎮守です。ちなみに、我が家、越智家の家紋は大三島の大山祇神社の社紋と同じで、大山祇神社は越智家の氏神でもあります。この三嶋神社でこの日の旅の安全を祈願し、甲州街道を先に進みます。
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