2018年9月4日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第4回:赤坂見附→虎ノ門】(その2)


変則5差路になった平河町交差点を右折して細い道路を下っていきます。参議院議長公邸の東門のすぐ横に華族女学校の遺蹟碑が建っています。華族女学校は現在の学習院女子高等科にあたります。下田歌子を創立者として明治18(1885)に皇族、華族の女子の教育機関として設けられた宮内省の所管の女学校で、明治22(1889)から明治38(1905)までこの場所にありました。明治39(1906)に学習院に合併、大正7(1918)に独立して女子学習院となり,第二次世界大戦後は再び学習院に統合されました。どうもこの出雲国松江藩松平家の上屋敷跡は我が国の女子教育のメッカのようなところのようです。


ここが「三べ坂」と呼ばれる坂で、昔、この坂に沿って和泉国岸和田藩藩主岡部筑前守・武蔵国岡部藩藩主安部摂津守・和泉国伯太藩藩主渡辺丹後守という苗字に「べ」が付く3つの藩の上屋敷があったことから、「三べ坂」と呼ばれるようになりました。



参議院議員会館、衆議院第二議員会館、衆議院第一議員会館を左手に見ながら、結構急な坂を下っていきます。



下り終わって振り返ると、結構急な坂であったことが分かります。


坂の右手には東大の合格者数で有名な名門校・都立日比谷高校があります。ここがその都立日比谷高校の正門です。


その隣は江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる神社として有名な山王日枝神社(さんのう ひえじんじゃ)です。


大鳥居の脇に注連縄が張られた立派なイチョウ(銀杏)の木があります。山王日枝神社の御神木はイチョウ。境内にはイチョウの巨木が何本かあるのですが、その中の一番大きなイチョウがこの山王鳥居横の巨木です。山王日枝神社の境内はイチョウの群生林で、かつてはイチョウの巨木が何本もあったそうなのですが、昭和20(1945)の東京大空襲の際にほとんどが焼けてしまい、残った木の中ではこの山王鳥居横のイチョウが一番の巨木なのだそうです。樹齢ははっきりしませんが、300年ほどでしょうか。さすがに御神木、見ているだけで生命の鼓動を感じさせてくれる力強さを感じます。



山王日枝神社は東京メトロ銀座線・南北線の溜池山王駅側からエスカレーターを使って参拝するのが一般的ですが、実は日枝神社の正式な鳥居はこちら側で、「山王鳥居」と呼ばれています。そしてここが本当の入り口、「山王男坂」と呼ばれる表参道でした。






この山王日枝神社の創建の年代は不詳ですが、文明10(1478)に太田道灌が江戸城を築城するにあたり、埼玉県川越市にある無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるといわれています。徳川家康が江戸に移封された時、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守としました。

慶長9(1604)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになりました。社地は徳川家康により5石、元和3(1617)に徳川秀忠により100石、そして寛永12(1635)に徳川家光からの寄付を加えて600石となりました。明暦3(1657)に発生した「明暦の大火」により社殿を焼失したため、万治2(1659)、第4代将軍徳川家綱が赤坂にあった丹波国福知山藩主(後に肥前国島原藩初代藩主)だった松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座しました。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置します。




この山王日枝神社の社紋は現在は皇室が使用する「菊の御紋章」ですが、これは現在は皇居の裏鬼門にあたる鎮守府だからです。ですが江戸時代の社紋はこの「二つ葵」でした。この「二つ葵」は徳川家の家紋「三つ葉葵」の原型となった家紋です。




山王日枝神社の社殿は昭和20(1945)の東京大空襲により焼失し、現在の社殿は昭和33(1958)に再建されたものです。


これは見事な銅製の灯籠です。さすがに江戸城の総鎮守府です。このほか山王日枝神社の境内には立派な狛犬が幾つも建っています。


7月中旬だというのに、藤棚にはまだ藤の花が咲き残っていました。満開の時は、さぞや美しいことでしょう。



今では山王日枝神社は東京メトロ銀座線・南北線の溜池山王駅側からエスカレーターを昇るのが一般的な参拝路だということを書かせていただきました。これがそのエスカレーター側の参拝路です。こちらは「裏参道」と呼ばれています。ただ、江戸時代、このエスカレーターの下あたりは一面が溜池で、こちらからの一般客の参拝はできませんでした。





外国人観光客が好んで訪れるという山王稲荷神社です。この真っ赤な鳥居が無数に続く石段は京都の伏見稲荷と同じですが、この山王稲荷神社のほうが鳥居の石段が長いと言われています。山王稲荷神社は元々は丹波国福知山藩主松平忠房の邸内に祀られていた屋敷神と伝えられていて、万治2(1659)に日枝神社が麹町隼町から移転してきた際に日枝神社とともに社殿が建立されました。現在の社殿はこの時に造営された可能性が高く、昭和20(1945)の東京大空襲で日枝神社の社殿が焼失した際にも被害を免れて残ったものです。こうした経緯や関東地方には希少とされる縋形式の春日造の本殿であることから、山王稲荷社の本殿は、千代田区によって文化財指定されています。


山王稲荷神社の真っ赤な鳥居が無数に続く石段を下っていくと平らなところに出るのですが、実はここは江戸時代には溜池だったところです。それもこのあたりの溜池は水面一面に蓮の花が咲く名所だったそうです。そのことからこの溜池のことは「蓮池」とも呼ばれていました。


その蓮池の蓮の花を楽しながら溜池を横断して山王日枝神社に参拝するための遊覧渡し船がこのあたりで運航されていたのだそうです。その渡し船によるここの渡し賃は15文だったのだそうです。江戸時代末期を舞台にした古典落語の演目『時蕎麦』においてかけ蕎麦1杯の値段が二八(にはち)16文だったことから、15文と言うと、現代の貨幣価値に直すと300円〜400円あたりだったのではないでしょうか。



山王日枝神社の隣に“鎮座”するのが総理大臣官邸です。この総理大臣官邸が置かれている場所は江戸時代には陸奥国二本松藩・丹羽家10700石の上屋敷が置かれていたところです。二本松藩は織田信長の重臣、丹羽長秀の孫・光重が藩祖で、幕末の戊辰戦争では会津藩とともに幕府側について、新政府軍との激戦の果てに13歳から17歳までの少年隊士14人を含む藩士334人が戦死した悲劇の藩としても知られています。いかつく高い擁壁に囲まれ、厳重な警備、まるで21世紀の城郭の様相を呈しています。3段に組まれた石垣、見れば見る程、江戸時代に造られた城郭のように思えてきてしまいます。日本国のトップ、総理大臣の官邸らしい建物ではないでしょうか?



総理大臣官邸の傍まで近づいて写真をパチリ!  これ、団体旅行だからできることですね。個人でこのあたりをウロウロと歩き回って、写真など撮影しようものなら、すぐに警備の警察官がやって来て、不審人物として職務質問を受けることは間違いありません()



溜池交差点→内閣府下交差点→特許庁前交差点と進みます。このあたりの坂を下った下のあたりは、かつては溜池の中だったところです。このあたりはこれまでの仕事の関係でよく訪れたことのあるところなので、風景に馴染みがあります。この日は週末の土曜日、官庁街の人通りは少なく、歴史探訪のウォーキングには最適です。ただ、真夏の強い陽射しが照り付け、クラクラしそうになるほどです。熱中症にかかりそうになるので、こまめに水分補給をしているのですが、すぐに汗となって流れてしまう感じで、メチャメチャ暑いです。


……(その3)に続きます。

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