2018年8月1日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その3)

次に訪れたのは小石川後楽園です。小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6(1629)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて水戸徳川家の江戸上屋敷内に築いた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)を、嫡男の光圀が改修。明の遺臣朱舜水の選名によって「後楽園」と命名して完成させたものです。ちなみに、「後楽園」とは宋の学者・范仲淹の著書「岳陽楼記」の中に出てくる「(士はまさに)天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に“後”れて“楽”しむ」によるものです。


7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がります。また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山も採り入れています。光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚な庭園になっています。

明治2(1869)の版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となりました (この名残で現在でも砲兵工廠の遺構のいくつかを園内で見ることができます)。明治7(1874)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く、世界的にも名園として知られるようになりました。大正12(1923)、国の史跡および名勝に指定されたのですが、その指定の際、岡山市の後楽園と区別するため「小石川」という名称を頭に冠しました。昭和27(1952)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されています。ちなみに、特別史跡と特別名勝の両方の重複指定を受けているのは、東京都内の庭園では浜離宮恩賜庭園とこの小石川後楽園の2ヶ所だけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせた9ヶ所だけなのだそうです。

なお、昭和12(1937)に隣接する旧東京砲兵工廠跡地にプロ野球興行を主たる目的として造られた野球場は小石川後楽園にちなんで「後楽園球場」(東京ドーム」の前身)と名づけられ、さらに同じ敷地内にできた遊園地や多目的ホールなどにも同じように「後楽園」の名が冠されています。この日も後楽園遊園地のほうから歓声が聞こえてきました。


小石川後楽園を取り囲む白塀の上には瓦が乗っているのですが、そこには徳川家の家紋である「三つ葉葵」と、水戸藩徳川家の家紋である「水戸六つ葵」の両方の家紋が刻まれています。


この小石川後楽園に隣接して、かつては水戸藩徳川家上屋敷がありました。江戸時代に江戸に置かれた各藩の藩邸(藩の屋敷)のことを江戸藩邸と言いますが、各藩幾つか保有していた江戸藩邸のうち上屋敷とは大名とその家族が居住し、江戸における各藩の政治的機構が置かれた屋敷のことです (江戸における大名の屋敷には当該屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などがあり、これらを総称して江戸藩邸と呼ばれていました)。御三家と言われる尾張藩徳川家(619500)と紀州藩徳川家(555千石)と水戸藩徳川家(28万石)の上屋敷は当初は江戸城内に置かれていたのですが、明暦の大火により江戸城内の御三家の上屋敷はすべて焼失してしまいました。明暦の大火からの復興にあたって、リスク回避の目的から御三家の上屋敷も江戸城外に置かれることになり、水戸藩徳川家が上屋敷を設けたのがこの小石川後楽園に隣接したエリアで、敷地の面積は101,831坪という広大なものでした。現在は小石川後楽園の一部や東京ドーム、後楽園遊園地となっています。

余談ですが、御三家と言われる尾張藩徳川家と紀州藩徳川家と水戸藩徳川家の上屋敷のうち、新宿区市谷にあった尾張藩徳川家上屋敷の跡地は現在は防衛省の庁舎になっており、千代田区元赤坂にあった紀州藩徳川家上屋敷は現在は赤坂御用地と迎賓館(旧赤坂離宮)になっていて、どちらも容易には立ち入ることができません。御三家のうちで私達庶民が気軽に立ち入ることができるのは現在は小石川後楽園、東京ドーム、後楽園遊園地となっている、唯一、水戸藩徳川家上屋敷の跡地だけです。その意味でこの小石川後楽園は貴重なところです。



水戸徳川家といえば徳川御三家(水戸藩、尾張藩、紀州藩)1つ。その水戸藩徳川家の第2代藩主が徳川光圀。徳川家康の孫に当たり、儒学を奨励し、彰考館を設けて水戸学の基礎を創ったことで有名です。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行いました。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行いました。さらに、徳川一門の長老として、第5代将軍・徳川綱吉期には幕政にも強い影響力を持ちました。

