2018年9月5日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第4回:赤坂見附→虎ノ門】(その3)


虎ノ門交差点です。ここからほぼ真っ直ぐ北方向に江戸城桜田門に向かって伸びる道路が桜田通り(国道1号線)。この通りの両側には経済産業省や財務省、外務省、国土交通省、農林水産省、法務省といった主要な官公庁が建ち並ぶ「霞ヶ関」と呼ばれる一帯で、文字通り日本の中枢です。これは江戸時代からも同じで、このあたりには有力大名の上屋敷や有力旗本の屋敷が建ち並んでいました。例えば、現在の外務省は筑前国福岡藩黒田家上屋敷跡で、財務省は丹後国宮津藩松平家上屋敷跡、法務省は出羽国米沢藩上杉家上屋敷跡、国土交通省は安芸国広島藩浅野家上屋敷跡、経済産業省は信濃国松代藩真田家上屋敷跡、農林水産省は磐城国中村藩相馬家上屋敷跡、厚生労働省は駿河国沼津藩水野家中屋敷跡等々で、その他も大名や有力旗本の屋敷の跡です。

ちなみに、霞ヶ関の名前は古代まで遡ります。古代からこの地点を主要な街道が通っていました。この街道は奥州に通じるものだったため、虎ノ見附(虎ノ御門)近くに日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷の襲撃に備えて、関所を設けたとの伝説が残されています。この関所は雲や霞を隔てて遠くまで眺めがよかったため「霞ヶ関」と名付けられたのだそうです。この一帯は、平安時代には和歌に読まれる歌枕となり、また江戸時代には安藤広重の名所江戸百景にも選ばれて「かすみかせき」の浮世絵が何枚も描かれています。霞ヶ関は現在ではビルが建ち並ぶ官庁街になっていますが、かつては眺めの良さが知られた風雅な場所であったのだそうです。


で、この虎ノ門には江戸六口(江戸城から東海道・甲州街道・中山道・奥州街道(日光街道)・上州道・大山道へと繋がる出入り口)1つ桜田門から初期の東海道に通じる城門である虎ノ見附(虎ノ御門)が設けられていました。虎ノ見附(虎ノ御門)は肥前国佐賀藩主の鍋島勝茂が築き、慶長 11 (1606)に石垣が、寛永 13 (1636)に門が完成しました。この虎ノ見附(虎ノ御門)は外濠に位置した枡形門で、周囲は防御のため石垣で固められ、通過するときは L 字型の通路を抜けるようになっていました。明治時代初期に撮影されたという貴重な写真を見ると立派な屋根のついた立派な城門であったことが分かります。写真に写っているのは一の門「高麗門」です。手前には溜池を堰き止めるための土橋(ダム)と橋が架けられ、堰き止められた溜池から水が滝のように外濠(汐留川)に流れ落ちています。ここは江戸時代の初期までは遠浅の海(日比谷入江)に面していました。江戸時代に入って江戸城総構えや江戸市街の整備工事が進み、日比谷入江は埋め立てられたのですが、そこに人工の水路が切られ、溜池からの流れは外濠の一画として東へ導かれるようになりました。これが汐留川で、溜池下の虎ノ門から幸橋、新橋、浜離宮西縁を経て、海に注いでいました。現在は溜池も汐留川も完全に埋め立てられているので、往時の姿は偲びようがありません。

虎ノ見附(虎ノ御門)は前述のように、江戸六口の一つ桜田門から初期の東海道に通じる城門(外郭門)で、四神相応(しじんそうおう)のうち西を守護する白虎から「虎ノ見附(虎ノ御門)」と呼ばれました。ちなみに、四神相応とは風水における好適地の条件のことで、東に流水(青竜)、西に大道(白虎)、南に窪地(朱雀)、北に高い丘陵(玄武)が備わるところを指します。このような土地に住むと、一族は長く繁栄するといわれています。地形を見るに、まさに江戸はそういう四神相応に適ったところと言えます。

虎ノ見附(虎ノ御門)の石垣を築いた肥前国佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の中屋敷跡には、今は共同通信・JT・国立印刷局・虎ノ門病院等が建っています。その対岸の特許庁あたりから濠幅を狭めた葵坂の堰と濠の中に商船三井ビルと虎の門三井ビルが建っています。


