全国の「◯◯銀座通り」の発祥の地とも言える銀座中央通りの一筋西側に「金春通り」という通りがあります。「金春」と書いて「こんぱる」と読む珍しい名称の通りです。この「金春」という珍しい名称は、江戸時代、ここに幕府の儀礼に深く関わる能楽の金春流の屋敷があったことに由来します。江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、なかでも最も歴史のあり筆頭格であった金春家は室町時代以来繁栄し、江戸時代初期から観世太夫とともに江戸で能を演じていた名家でした。金春家が寛永4年(1627年)に幕府より拝領した屋敷が現在の銀座8丁目にありました。
余談ですが、金春通りのある銀座7・8丁目あたりの芸者が「金春芸者」と呼ばれました。さらに銀座4丁目の松屋の裏手にいた芸者が「銀座芸者」、並木通りにいた芸者が「鍋町芸者」と呼ばれ、これらを総称して「新橋芸者」と呼ぶようになりました。これら新橋芸者衆の芸事の発表の場として造られたのが「新橋演舞場」です。
この金春通りの花街で、明治の末期から金春芸者の間で流行した色が「金春色」です。青色に緑がかった色で、正式には「新橋色」という日本の伝統色に指定されており、金春通りの銘板にもシンボル色として使用されています。そういうこともあり、金春屋敷なき後も、この地にその名を留めているわけです。長さおよそ130メートルほどの今では極々普通の裏通りなのですが、江戸情緒を残す「銀座の最後の砦」と言われている由緒ある通りなのです。
ここに煉瓦(レンガ)でできた小さなモニュメントが立っています。ここは明治6年(1873年)に日本で一番最初の煉瓦街ができたところで、それを記念して建てられたモニュメントです。この銀座と築地の一帯は、明治5年(1872年)2月、和田倉門付近から出火した火事により、約95ヘクタールを焼く大火が起こりました(銀座大火)。ここ銀座は鉄道の起点で東京の表玄関である新橋に近いこともあり、この銀座大火の復興にあたって明治政府は西洋流の不燃都市の建設を目指しました。焼失地域の道路の幅は拡げられ、大火の翌年の明治6年(1873年)には拡幅された大通り沿いに英国ロンドンのリージェント・ストリートをモデルとした洋風2階建て建築の家々が建ち並ぶ延べ約10kmに亘る稀有で壮大な煉瓦街を造り上げられました。
残念ながらこの煉瓦街は大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により崩壊・焼失してしましたが、昭和63年(1988年)に幻と言われた煉瓦街の遺構が発掘され、江戸東京博物館に収蔵されました。この遺構が、かつての金春屋敷跡内で発掘されたことを重要視し、あえてその収蔵遺構の一部をゆかりの金春通りに建立したのが、この「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」です。日本で建設された煉瓦街はこの銀座と丸の内の2箇所だけです。なので、ここは貴重な煉瓦街の跡なのです。
現在、中央区には10軒の公衆浴場(銭湯)が残されており、そのうちの1軒が、この金春通りにある「金春湯」です(この写真では通りの左側に金春色の看板がチラッと見えています)。銀座に今でも銭湯が残っていること自体非常に珍しいことですが、創業が江戸時代末期の文久3年(1863年)ということで、155年もの歴史を持つことに驚かされます。昭和32年(1957年)に現在の建物に改築されましたが、江戸時代から存続している都内の老舗銭湯3軒の内の1軒で、その意味で重要文化財級の銭湯と言えます。
銀座8丁目の交差点です。ここで交差する中央通りがかつての江戸五街道の1つ「旧東海道」です。
江戸時代にこのあたりに芝口御門があったことは前述の通りです。芝口御門は宝永7年(1710年)に朝鮮からの聘使の来日に備えて、我が国の威光を顕示するために旧東海道に設けられた御門です。同年に高輪大木戸を設け東海道の表門としたので、その内門のような門でした。幸橋の下流に架かる芝口橋を渡り冠木門から枡形に入るあたりは、現在の銀座8丁目の中央通りの交差点になっています。汐留川の芝口門に架橋された橋は当初は新橋(あたらしばし)呼ばれていたのですが、のちに芝口橋と改称されました(土橋より新しくできた橋だから新橋と呼ばれたのだそうです)。芝口御門は15年後の享保9年(1734年)に焼失して以来再建されず、石垣も撤去され、芝口橋はもとの新橋の旧称に戻りました。この橋が現在の新橋の地名の発祥の地となっています。
