2018年10月15日月曜日

甲州街道歩き【第8回:上野原→犬目】(その7)

坂を登りきると、目の前が一気に開けます。これだけ長い登り坂を登ってきたのでここからは下り坂に変わるのか…と思っていたのですが、意外や意外。平地に出ました。河岸段丘の上に出たようです。これが旧甲州街道の特徴ですね。

ここからは「新田」の集落に入って行きます。


右手に立派な門構えの民家があります。米山家住宅です。そこに「甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」の看板とそのいわれの解説文が出ています。私達が門前で写真を撮っていると、近くの集会場で村祭りの準備をしていた米山家の現在の当主が駆けてきて、米山家に関する手作りの説明資料を配っていただきました。それによると……


米山家では一時期尾張徳川家の殿様が泊まる定宿だったことがあり、それを示す象嵌の札や三つ葉葵の金杯が残されています。新田宿は犬目宿の脇宿で、大きな大名行列の時だけ利用されました。尾張徳川家の殿様が犬目宿の本陣ではなく、米山家になぜ宿泊したのかは、この前の駐車場から富士山がよく見え、甲州街道で最も眺望が良いためにお殿様がお気に入りになり、定宿となったものです。

尾張の殿様は、徳川御三家でも筆頭の大名であったので、尾張の殿様が宿泊している間はそれを示す札(将棋の駒型で黒漆の象嵌で表に「踏馬」裏に「御免」と書かれている)を門にかけ、三つ葉葵の紋所の高張り提灯がたてられて門番がたち、いかなる格の高い武士でも馬にのったまま、通ることは不敬となるため許されず、馬を引いて歩いてとおらなければなりませんでした。


宿場は遠くから見通しができないように入口の道路は曲げて造られていました。下の県道30号大月上野原線は、明治天皇が馬車でご巡幸するために造られた道であり、「新道」とよばれています。


ということのようです。

その山梨県道30号大月上野原線に合流します。このあたりが犬目宿の江戸方(東の出入口)でした。


ここに犬目兵助の墓があります。


江戸時代、甲斐国は幕府直轄領になっていたのですが、天保の大飢饉に端を発し、天保7(1836)7月に、農民たちによる大規模な一揆・打ち壊しが甲斐国全域で発生しました。天保騒動(あるいは甲州一揆)と呼ばれたこの一揆に、この犬目村の平助(犬目平助)が頭取として参加したといわれています。この甲州一揆は幕末前の幕府の支配体制が揺らいでいくきっかけになったともいわれています。

下宿です。宿場の面影はほとんど残っていませんが、犬目宿と書かれた石碑が建っています。犬目宿の案内板によると、犬目宿は、一つの村が「宿」そのものになった形と考えられます。言い伝えによれば、正徳2年(1712)、現在の集落より600メートルばかり下方の斜面(元土橋)にあった部落が、急遽そのまま現在の所に移住し、その翌年、宿駅起立の際に、統一的意思により「一村一宿」の宿場として創設されたということです。天保14(1842)においては、戸数56戸、人口255名、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠15(3軒、中3軒、小7)を数えた山峡の小さな宿場です。しかし、昭和45年の大火で宿の6割を焼失してしまい、往時の面影はほとんど残っていません。


犬目宿は葛飾北斎の『富嶽三十六景甲州犬目峠』が描かれた場所として有名です。犬目峠は甲州街道の中で最も標高の高いところで、富士山の絶景ポイントの1つとされています。また、この宿は、標高510メートルという高所に位置し、「この地極めて高き所にて、房総の海、富士の眺望奇絶たる所」といわれるほど眺望が大変に素晴らしかったところでした。JR中央本線の線路からは遠く離れ、今は静かな落ち着いた街並みです。


牛頭観音(ごずかんのん)が祀られています。旧街道沿いの道端には馬頭観音と同様、この牛頭観音が祀られている石碑を数多く目にします。たいていはこの地で亡くなった馬や牛の供養のために建てられたもので、こうした石碑は、江戸時代までは馬ばかりでなく、牛も荷を運ぶために大量に使われていたことを偲ばせます。


前述の犬目平助の生家跡です。犬目平助はこの犬目宿の旅籠・水田屋(奈良邸)で生まれました。義民『犬目の兵助』の生家跡という説明板が立っています。ここでもこの御宅のご主人が顔を出し、犬目平助に関する説明書を配ってくれました。そのご配慮に感謝して、その説明書から抜粋します。


「天保4(1833)の飢饉から立ち直ることができないのに、天保7(1836)の大飢饉がやって来ました。その年は、春からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、穀物はほとんど実らず、餓死者が続出する悲惨な状況となりました。
各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出ました。称して、『甲州一揆』と言われています。この時の兵助は40歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、この一揆の首謀者は、当然死罪です。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されています。
一揆後、兵助は逃亡の旅に出ますが、その『逃亡日誌』を見ると、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢を経ていますが、人々の善意の宿や、野宿を重ねた1年余りの苦しい旅のようすが伺えます。
晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応3(1867)71歳で没しています。」

静かなたたずまいの集落です。


犬目ではちょうど秋祭りの準備が行われていました。この手作り感がいいですね。このあたりの住民の姿がまったく見られないのは、まだ陽射しが強いからでしょうか? 日が暮れてから盛り上がるのだろうと思います。


「明治天皇御小休所趾」と刻まれた石碑が立っています。この石碑が立っているところは、一部の例外を除いて、たいてい本陣か脇本陣があったところです。ここも犬目に2つあった本陣の1つ笹屋本陣があったところです。


「犬目」のバス停です。この付近に犬目宿のもう1つの本陣がありました。その道向かいは大津屋という問屋場だったところです。


この日の甲州街道歩きはこの犬目宿本陣跡前がゴールでした。この日は21,448歩、距離にして15.6km歩きました。旧街道歩きでは比較的短い距離なのですが、問題は標高。スタートポイントの上野原市役所の標高は海抜266メートル。この犬目宿の標高は510メートルなので、250メートル近く登ってきたことになります。くわえて、河岸段丘を登ったり下ったりを繰り返しながらだったので、その1.5倍くらいは登ってきた感じがします。座頭転がしはありましたが、難所と言えるような急な登り坂ではなく、緩い坂道をダラダラとただひたすら登ってきた感じです。

中山道でも碓氷峠や和田峠、鳥居峠といった難所ではないものの、照りつける真夏の太陽の下で長いダラダラとした緩い登り坂が続いて、私もくじけそうになった峠道がありました。笠取峠です。歩いたのがちょうど1年前の同じ頃だったので、歩いた後の感想としてはその笠取峠越えと似ています。正直キツかった!


次回【第9回】は、この犬目宿を出て鳥沢宿を経て猿橋宿まで歩きます。猿橋は日本三奇橋の1つ、桂川に架かる猿橋という見どころがあり、そこがゴールです。次回は10月に入るので、気候も街道歩きのベストシーズン。次回も楽しみです。

ん!?、犬目、鳥沢、猿橋……、犬、鳥(雉子)、猿……、桃太郎伝説かよ!!


――――――――〔完結〕――――――――

0 件のコメント:

コメントを投稿