DNタワー21です。この建物は昭和8年(1933年)に竣工した農林中央金庫有楽町ビルと、昭和13年(1938年)に竣工し、終戦後の昭和20年(1945年)にGHQに接収され、総司令部本部として使用された第一生命館をそれぞれ部分保存の上、解体・再構築し一体の建物としたものです。平成元年(1989年)から平成7年(1995年)にかけて再開発され、ともに本社を置く第一生命保険と農林中央金庫の頭文字を取って「DNタワー21」と名付けられました。DNタワー21の西寄り部分に部分保存されているのが第一生命館です。この建物は第二次世界大戦中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されていました。
終戦後は前述のように占領軍に接収され、昭和27年(1952年)7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用されていました。館内には連合国軍最高司令官を務めたダグラス・マッカーサー元帥の執務室がそのまま保存されているのだそうです。第一生命館の外観は西側には方柱10本が立ち並んだギリシャ風の豪壮で美しい建築で、平成16年(2004年)には東京都選定の歴史的建造物に指定されています。
帝国劇場です。帝国劇場は明治44年(1911年)に竣工した日本初の西洋式演劇劇場で、当初はルネサンス建築様式の劇場でした。大正12年(1923年)の関東大震災では隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちたのですが、改修され、翌大正13年(1924年)に営業を再開しました。当時の「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝文句は流行語にもなり、消費時代の幕開けを象徴する言葉として定着しました。大正デモクラシーが台頭し、個人の解放や新しい時代への理想に満ちた大正ロマンの象徴のような建物でした。現在の複合ビルディング形式の建物は昭和41年(1966年)9月に落成したものです。この帝劇ビルの一部は落成当時から、石油業界大手の出光興産が本社として使用しており、最上階の9階は同社の創業者である出光佐三氏(百田尚樹さんの歴史小説『海賊とよばれた男』のモデルになった方です)による古美術コレクションを展示する出光美術館となっています。
馬場先門橋です。橋を渡った先に馬場先御門がありました。
「馬場先門橋」は皇居(江戸城)の内濠に架かり、丸の内二・三丁目の間から皇居正面に通じる土橋です。馬場先門は寛永6年(1629年)に造られました。門の名前の由来は、門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を上覧したことから、朝鮮馬場の名が生まれ、馬場先の名が付けられました。古くは不開門(あかずのもん)とも呼ばれました。ふだんは閉め切られていたのでしょうね、きっと。橋の北側は馬場先濠、南側は日比谷濠です。日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出る惨事が発生したため、明治39年(1906年)に枡形は撤去。堀も埋められて橋ではなくなりました。現在は石垣の一部が残っているだけです。
馬場先御門から内濠(日比谷濠、馬場先濠)を挟んだ対岸は“西の丸下”と呼ばれていました。
この立派な建物は明治安田生命保険相互会社の本社にある「明治生命保険相互会社本社本館(略称:明治生命館)」です。この明治生命館は昭和5年(1930年)9月に起工し、昭和9年(1934年)3月に竣工した建物で、5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則った外観デザインに特徴があります。第二次世界大戦後は、進駐してきた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、昭和31年(1956年)に返還されるまで、アメリカ極東空軍司令部として使用されました。なお、戦争に敗北した日本を連合国が占領するに当たり、GHQの諮問機関として東京に設置された日本占領管理機関である「対日理事会」の第1回会議はこの明治生命館の2階の会議室で行われました。平成9年(1997年)に、昭和の建造物として初めて国の重要文化財の指定を受けました。平成13年(2001年)から改修工事が行われ、隣接地に30階建ての明治安田生命ビルを建設して一体的に利用することで、歴史的建造物を活用しながらの全面保存が実現しました。現在も明治安田生命保険の本社屋として現役利用されており、1階には同社の「丸の内お客様ご相談センター」が設けられています。
馬場先門御門から先は馬場先濠です。濠の対岸の岸には樹木が整然と植えられています。
しかし、こちら側の岸はと言うと……、これは酷い!! 先日の台風25号の接近による暴風のため、濠端に植えられた柳の木が何本も根っこからなぎ倒されて折れてしまっています。これだけ何本も倒されるって、物凄い暴風が吹いたってことですね。それにしても酷い!!