徳川光圀といえば、現代では白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする「水戸黄門」としてあまりにも有名です。徳川光圀は存命中から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立していたのですが、江戸時代後期あたりからは『水戸黄門漫遊譚』として講談や歌舞伎の題材として取り上げられるようになり、大衆的人気を獲得しました。明治時代末期に日本でも映画製作が始まると、時代劇映画の定番として『水戸黄門漫遊記』がもてはやされ、第二次世界大戦前から戦後にかけて数十作が製作されました。戦後、テレビの時代になるとテレビドラマの揺るぎないほどの定番となり、その人気を不動のものとしています。特にTBSが東野英治郎さんを主演に昭和44(1969)から放映を始めたナショナル劇場『水戸黄門』は昭和58(1983)まで14年間も続き、その後も西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さん、里見浩太朗さん、武田鉄矢さんと水戸黄門役を代えながらも現在もパナソニックドラマシアター『水戸黄門』としてさらに続いています。

この徳川光圀の水戸黄門像は、徳川光圀が『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために佐々十竹(佐々宗淳)ら家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊が勝手にイメージされものです。実際の徳川光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺(英勝寺)に数度のほか日光、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録も残っていません。なので、物語はすべて完全なフィクションばかりです。

ちなみに、水戸黄門の名は、徳川光圀が徳川御三家の1つである水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言を名乗っていたことから、藩名である「水戸」と、中納言の唐名である「黄門」をとって広く用いられていた別称です。また、『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために各地へ派遣された家臣の筆頭で彰考館総裁であった佐々十竹(佐々宗淳)と安積澹泊(あさかたんぱく、安積覚兵衛)の二人が「助さん(佐々木助三郎)・格さん(渥美格之進)」のモデルとされています。風車の弥七やうっかり八兵衛、さらには艶っぽいシーンで有名なかげろうのお銀さんのモデルは分かりません()

また、テレビドラマ『水戸黄門』では格さん(渥美格之進)が「この方をどなたと心得る!畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」というお決まりのシーンがあまりにも有名ですが、残念ながら江戸幕府に“副将軍”という役職は存在せず、実はこれも架空のものです。そもそも御三家は、万一、徳川本家が断絶した時の備えとして初代将軍徳川家康が作った制度とされていますが、当初、御三家と言われる尾張藩徳川家と紀州藩徳川家と水戸藩徳川家では役割が大きく異なっていました。万一、徳川本家が断絶した場合は尾張藩徳川家、または紀州藩徳川家から養子を出し、水戸藩徳川家はこれを補佐するものとするという役割分担でした。さらに、当初は将軍家(徳川本家)・尾張藩徳川家・紀州藩徳川家を御三家といい、第2代将軍徳川秀忠の三男である駿河藩主徳川忠長が甲府に蟄居のうえ改易されるまでは尾張徳川家・紀州徳川家・駿河徳川家が御三家と呼ばれた時代もありました。水戸藩徳川家が御三家に加わるのは徳川忠長改易の後のことです。

家格の点では、その成り立ちからして尾張藩徳川家・紀州藩徳川家に劣り、官位・官職・禄高の点でも両家の下に位置づけられていました。例えば、禄高で言うと、尾張藩徳川家の表石高は619500石、紀州藩徳川家は555千石であるのに対して、水戸藩徳川家は28万石でした。そのいっぽうで、水戸藩徳川家は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を免除された江戸定府の藩であり、朝廷に次期将軍を奏聞したり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持つなど、常に将軍を補佐する役割を期待された藩でした。このように、家格や将軍の継承権では劣ってはいたものの、常に将軍の傍にいることから、水戸藩主は俗に「副将軍」と呼ばれるようになったと推測されます。

(なお、徳川光圀は水戸藩歴代藩主で唯一の水戸生まれでしたが、前述のように参勤交代を免除されていた水戸藩徳川家では、帰国は藩主からの申し出によるものであり、藩主時代に計11回しか帰国していません。それでもこれは歴代藩主の中では最多で、その後の藩主は藩の財政悪化もあり、ほとんど帰国しなかったと言われています。また、光圀は隠居してから没するまでの約10年間を水戸藩領内で過ごしたので、水戸藩領内における関連した光圀関連の史跡は後の藩主に比べると格段に多いと言われています。)