その新橋の親柱の横に「銀座柳の碑」が立っています。この碑は昭和7年(1932年)に公開された五所平之助監督、田中絹代さん主演の松竹映画『銀座の柳』にちなんで建てられたものです。碑には四家文子さんの歌った同名の主題歌(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)の歌詞が刻まれています。
映画にもなったように柳は昔から銀座の象徴でした。『銀座の柳』だけでなく、昭和4年(1929年)に公開された映画『東京行進曲』の主題歌(作詞:西條八十、作曲:中山晋平、歌:佐藤千矢子)にも「昔恋しい銀座の柳……♪」と歌われていますし、今も東京ヤクルトスワローズの応援歌として親しまれている「ハァ 踊り踊るなら チョイト 東京音頭……♪」で始まる昭和8年(1933年)発表の盆踊りの定番曲『東京音頭』(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)にも「ハァ 花は上野よ チョイト 柳は銀座 ヨイヨイ……♪」という歌詞があります。さらには、昭和11年(1936年)発表の『東京ラプソディ』(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、歌:藤山一郎)は「花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で……♪」という歌詞で始まります。
この銀座の象徴である柳は、明治7年(1874年)、銀座大火の復興にあたって明治政府が推し進めた西洋流の不燃都市の建設の一環として、銀座通りに日本初の街路樹として、松、カエデ、桜が植えられたことが発祥です。その後、明治10年(1877年)、このあたりの地下水の水位が高いために松や桜が次々と枯れてしまったため、全面的に柳に植え替えられました(初代柳の誕生)。明治17年(1884年)には銀座の街路樹はほとんど柳に変わりました。
大正12年(1923年)の関東大震災により銀座一帯は大火に見舞われ、柳の木もほとんど焼失してしまいました。その後、一時、イチョウに植え替えられてしまったこともあったのですが、前述の昭和4年(1929年)の「東京行進曲」の大ヒットで、朝日新聞社や地元有志などの寄贈により柳が植樹されました(2代目柳)。
昭和20年(1945年)、第ニ次世界大戦の戦災により、その柳はほぼ焼失したのですが、終戦後の昭和23年(1948年)、銀座通り連合会の有志により焼失した柳を補植されました(3代目柳)。
しかし、昭和29年(1954年)頃から戦渦を免れた柳が枯死するようになり、昭和34年(1959年)、東京オリンピックの開催が決定してからのビル建設などによる環境の変化により、柳の枯死が目立つようになってきました。そして、昭和43年(1968年)、銀座通りの大改修工事の開始及び柳の衰弱が著しいために、銀座の象徴だった柳は全面的に撤去されてしまいました。残った柳は日本各地に「銀座の柳」として移植されたり、接ぎ木されたりして、その遺伝子の維持が図られています。
「銀座の柳二世」という表示があります。この木は昭和43年(1968年)に銀座の柳が全面的に撤去された際に移植された柳の枝を銀座の有志が持ち帰り、接ぎ木して、二世柳として復活させたものだそうです。
銀座8丁目の交差点の角にある日本最大の玩具店「博品館」です。現在は博品館TOY PARK本店として10階建てのビルになり、地下1階~4階が玩具売場、5・6階がレストラン街、8階には博品館劇場が設けられています。この博品館は明治32年(1899年)、「帝国博品館勧工場」として、この地に創業されたもので、時計塔つきの派手な洋風の外観もあって好評を博しました。当時の写真が残っていて、見せていただきました。昔からここは玩具の殿堂だったようです。
この帝国博品館勧工場、大正10年(1921年)にはエレベーター付きの4階建てのビルに改築されたのですが、昭和5年(1930年)に一度廃業してしまいました。その後、戦前は著名なカフェーであった「銀座パレス」、戦後は福富太郎の率いる著名なキャバレーチェーン「ハリウッド」の本店「銀座ハリウッド」などがこの地で営業したのですが、昭和53年(1978年)、創業80年を期に現在の10階建てビルを新築し、玩具店『博品館TOY PARK』として営業を再開、55年ぶりに由緒ある「博品館」の名称が復活しました。
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