馬場先門橋を北に少し進んだところに、「行幸通り」が内濠を横切るように伸びています。この行幸通りは東京駅正面から皇居外苑に通じる道路です。この道路は、工事に大正13年(1924年)8月から同15年(1926年)8月までの2年間かかり、当時のお金で数十万円かけて完成しました。内濠の埋め立ては難工事であったと伝えられています。
和田倉御門前に架かる和田倉橋が見えてきました。
和田倉橋を渡ります。和田倉橋は内濠(和田倉濠)に架かり、皇居外苑東側から丸の内一丁目の東京海上ビル前に通じる橋で、渡った先に和田倉御門がありました。明治元年(1868年)に明治天皇が京都を離れて初めて東京におこしになった時(東京行幸、略して東幸)、呉服橋御門からこの和田倉御門を通って江戸城西の丸に入られました。和田倉橋は平川御門橋とともに江戸城の木橋を復元した貴重な景観の橋です。現在の橋は木橋の面影を残して復元されたコンクリ-ト橋です。
江戸時代には濠の曲がり角付近から東の方向へも濠が伸びていました。これを「道三濠」といい、今の東京駅北方のJRの線路を越えた呉服橋付近で外濠(日本橋川)に通じていました。この水路により江戸城と隅田川、さらに江戸湾(江戸湊)が結ばれていたわけです。江戸に入府した徳川家康がまず掘削させたのがこの道三濠で、築城に必要となる物資の運搬に利用されましたが、明治42年(1909年)に埋め立てられ、現存してはおりません。
和田倉橋を渡ったところに和田倉御門がありました。元和6年(1620年)に造られた立派な桝形門でしたが、明治維新後、和田倉御門の渡櫓門は石垣を残して撤去され、高麗門は半蔵門に移築され、今もその役割を担っています。
この日の『江戸城外濠内濠ウォーク』は、この和田倉御門がゴールでした。この日は18,444歩、距離にして13.6km歩きました。距離は長かったですが、実に面白かったです。
和田倉門内には、かつて陸奥国会津藩23万石 松平容保の上屋敷がありました。松平容保といえば、幕末期に京都守護職として京の都の治安維持に努めた人物です。ですが、その結果としては……。気の毒としか言いようがありません。
明治維新後、この陸奥国会津藩松平家の上屋敷跡には旧幕府軍を威圧するために軍事防衛を司る兵武省が置かれました。しかし、明治5年(1872年)2月26日、その兵武省から出火。丸の内、銀座、京橋、築地と約28万坪を消失させる「銀座大火」を引き起こしました。そこで、新政府は不燃化都市建設を目指して、我が国初の歩道と車道を区別した幅27メートルの道路と、その道路に向かい合うようにして銀座煉瓦街通りが建設されました。この「銀座大火」に関しては会津落城の怨念説が巷で囁かれたと言われています。そりゃあそうだ。現在、陸奥国会津藩松平家の上屋敷跡は和田倉噴水公園になっています。和田倉噴水公園は昭和36年(1961年)に当時の皇太子殿下(現在の今上天皇陛下)の御成婚を記念して噴水が作られたのが始まりで、その後、改修され、様々な噴水が美しい水の景色を演出しています。
ちなみに「銀座大火」を受けて明治政府は兵武省を組織解体して、新たに陸軍と海軍を設立します。その初代の陸軍大将(近衛都督を兼務)に就任したのがその前年の明治4年(1871年)に帰郷中の鹿児島から参議として新政府に復職したばかりの西郷隆盛でした。ちょうど今、NHKの大河ドラマ『西郷どん』ではそのあたりの時期のことが描かれています。
【余談】
帰りはJR東京駅から電車に乗って帰りました。鉄道マニアにとって歴史的建造物と言えば、この建物を忘れてはいけません。ご存知、東京駅丸の内駅舎です。この建物は明治・大正期を代表する建築家・辰野金吾の設計により大正3年(1914年)に竣工した鉄骨レンガ造りの駅舎です。関東大震災でも大きな被害は受けなかったのですが、第二次世界大戦中の昭和20年(1945年)の空襲で外壁、屋根、内装等が損壊。戦後、3階建てを2階建てとする応急的な復興工事が行われました。平成15年(2003年)に国の重要文化財に指定され、平成24年(2012年)に元の3階建てに復元されました。近代日本を代表する実に美しい駅舎です。
――――――――〔完結〕――――――――
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