虎ノ見附(虎ノ御門)は明暦3(1657)の明暦の大火で焼失し、万治2(1659)に再建されたのですが、享保16(1731)に再び火事により焼失した後は、二の門「渡櫓門」は再建されませんでした。明治 6(1873)に枡形門は取り除かれてしまいましたが、現在でも周囲には外堀の石垣の一部が残されています。


商船三井ビルや虎の門三井ビルの前庭の一角には隅櫓が置かれていた石垣の一部が残されています。虎の門三井ビルのところから霞ヶ関ビルや霞ヶ関コモンゲートの方へ、外堀通りを跨ぐ横断歩道橋があります。その階段を登る途中で、右手に見える不思議な石垣が随分前から気になっていたのですが、まさにその石垣が江戸城外濠の隅櫓(すみやぐら)「溜池櫓」が置かれていた石垣の一部でした。城郭の角に設けられた櫓である隅櫓らしく、石垣には直角になった出角があります。その石垣の出角部分(隅石)は「算木積み(さんぎづみ)」と呼ばれる技法で積まれています。この算木積みでは、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増し、崩れにくくしています。平成28(2016)414日に発生した熊本地震では名城・熊本城の天守閣も大きく損壊したのですが、各所で崩落した石垣の中で、この「算木積み」で積まれた石垣の出角部分(隅石)だけは幸いなことに崩落を免れ、その出角部分(隅石)に辛うじて支えられて、天守閣は完全崩壊を防ぐことができました。昔の土木技術の凄さですね。


『国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台』という案内板が立っています。これは寛永 13 (1636)に建造された江戸城外濠の櫓台だった石垣なのだそうです。江戸城外濠は、現在の虎ノ門交差点付近に虎ノ見附(虎ノ御門)があって、そこから文部科学省の敷地内に現存する3地点の石垣を通過して、この櫓台の石垣まで真っ直ぐ直線で延びていました。江戸城外濠は、江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14kmの濠で、そのうち約4kmが国の史跡に指定されています。隅櫓は曲輪の隅に配置される櫓のことで、そのためこの石垣は鋭利に直角に角が作られています。江戸城外濠の隅櫓は筋違橋御門と浅草橋御門とここ溜池櫓だけにありました。このうち唯一この溜池櫓の石垣だけが現存しています。



横断歩道で外堀通りを渡り、反対側の歩道を虎ノ門交差点の方向へ向かいます。霞が関コモンゲートアネックス前の歩道に石垣が残っています。これが虎の門三井ビルのところにあった溜池櫓台から真っ直ぐに直線で続く石垣の一部です。この前の歩道もこれまで何度も通ったことがあるのですが、改めてしみじみと眺めてしまいました。これは寛永13(1636)に築かれた江戸城外濠の石垣の一部です。

ちなみに、この霞ヶ関コモンゲートをはじめ、文部科学省のある一帯はかつて日向国延岡藩内藤家の上屋敷があったところです。


その石垣の脇にレンガ造りの門柱みたいな碑が立っています。ここは明治時代に設置された工部大学校の跡地なのだそうです。工部大学校は、幕末に長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学した井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)5人の長州藩士の渡航前後の様子を描いた映画『長州ファイブ』の中で、松田龍平さんが演じた主人公・山尾庸三の強い主張のもとに官職技術者の養成のために当時の工部省が明治10(1877)に創設した教育機関で、現在の東京大学工学部の前身にあたる学校です。映画『長州ファイブ』は、私が埼玉大学工学部の非常勤講師を務めさせていただいた時(6年間)、毎年教材として使用し、学生の皆さんに感想文を書かせていた作品なので、工部大学校という文字を見て、映画『長州ファイブ』と主人公・山尾庸三のことを思い出しました。この「阯碑」は昭和14(1939)に建てられたものです。


