吉野宿の郷土資料館です。この郷土資料館は旧ふじや旅館の建物を利用したもので、明治10年頃の吉野宿の家並みを再現した模型、農機具、生活用品などが展示されています。
天保14年(1843年)の記録によると、吉野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒と小さな宿場でした。小規模な宿場でしたが、飯盛り女だけはたくさんいたという話もあります。この辺りは桂川に由来して「桂の里」と呼ばれていたのだそうです。甲州街道江戸日本橋と甲府とのちょうど中間あたりに位置する宿場で、『相模国風土記稿』によれば「與志乃志久と書き、元禄の改に吉野村とかかせしという」と記録されているのだそうです。
郷土資料館の模型によると、吉野宿には本陣、脇本陣、旅籠、商店、遊郭が軒を並べています。特徴的なのは絹屋が数軒見受けられることで、絹が当時の重要な産業であり、甲州街道が絹を江戸に運ぶ重要な輸送路であったことがわかります。また、この模型によると、吉野宿は相模川の河岸段丘の上にあったことがわかります。なるほど、それでこのあたりの道は登ったり下ったりの坂道が続いているのですね。ちなみに、この藤野町(現相模原市)には太古より人々が住んでいた遺跡があり、その資料も展示されています。
郷土資料館には吉野宿本陣や旧ふじや旅館で昔使っていた農機具、生活用品などの道具が展示されています。頭上注意と書かれた屋根裏部屋を覗くと、興味深い品物がまだまだいっぱい保管されています。このあたりは養蚕だけでなく、周囲の豊富な森林資源を活かして木炭作りも盛んだったようです。
切妻造や入母屋造の建物の屋根の妻の三角形の部分を「破風((はふ)」と言います。また、切妻屋根の棟木や軒桁の先端に取付けた合掌型の装飾板のことを「破風板」と言います。実際に吉野宿の旅籠で使われていた破風板が郷土資料館の壁面に展示されています。
郷土資料館の前が吉野宿の本陣跡です。吉野宿の本陣は名主の吉野家が務めていました。吉野家の由緒は弘安年間に遡り、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」の際、吉野家の一族は上皇方について宇治、勢田で北条義時軍と戦ったのですがあえなく敗れ、故郷を去りこの地に住み着いたのだそうです。幕末頃の本陣は木造五階建ての当時としては珍しい巨大な高層建築物であり、上り下りの大名が宿泊する規模の大きな本陣でした。明治13年(1880年)に明治天皇が行幸で立ち寄られた際には2階で昼食をされたのだと言われています。説明板の後方に「聖蹟」と刻まれた大きな石碑が建てられています。これは明治天皇が行幸で立ち寄られたことを示すもので、「明治天皇……」などと言わずに「聖蹟」の2文字だけで表現しています。
しかし、木造五階建てという当時としては威容を誇った本陣の建物をはじめ宿場のほとんどの建物が明治29年(1896年)の大火で消失してしまいました。本陣の建物があった場所の隣にその時の火事で焼け残った土倉だけがポツンと残っています。壁の材質に火災を免れた訳があるのだそうです。
ちなみに、新撰組幹部唯一の生き残りである長倉新八が後年著した「新撰組顛末記」によれば、慶応4年3月6日、 甲州勝沼戦争で敗れた近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、散り散りになって小仏方面へ 向け敗走しました。その敗走の途中、ここ吉野宿へ至った近藤勇は吉野宿を陣地として最後の一戦を戦おうと考え、旧新撰組隊士の長倉新八、原田左之助に、新政府軍の圧倒的な火力に恐れをなして逃げる隊士達に思いとどまらせるよう説得させたが、結局功を奏せず、さらに東へ敗走することになったと書かれているのだそうです。
