2018年8月30日木曜日

甲州街道歩き【第6回:高尾→相模湖】(その4)

これまで何度も書いてきましたが、江戸幕府は高尾山の北方に位置するこの小仏峠(標高548メートル)を正式な甲州街道と定め、ここに関所を置いて江戸の守りの要としました。そして、近隣の他の峠の通行は禁止しました。明治の時代になり小仏関所は廃止されたのですが、天然の要害でもあった小仏峠への道は嶮しく、馬車交通にさえ耐えられぬものでした。そこで明治新政府は甲州街道の輸送力を強化するため新道の開発を急ぎました。そして晴れて明治21年には大きく迂回して高尾山を挟んで南側の大垂水峠(標高389メートル)を通る新道が開通し、ここが小仏峠に代わる甲州街道の新しい道筋となりました。この大垂水峠を通る新道が開通するまではこの小仏峠を越えるルートが甲府方面へ向かう基幹ルートでしたが、大垂水峠を通る新道が開通後は人々や物資がこの小仏峠を行き交うことはなくなりました。「甲州古道」という表現はこういうところから出ていると想像できます。


相模原市に向かう道標には、左の茶屋跡の先に「底沢バス停3.5km 相模湖駅5.5km」とあり、さらに相模原市が建てた道標があり、「←小仏宿 甲州道中 小原宿→」とあります。その先には甲州道中歴史案内図という看板もあり、これから向かう小原宿が表示されています。そのまま進むと杉林が目の前にせまり、右側の道標の先から下り坂になっています。この先もポイントになるところに道標があります。



杉林の中を少し進むと、眼下の木立越しに中央自動車道の高架が見えてきます。これからはかなり急斜面の坂で、ジグザグに下っていきます。


坂には所々に石畳の跡が見られます、これは街道筋の排水性をよくして、ぬかるみの発生などを防ぐためのものです。この様な石畳道は東海道の箱根古道や中山道等の峠道で多く見られます。


小仏バス停から小仏峠への登りの道はハイカーが多かったのですが、皆さん小仏峠から裏高尾の山々に向かったのか、この旧甲州街道小仏峠越えの神奈川県側の道を歩く人の姿はほとんどありません。杉林の中の道をひたすら下っていくと、次第に石ころだらけの道に変わり、やがてV字の底を歩く道になります。この旅行会社の甲州街道歩きでは参加者を2025名程度の班に分けて、その班ごとに隊列を作って歩くのですが、こうした山道では、通常、女性の皆さんが前方、男性の皆さんが後方になって隊列を作ります。ですが、この甲州街道の下り、前方の女性陣の下る速度が速い速い!  私は最後尾という私の中での定位置をキープし、脱落してくる方々を励ましながら歩いていたのですが、瞬く間に前方の女性陣の姿が見えなくなりました。妻は先頭集団の先頭(ウォーキングガイドさん)から2人目か3人目を歩いていたはずなので、後で聞いてみると…「ドンドン速度を上げて転げるように下っていけるので、峠の下りが一番面白かった!」とのこと。おいおいおいおい、街道歩き初心者か!  バランスを崩して足首をちょっとでも捻ると、そこから先、歩けなくなるぞぉ!


妻が転げるように…と表現したように、この小仏峠越えの旧甲州街道は、高尾(江戸)側から峠までの道より、相模湖(諏訪)側から峠までの道のほうが険しく、そして舗装されていない山道の区間も長いように思います。この険しい坂道を下りで使えるので、高尾→相模湖の方向で良かったです。この区間を登りで使う反対方向だとちょっと大変でした。


峠から20分ほど下ると、「甲州古道中峠」の道標があります。その先には、「←底沢バス停2.3km  小仏峠1.2km→」の道標があり、少し先には「甲州道中」の標柱が建っています。

ここに東海自然歩道の道標が建っていて、右側には東海自然歩道のルートを示した案内板があります。環境省が計画する長距離自然歩道の1つが、この東海自然歩道です。東海自然歩道は、全国初の長距離自然歩道として昭和45(1970)に路線決定されました。明治の森高尾国定公園(東京都八王子市高尾)を起点に神奈川県、山梨県、静岡県、愛知県、岐阜県、三重県、奈良県、滋賀県、京都府を繋いで明治の森箕面国定公園(大阪府箕面市)に至る総延長1,697Kmの自然歩道です。


その標柱の立っているところから10分ほど下ると、「甲州古道 底沢」の標柱とともに「←小仏峠1.8km 底沢バス停1.7km→」の道標が立っています。ここで山道の区間が終わり、舗装された林道区間となります。標高が低くなってくるにつれて、また霧雨になってきました。どうも谷間に霧がかかっているようです。幸いさほど雨脚は強くありません。雨具を羽織って歩きます。