東京メトロ銀座線虎ノ門駅の霞ヶ関コモンゲートに直結する11番出口を出たところにも石垣があります。そして、「史跡 江戸城外堀跡地下展示室」なる表示があります。これにはこれまでまったく気づきませんでした。地下鉄に向かう人はみなエスカレーターに乗るのですが、実はそのエスカレーターとは別に地味な階段があって、これを下ると「江戸城外堀跡地下展示室」のスペースとなっています。ガラス窓の向こうに江戸城の外濠跡が見え(夜はライトアップがされるそうです)、堀を構成する石が展示され、壁には説明用のパネルが掲げられています。また、階段の途中には、外堀の水底と水面の高さも示されていて、この展示室と旧庁舎中庭の石垣では外濠の堀底および推定される水面の高さを表示し、正面の石垣は水面から聳える石垣の姿を再現しました…と書かれています。なるほど、世が世なら、私は首まで外濠に浸かって立っているってことですね。このあたりの外濠が実はたいへんに浅かったことが実感できます。


この外堀跡は、旧文部省の敷地内にあり、特に保存するつもりも手を付けるつもりもなく、そのまま残っていたのだそうです。それが旧文部省の建物を解体し、中央合同庁舎7号館及び霞ヶ関コモンゲートを建築する工事(2005年~2007)にあたり、改めて平成16(2004)に発掘調査が行なわれ、70メートルに及ぶ虎ノ見附(虎ノ御門)の外濠石垣が発掘されたことから、史跡として展示されることになったのだそうです。昭和の半ばまでの高度経済成長期の日本人は、未来へ前向きに進むことばかりに夢中で、過去の歴史的な遺産を大事にしようという意識がイマイチ薄く、江戸時代の名残などどうでもよかったのかもしれません。それが平成3(1991)に地価の下落から始まった経済バブルが崩壊した後、平成の時代になってようやく先祖の人々が生きていた証しにも目が向くようになって、歴史的遺産を大事にしようという流れに変わってきたのかもしれません。


石垣は石の加工の程度によって、野面積み・打ち込み接ぎ・切り込み接ぎの大きく3つに分けられます (「接ぎ(はぎ)」とは、繋ぎ合わせるという意味です)。そのうち、このあたりの石垣で用いられたのが自然石をそのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」という技法です。石を加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないという特徴があります。そのため隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点があったのですが、排水性に優れており極めて頑丈でした。また、石垣の積み方は、布積と乱積の2つに大きく分けられるのですが、このあたりの石垣は大きさの違う自然石の平石、加工した平石を様々な方向に組み合わせて積み上げる「乱積み(らんづみ)」の技法が用いられています。

 石垣の石は伊豆半島から切り出されてきたものです。伊豆半島やその周辺で産出される石は質が良く、古くからその名声は知られていました。伊豆半島の石は主に硬質の安山岩系と軟質の凝灰岩系の2種類の石に大別されます。安山岩系の石は真鶴石、小松石、根府川石などと呼ばれ、風化しにくく耐火性に優れており、凝灰岩系は伊豆御影石、伊豆青石、沢田石などと呼ばれ、耐火性に優れているだけでなく加工がしやすく運びやすいという利点があります。このうちの安山岩は火成岩の一種で、また、凝灰岩は火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石です。どちらも火山由来の岩石で、これらの岩石が伊豆半島で採れるのは、伊豆半島が形成された地史によるものです。伊豆半島は、地球の表面を覆う十数枚の厚さ100kmほどの岩盤、すなわち大陸プレートのうちフィリピン海プレートと北アメリカプレートの境界面に位置しています。フィリピン海プレートの最北端に位置し、ここで北アメリカプレートと衝突しているため、岩盤に亀裂が起こり、これにマグマが貫入することにより伊豆東部火山群が形成されています。このマグマの貫入によって、伊豆半島東部では群発地震がしばしば起こっています。古くは伊豆諸島の島々と同様に火山島や海底火山であったこともあり、大型火山が大きく侵食された地形が残り、各地に温泉が湧いているのもそのためです。


伊豆半島で掘り出された石は古くから陸路や海路を使って近隣の様々なところに運ばれ、石材として使われていました。例えば、古墳時代後半の6世紀のものと推定される静岡市葵区の賤機山(しずはたやま)古墳からは伊豆半島で産出された凝灰岩が用いられた石棺が出土しています。


