2018年10月30日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第7回:竹橋→和田倉門】(その9)

祝田橋です。この祝田橋は江戸時代にはなく、明治39(1906)に日露戦争の戦勝を祝して皇居外苑を縦断する凱旋道路が造られることになり建設された橋です。一般的な橋と異なり橋の下に空間はなく、濠を分断する堤防のような構造の土橋です。日比谷濠の部分は外苑南側の石垣を崩して建設されたのだそうです。

この祝田橋が建設されたことにより日比谷濠は分断され、日比谷濠の西側は凱旋濠と呼ばれるようになりました。祝田橋という橋の名称は、皇居外苑側の旧町名である祝田町から採られました。

祝田橋交差点を渡り、日比谷公園に入ります。このあたりに長州藩の上屋敷があったということなのですが、どこにも案内表示が出ていないので、よく分かりません。


アークライト灯です。このアークライト灯も日比谷公園開設当時の公園灯で、園内には10基が設置されていました。また、園内にはこれ以外にもガス灯が70基設置されていました。先ほどの水飲み場と同じく鋳鉄製で統一されたデザインになっており、両方とも日比谷公園開設当時を偲ばせる記念として、園内に1基ずつ残されています。


面白い形をした水飲み場です。この水飲み場は明治36(1903)の日比谷公園開設当時のものです。鋳鉄製で重厚な中にも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがあります。また、馬も水が飲めるような形に作られていて、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時が偲ばれます。


【第2回】のお茶の水の東京都水道歴史館のところで説明を受けた上水道のための石枡です。


日比谷公園内を進んでいきます。


なかなか気づかないのですが、日比谷公園には面白いものが無造作に展示されています。これは「松石」という松の木の化石です。説明書きによると、「今から35千万年前の植物が水底に運ばれ、埋没した後、珪酸(ケイ酸)質の液が染み込んだものを珪化木と言います。北九州の炭田では炭層中に珪化木が含まれ、これを松石、あるいは松炭と呼んでいます。ここにあるものは、昭和初期、福岡市外の亀山炭鉱の地下300メートルのところから長い木のまま発見されたものの一部です」とのことです。へぇ〜〜。


ここに「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」という案内看板が立っています。ここは仙台藩祖・伊達政宗から三代綱宗の時代、慶長6(1601)から寛文元年(1661)まで仙台藩外桜田上屋敷があったところです。その敷地は現在の日比谷公園内にあり、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷濠沿いの道路(甲州街道)から小音楽堂付近までの広大なものだったようです。伊達政宗は江戸参勤の折、寛永13(1636)5月、この地で70年の生涯を閉じました。



「日比谷見附跡」の碑が建っています。東京メトロ丸ノ内線と銀座線の駅名にもある赤坂見附が有名ですが、「見附」とは、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。言ってみれば“交番”のようなところですね。説明書きによると、この石垣は江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部なのだそうです。城の外側から順に、高麗門(こまもん)、枡形、渡櫓、番所が石垣で囲まれていましたが、石垣の一部だけがここに残っているのだそうです。



また、当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていましたが、公園造成時にその面影を偲び「心字池(しんじいけ)」としたのだそうです。全体を上から見ると、「心」の字を崩した形をしているのだそうです。禅宗の影響を受けた鎌倉・室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法の一つだそうです。


日比谷通りと晴海通りが交差する日比谷交差点です。この日比谷交差点は都心部にあり、日比谷通りと晴海通りという都内の二大幹線道路が交差するため昔から交通量が多く、昭和5(1930)に日本初の電気式信号機が設置されました。


日比谷濠です。徳川家康が豊臣秀吉の命によりこの関東の地に移封されて江戸城に入城した時には、この日比谷のあたりは、日比谷入江と呼ばれる入り江の海岸線でした。その後、神田山の切崩しや、神田川の開削、半蔵門から桜田門にかけての桜田濠の掘削等により出た土砂で日比谷の入り江が徐々に埋め立てられていき、陸地化され、そこに次々と大名屋敷が造られていきました。日比谷濠は、このように入江の埋め立てと江戸城整備に伴って慶長13(1608)頃までに出来あがったと言われています。


  

……(その10)に続きます。

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