眼下にJR中央本線の線路が見えます。JR中央本線は小仏峠のほぼ真下を小仏トンネルを使って通過します。JR中央本線の小仏トンネルは実は小仏トンネルと新小仏トンネルの2本あって、このうち小仏トンネルは明治34(1901)8月に官設鉄道によって高尾駅〜上野原駅間が開業した時に造られたトンネルです。全長は2,574メートル。現在は上り列車専用で使用されています。いっぽう、新小仏トンネルは昭和39(1964)9月の同区間の複線化時に開通したトンネルで、全長2,594メートル。現在は下り列車専用で使用されています。


また、同じく小仏トンネルを抜けてきた中央自動車道の高架も見えます。こちらは随分と高いところを通っています。それだけこちらが下ってきたということなのでしょう。その中央自動車道の高架を見ながら直進します。



その先に三叉路があり、「←底沢バス停1.0km 甲州古道美女谷 小仏峠2.5km→」の道標が立っています。ここを右に行くと美女谷温泉です。美女谷の地名の由来について、『相模風土記稿』には、「旧説に、往昔是處より美女出ければ、遂に地名となると云ふ。今其事実を探るに詳なることを知らず」とありますが、美女とは浄瑠璃伝説に登場する照手姫のことです。

照手姫が鏡の代わりに利用したという「照手姫水鏡  七ッ淵まで550メートル」という表示もあります。『照手姫ものがたり(美女谷伝説』と題された説明板が立っています。それによると…、

照手姫は、江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎などで広く知られた「小栗判官と照手姫」の物語の主人公です。神奈川県相模原市では横山段丘崖を中心に、照手姫と小栗判官にまつわる伝承が数多く残されています。



照手姫は、小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来になったとも言われています。北面の武士だったという父と優しい母から生まれた照手姫は美しい娘に成長し、美女谷川上流の七ツ淵で豊かな黒髪を梳くその姿は、まばゆいばかりの美しさを放ち、里の若者たちを魅了したと言われています。しかし不幸にも両親が相次いでこの世を去り、いつしか照手姫の姿は美女谷の里から消えてしまいました。その後数奇な運命を辿った照手姫は相州藤沢宿で小栗判官満重と劇的な出会いをしますが、満重は毒殺されてしまいます。姫の必死の思いが通じたのか、満重は遊行上人という名僧のおかげで蘇生し、常陸の国の小栗城に帰り、照手姫を迎えて、末永く幸せに暮らしたと言われています。


道標の案内に従い、底沢バス停を目指して坂道をさらに下っていきます。

高い中央自動車道の高架の下を潜ると、右手の橋脚の下に「道標」と「馬頭観音」があります。その先に、「甲州古道 左小原宿 右小仏峠 甲州道中板橋」の道標があります。



道路の壁面に紫陽花(アジサイ)が綺麗に咲いています。


実は旧甲州街道はこのあたりから一度坂道を登るルートだったのですが、中央自動車道の基礎工事を行った時に消滅してしまったようです。従って、ここから小原宿までは厳密には旧甲州街道のルートではないことになります。


道なりに進むとやがてJR中央本線の線路が近づいてきて、しばらくは甲州街道と並行して進みます。道が下がり始めると、煉瓦造りの長久保架道橋でJR中央本線の線路の下を潜るのですが、その長久保架道橋の手前に「甲州道中 小原一里塚」の表示が出ています。小原一里塚は江戸の日本橋を発ってから15里目の一里塚です。表示板には「ここの上にありました。今は中央高速道路の下で、跡はありません」と記載されています。


長久保架道橋の先は三叉路になっていて、ここを右折して川に沿って下って、底沢バス停を目指します。 ここにも『照手姫ものがたり(美女谷伝説』と題された説明板が立っています。


「←相模湖駅2.0km  小仏峠3.5km→」の道標が立っています。


右側に底沢橋があり、ここで大垂水峠を迂回してきた国道20号線に合流します。ここが底沢バス停で、国道の手前と越えたところには屋根付きの待合所があります。右折して国道20号の底沢橋を渡ると、「大月へ31km、相模湖へ1km」の道路標識があります。


「国道20号線 日本橋から63kmですか…。先ほどすぐ下を通った小原一里塚が日本橋から15里目の一里塚でしたから、ほぼ60km。国道20号線は小仏峠ではなく、大垂水峠を迂回してくるので少し距離が長くなるので、こんなものでしょう。





……(その5)に続きます。

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