2018年10月11日木曜日

甲州街道歩き【第8回:上野原→犬目】(その3)

しばらく進むと、鶴川宿から大椚集落に入る手前の坂の途中に江戸の日本橋を出てから19里目にあたる「大椚(おおくぬぎ)の一里塚」跡の石碑が立っています。石碑が立っているだけで、現在、この大椚一里塚は跡形も残っていません。実際にはこの石碑より手前の鳶ケ崎橋の近くにあったと推定されているのだそうです。江戸時代に編纂された『甲州道中宿村大概帳』には「木立無之、但左右之塚共大椚村地区」と書かれているのだそうです。塚は左右ともあったようですが、一里塚に付き物の木は植えられていなかったようです。


大椚一里塚を後にして、中央高速道路を右手に見ながら進みます。緩やかに上って行くと、「大椚」の集落に入ります。沿道にはよく手入れされた草花や石碑が目につきます。大きな家が目立ち、豊かな集落のようです。


なんとも立派な二十三夜塔の碑が立っています。


「大椚」の集落を進みます。「椚屋」という表札が掛かっています。「大椚」の「椚屋」……、屋号なのでしょうか?


安永6(1777)に作られた秋葉権現の常夜燈と思われる灯篭とともに、「大椚宿発祥の地」と書かれた道標が立っています。大椚宿は鶴川宿と次の野田尻宿の途中にあった休憩用の施設で、いわゆる「間の宿(あいのしゅく)」だったようです。宿という字は付いていますが、宿泊は禁止されていました。


のどかな自然の風景が続きます。


大椚の集落を過ぎるあたりに吾妻神社の大杉があります。樹高約20メートル、推定樹齢約600年という大木ですが、御神木であったとの伝承はないとのことのようです。神社の木陰がちょうどよい休憩場所となります。トイレもあります。明神造りの鳥居を潜り、参道の石段を登ると、大日如来坐像と千手観音菩薩坐像を納めた大椚観音堂があるのだそうです。


これは表札でしょうか。「小澤」とだけ刻まれたでっかい石碑が立っています。


この付近から野田尻、荻野付近にかけては、馬の背のような長い尾根を歩くことになり、眺望が開けるところが多くなります。しかし、その尾根筋を中央自動車道も通過していきます。峠を越えると、目の前が開け、前方に中央自動車道が迫ってきます。


夏の強い陽射しを受けながら、中央自動車道に沿った平坦な側道を行きます。たくさんのクルマが猛スピードで横を走り抜けていきます。この側道は旧甲州街道ではありません。旧甲州街道は中央自動車道のあたりを蛇行しながら通っていたと推定されています。


写真では小さすぎて分からないと思いますが、何匹もの赤トンボが群れをなして飛んでいます。9月に入って残暑は続いているものの、徐々に初秋の雰囲気が垣間見えるようになってきました。


その側道の傍に長峰砦跡の石碑が立っています。この付近、鳶が崎から矢坪坂付近までの丘陵地帯を長峰と呼んでいました。この長峰の鳶が崎や鳶の巣のあたりは甲斐国と武蔵国、相模国の国境に位置するため、戦国時代の終わり頃にたびたび後北条氏と武田氏が小競り合いを繰り返した古戦場でした。ここに武田氏の家臣・加藤丹後守景忠が砦(長峰砦)を築き、外敵の侵攻に備えたと言われています。長峰砦は、山梨県の東端部、上野原町大椚地区に所在した、やや小規模な中世の山城です。その砦の全貌は明らかになっていませんが、中央自動車道の拡張工事の際に行われた調査で、堀跡、鉄砲の弾などが出土するとともに、幅1メートル余りの旧甲州道中と考えられる道の跡が断続的に確認されたのだそうです。現在、石碑の奥側にはゴルフ場があり、反対側は自動車が絶え間なく往来する高速道路が走っており、今ではこの場所が軍事的な要衝であったと想像することはとても不可能です。


また、この砦の跡には俳人・松尾芭蕉とその門下で蕉門十哲の一人に数えられた連二房(各務支考)の句碑も立てられています。実物の判読はなかなか難しいのですが、
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」芭蕉
「あがりては さがりあけては 夕雲雀」支考
という句が刻まれているのだそうです。


この付近の旧甲州街道は中央自動車道のためにズタズタに分断されていて、残念ながらほとんどその跡は残されていません。中央自動車道を何度か歩道橋で渡るのもそのせいです。また、街並みが分断されてしまった宿場もあるようです。


新栗原橋で再び中央高速道路を渡り、河岸段丘を登る坂道を行くと、野田尻宿に入っていきます。新栗原橋を渡ったところに「これより甲州街道 野田尻宿」という案内標識が立っていますが、野田尻宿の江戸方(東の出入口)はもうちょっと先になります。

   

……(その4)に続きます。



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