いっぽう、江戸では地質的に石材というものが採れませんでした。江戸に幕府を開いた徳川家康は慶長8(1603)から配下の諸大名を動員して、江戸城の修築工事をはじめその後当時世界最大の人口を誇る巨大都市・江戸の町を形成する「天下普請」と呼ばれる大規模な土木工事を行うことにしたのですが、問題はその土木工事で使用する石材の入手でした。そこで目をつけたのが伊豆半島で採れる石でした。伊豆半島の東海岸に採石場である石切丁場(略して石丁場とも言います)を作るとともに、狩野川流域や伊豆半島の北東海岸や北西海岸からも海路、多くの石が運ばれてきました。現在の地名で言うと、採石場が集中していたのは主に伊東市で、熱海市や真鶴岬(神奈川県)周辺にまで及んでいました (ちなみに、現在の東京でも大きな石や岩はほとんどが遠くから運んできたものです)


この石を運ぶために徳川家康が江戸城の修築工事を始めるにあたり、まず最初に着手したのは石材を運ぶための石船の建造でした。慶長10(1605)に石船の建造を命じられた紀伊国和歌山藩(紀州藩)初代藩主・浅野幸長(2代藩主の浅野長晟の時に安芸国広島藩藩主に加増移封)385艘もの石船を献上したという記録が残っています。

採石場で切り出され形を整えられた石は「修羅(しゅら)」と呼ばれるソリ()のような道具を使って石引き道を通って海岸まで運ばれ、石船に載せられました。讃岐国(香川県)の金刀比羅宮(ことひらぐう)を題材とした日本の古い民謡『金比羅船々(こんぴらふねふね)』に「金毘羅船々 追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュ」という歌詞がありますが、そのシュラとはこのことでした。


石船に載せられた石は、江戸の石川島まで運ばれました。寛永年間(1624年〜1644)に書かれた『当代記』によると、石材の価格は「百人持の石は銀20枚」、「ごろた石は1箱金3両」であったのだそうです。ただ、大きなものになると1つで数トンにもなる石を運ぶのは容易なことではなく、運搬途中に海が荒れようものなら船が転覆するようなことも当然ながらあったようです。慶長11(1606)には虎ノ見附(虎ノ御門)の石垣を築いた肥前国佐賀藩初代藩主鍋島勝茂をはじめとする大名達の石船200艘あまりが、暴風に遭って一挙に転覆したということも伝わっています。江戸城外堀跡地下展示室には実際に外濠の石垣で使用した石が展示されています。石の大きさや形状がよく分かります。人間の臼歯のような形状をしています。この石は江戸城の石垣の構築に用いられた石の中では普通サイズの石だとのことですが、それでもかなり大きな石です。なるほど、こういう形状だから“歯”のように斜面に深く食い込んで、長い年月が経っても容易に崩れなかったのですね。


江戸城の石垣をよく観察してみると「♯」や「卍」「△」など様々な記号やマークが刻まれていることを目にすることができます。これは「刻印」と呼ばれ、どの藩が掘り出して運んできたものかを示すものでした。これらの意匠は家紋と通じるものが多いのですが、1つの石や1箇所の石丁場に複数の刻印があることも珍しくないため、それほど厳密に刻印が用いられたとはいえないのだそうです。ちなみに、この江戸城外堀跡地下展示室前の石垣に多く見られる矢印の刻印は豊後国佐伯藩毛利家の刻印です。


地上に戻り、さらに進むと文部科学省新庁舎と旧文部省庁舎の間にある中庭があり、一段下がった半地下になったところに石垣があります。 このあたりの外濠の石垣の構築工事は備前国岡山藩池田家を頭とした組が担当したそうで、その組を構成した各大名それぞれの刻印が表示されています。



説明書きによると、部分的に不揃いな積み方があることから数度改修されたと考えられているのだとか。なるほどぉ〜。


昭和8(1933)に竣工した旧文部省庁舎も、霞ヶ関コモンゲートが竣工した平成19(2007)に国の有形重要文化財として登録されました。

ちなみに、「虎ノ門」の名称は明治 6(1873)に虎ノ見附(虎ノ御門)が取り除かれた後も東京市電の停留所名として残り、また、昭和13 (1938)に開通した営団地下鉄(現在の東京メトロ)銀座線の駅名にもなって、今に残っています。



……(その4)に続きます。


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