「小原の郷」の「甲州道中歴史案内図」とこの吉野宿郷土資料館「吉野宿ふじや」前の「甲州道中案内図」を組み合わせれば、小仏宿から相州4ヶ宿 (小原宿、与瀬宿、吉野宿、関野宿)を経て諏訪関所に至るまでの旧甲州街道のルートを辿ることができます。
吉野宿は小規模の宿場で、この「吉野」のバス停の先あたりが諏訪方(西の出入り口)でした。
国道20号線を数分歩いた先の吉野橋のたもとに二十三夜塔などと並んで「小猿橋」の説明板が立っています。かつての旧甲州街道はこの吉野橋より下流側(南)に架かっていた小猿橋を通っていたのだそうです。小猿橋は長さ14間(約25メートル)、幅2間(約3.6メートル)、高さ5丈8尺(約25メートル)の欄干付きの板橋で、この先で立ち寄る大月の猿橋と工法、形も同じで規模が小さいことから子猿橋と呼ばれたのだそうです。子猿橋って、なんだか可愛い響きの橋ですね。
吉野橋の下が沢井川。その沢井川では船釣りで魚を釣っている人達がいらっしゃいます。おっ、ここに「一橋大学相模湖艇庫合宿所」と書かれた看板の立派な建物があります。一橋大学ボート部の合宿所のようです。沢井川はこのすぐ下流で相模湖になります。
吉野橋を渡ると国道20号線から右に分岐し、坂道を登っていきます。旧甲州街道を想起できるなかなか雰囲気のいい道路です。
初夏に釣り鐘のような花が咲いているので、これはホタルブクロ(蛍袋)の花ですね。ホタルブクロは山野草としては,関東では赤紫の花が,関西では白色の花が多いといわれていますが、これは薄い赤紫色なので、その中間ってことなのでしょうか? 昔、関所が設けられていた箱根峠、小仏峠、碓氷峠より東側が関東ってことですから。
旧藤野町の中心部だったところを歩きます。
おおっ! これはカボチャの棚でしょうか? でっかく実ったカボチャの実がぶら下がっています。
藤野中学校の横を通ったところで再び国道20号線と合流します。
しばらく国道20号線を歩きます。
「藤野中学校入口」と書かれたバス停の向こうに江戸の日本橋を出てから18里目の「藤野の一里塚」跡があります。左手に大きな古木があります。津久井市の名木に指定されている推定樹齢300年のエノキ(榎)の木です。樹高約12メートル。エノキ(榎)は一里塚に植えられることが多い木なので、もしかするとこのあたりにあった一里塚の名残なのかもしれません。
旧街道らしく土蔵のある民家が目立ちます。
何という字が刻まれているのでしょうか? でっかい石碑が立っています。
「藤野総合事務所前」交差点で右手上方から下ってきた道路と合流します。この道路は甲州街道歩きの【第5回】で、高尾の手前、東京都八王子市の追分町交差点で分岐して、和田峠、野沢峠という険しい峠を越えてやって来る陣馬街道(山梨県道・神奈川県道・東京都道521号上野原八王子線)で、甲州裏街道とも呼ばれていました。この藤野の北で山梨県道・神奈川県道522号棡原藤野(ゆずりはらふじの)線となって下りて来ました。
藤野駅前交差点でいったん旧甲州街道から分かれ、右折します。その藤野駅前交差点のところに気になる名前のお店があります。「横山薬品改メ シーゲル堂」。いったい何の店なのでしょうか?
右折したところにあるのがJR藤野駅。このJR藤野駅まで観光バスが迎えに来ていて、その観光バスに乗ってこの日の昼食会場に向かいます。この日の昼食会場は前回【第6回】に立ち寄った「小原の郷」でした。その「小原の郷」でお弁当の昼食でした。
昼食時にケータイで西日本の豪雨の状況をチェックしましたが、とんでもないことになっているようで心配です。それも被害が大きいのが私の生まれ故郷である愛媛県と、私が学生時代の4年間を過ごした広島県。なんとも気掛かりです。
……(その4)に続きます。
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