2018年9月13日木曜日

甲州街道歩き【第7回:相模湖→上野原】(その4)


昼食を終え、JR藤野駅に戻り、甲州街道歩きの再開です。「藤野駅前交差点」を右折します。藤野駅前に「ようこそ 芸術のまちへ」と書かれた看板がかかっているお店があります。そうです、そうなんですよね。


遠くの山肌に中央自動車道をクルマで走ると目につく巨大な「ラブレター」が見えます。この「ラブレター」は芸術作品で、鉄のフレームにシートが張られていて、縦17メートル、横26メートル。「ふるさと芸術村構想」のもと、藤野町(現相模原市)の依頼で、1989年に造形作家の高橋政行さんが制作したものです。第ニ次世界大戦中、藤田嗣治や猪熊弦一郎らの著名な芸術家が疎開して過ごしたのがこの藤野です。1988年に神奈川県が「藤野ふるさと芸術村メッセージ事業」を立ち上げ、国内外の作家による彫刻などを町内に展示しました。当時の作品を含む29作品が、JR藤野駅周辺に今も残っています。現在も、毎年5月に開催される「ぐるっと陶器市」など民間主体のイベントが盛んで、芸術作家が活躍できる場も多いところです。


この国道20号線のS字カーブ、まさに旧街道らしい光景です。


「国道20号線 東京日本橋から70km」の道標が立っています。と言うことは、先ほどのエノキ()の木は江戸の日本橋を発ってから17里目の一里塚だったと推定されます。国道20号線のほうが大垂水峠を迂回するぶん2km3km長いですし…。


ここで国道20号線を横切り、左側にある側道を下っていきます。いったんここで河岸段丘を下りるってことなんでしょう。


河岸段丘を少し下り、再び登っていきます。すぐ右手をJR中央本線の線路が通っています。


旧甲州街道はここでJR中央本線の線路を横切るように延びていました。「甲州道中 関野」と書かれた道標が立っています。このあたりが関野宿の江戸方(東の出入口)でした。


旧甲州街道はJR中央本線の線路で分断されているので、跨線橋を使って線路の反対側に出ます。跨線橋の上から見ると左手が開けています。JR中央本線を越えると、右手には中央自動車道の橋脚があり、その下を国道20号線が走っています。その国道20号線の歩道を進みます。


関野宿に入ります。天保14(1843)の記録によると、関野宿は家数130軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒、総人口635人の小さな宿場で、相模国最後の宿場でした。これらの本陣や脇本陣、旅籠を含む町並みはすべて明治21(1888)とその後の2度の火災で焼失してしまいました。


ここが関野宿の本陣があったところです。「明治天皇小休止址碑」と本陣跡を示す説明板だけが立っています。


曹洞宗の寺院、増珠寺です。このあたりの寺院は石段の上、すなわち山門より幾分標高の高いところに作られているのが特徴です。


増珠寺の門前に天明元年(1781)に関野宿講中が建立した庚申塔が建っています。その庚申塔と並んで、関野で生まれた江戸時代の大関・追手風喜太郎(1799年〜1865)についての説明板が立っています。

『追手風喜太郎は、寛政11(1799)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、幼名を「松次郎」と言いました。その生家は、現在もこの寺近くにあり、佐藤博文氏が当主として守っております。
松次郎が力士への道を歩むようになったのは、9歳の時、同郷出身の力士で叔父にあたる「追手風小太郎」が長崎巡業の折り、松次郎の家に立ち寄ったことから始まります。この時、松次郎は親の止めるのも聞き入れず小太郎の後を追い弟子入りしました。力士としての仲間入りをしてからは、松五郎とも呼ばれ、文政3(1820)春場所には西三段目の下から二枚目となり、シコ名も「黒柳」と改めました。文政12年には前頭筆頭となり、黒柳の名を「往右衛門」と改め、さらに天保2(1831)春場所からは「追手風」としました。その後、小結・関脇とすすみ天保7年には西大関と据り、同10年には土俵を退いたとのことです。
土俵を退いてからの追手風は、年寄となり相撲会所の要職に着くと共に、門下からは多くの名力士を出しました。また、敬神祟祖の念に厚く、竜渕山増珠寺には五具足・燭台などを寄贈し、氏神の三柱神社には、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の幡を献納しました。
この「安昌久全信士」の碑は、文政121125日喜太郎の手により建立されたもので、追手風小太郎の碑であります。また、佐藤家の墓地には、昭和46年建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の碑が建てられています。
昭和612月   藤野町教育委員会』

追手風喜太郎は「雲竜型」の横綱土俵入りで知られる第10代横綱・雲竜久吉の師匠だったのですね。現役引退後は現在の相撲協会理事長に当たる相撲会所会頭となったといわれています。ちなみに、現在も年寄株として「追手風」があり、時津風一門の部屋として人気力士の小結・遠藤などが所属しています。 現在の追手風親方は前頭2枚目だった大翔山です。


国道20号線を進みます。「甲府 64km、大月 23km、上野原3km」という道路標識が出ています。甲府まで64kmということは、先ほども書きましたが、江戸の日本橋から甲府までのちょうど半分の道程を過ぎたってことですね。取り敢えず今日のゴールである上野原までは3kmってことですね。日差しが強くちょっとへばってきたので、この3kmという数字に救われる気がします。正直言うと、小仏峠を越えたので、今回の【第7回】は「たいしたことはなかろう」とちょっとナメてかかったようなところがありました。ところがどうして。河岸段丘を登ったり下ったりが続くアップダウンの激しいコースなので、結構キツい区間です。熱中症が心配で水分をいつもより多めに補給しているのですが、すぐに汗になって出ているようで、かなりのダメージを受けています。昨年もこの時期、中山道の笠取峠で同じような状態になりました。夏の日差しが照りつける中での街道歩きはさすがにキツいです。

この道路標識の付いた歩道橋のあたりが関野宿の諏訪方(西の出入口)でした。


「甲州古道  坂の上」と書かれた道標が立っています。その“坂の上”の地名のとおり、国道20号線から右に分岐して坂道を登っていきます。


坂の途中の「甲州古道  岡留坂」と書かれた道標が立っているところで、今度は下り坂に転じます。しかも木々が生い茂る中を歩く下り坂。ちょっと嬉しい。


岡留坂を下ったところで国道20号線と合流します。その地点に「甲州古道」の道標が立っているのですが、下の部分が消えてしまっているので、このあたりの地名は分かりません。


「緑区小渕 えのき坂」という道標が立っています。これが「えのき坂」ですね。緩やかな坂を下っていきます。


名倉入口の信号で国道20号線を渡り、左側の歩道に出ます。そこに「甲州古道  下小渕下」と書かれた道標が立っています。谷を挟んだ向こう側に道が見えます。どうも国道20号線から左に分岐して側道に入り、いったん河岸段丘を屈曲しながら下って、次に向こう側の河岸段丘を同じく屈曲しながら登るようです。これはちょっとキツそうです。甲州街道をナメてはいけませんね。


木々が生い茂る中、緩い坂道を下っていきます。


坂道を下りきったところにあるのが境沢橋。下を流れる川が境沢。境沢は文字通り相模国と甲斐国の国境を流れる沢()で、この境沢橋を渡るといよいよ甲斐国、山梨県となります。山梨県まで歩いてやってきたんだ…と思うと、ちょっと達成感も湧いて、元気も回復してくる感じがしてきます。


……(その5)に続きます。




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