徳川光圀は存命中から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立していた…ということを書きましたが、果たして名君であったのかどうかは甚だ疑問が残るとされています。先ほど尾張藩徳川家の禄高は619500石、紀州藩徳川家は555千石であるのに対して、水戸藩徳川家は28万石でしかなかったいうことを書きましたが、同じ御三家を言われる徳川家にあって、2倍以上というこの禄高の差はプライドの異常に高い徳川光圀にとっては屈辱的なことでした。そこで光圀がやらかしたことがとんでもないことでした。光圀は他の御三家に対抗するため、検地(倹地:田畑の面積と収量の調査)の際、当時1間=63寸だったのを6尺に改め、表石高が28万石だった水戸藩を、見かけ上、369千石にしてしまったのです。この実態(内高)とは大きくかけ離れた表石高が次代の徳川綱條の代に幕府に認められることとなり、その後の水戸藩の財政困窮の大きな要因となったようです。

前述のように、水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石高の修正を行ったため、内高(実質)が表高(格式)を恒常的に下回ることになりました。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も369千石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなってしまいました。これに上記の大日本史編纂事業とあいまって水戸藩の財政困窮の決定的な要因となってしまいました。もちろん、徳川光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきなのですが、その一方で藩の財政の悪化を招き、ひいては領民への過度な負担を強いたことにより農民の逃散が絶えなかったという側面も存在し、単純に「名君」として評することはできないという声もあるようです。

小石川後楽園の園内に入ります。庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっていて、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されているのが特徴になっています。

まず、目に入って来るのがこの大泉水です。大泉水は小石川後楽園の中心的景観で、蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたといわれています。


内庭です。もともと水戸藩の書院の庭としてあった所で、昔は唐門を隔てて、大泉水のある「後園」と分かれていました。江戸時代は「うちの御庭」と呼ばれていたと伝えられ、池を中心にした純日本式の庭園です。小石川後楽園の昔の姿をそのままとどめているといわれています。


明治4(1871)、明治新政府は水戸藩徳川家上屋敷の庭園を除く跡地に小銃を主体とした兵器製造工場(東京砲兵工廠)や砲兵工科学校を設立しました。そのほか国の施設で使う金属加工品や銅像の鋳造なども行なっていました。しかし、大正12年の関東大震災で壊滅的な被害を受け、33晩、地下に埋設した弾薬の破裂音が鳴り響いたと伝わっています。この東京砲兵工廠はあまりに被害の程度が大きかったため復旧がかなわず、昭和4年から昭和10年にかけて兵器製造工場は九州の小倉工廠や北区赤羽に順次移転し、66年間の銃器機製造の幕を閉じました。


東京砲兵工廠の国有跡地は、昭和11(1936)、新設された後楽園スタヂアムに売却され、その翌年、職業野球専用の後楽園球場が開場しました。さらに、昭和24(1949)、東京都が戦後復興策として後楽園球場の隣接地に後楽園競輪場を開設したのですが、昭和42(1967)、東京都知事に美濃部亮吉氏が当選するとギャンブル廃止の方針のもと取り壊され、ジャンボプールやゴルフ練習場に様変わりしました。昭和63(1988)に競輪場跡地に日本初の屋根付き野球場の東京ドームが完成しました。後楽園球場は昭和62(1987)度の日本シリーズ(西武ライオンズ×読売ジャイアンツ)が公式戦最後の野球の試合となり、その後取り壊され、跡地にはプリズムホールや東京ドームホテルが建設されています。

「藤田東湖先生遺蹟」という標柱が立っています。藤田東湖は、幕末期の水戸藩士で、戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された人物です (武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称されることもあります)。特に水戸学藤田派の大家として著名で、全国の尊皇志士に大きな影響を与えました。各藩の志ある若者は江戸に出た際は、必ずといっていいほど、この水戸藩小石川上屋敷の藤田東湖の元を訪れ、薫陶を受けたといわれるほどです。信州から佐久間象山、長州から吉田松陰、越前から橋本左内、熊本から横井小楠、薩摩から有村俊斎(海江田信義)、西郷隆盛など幕末期に名を残した人物が次々と藤田東湖を訪ねてやってきたことが記録に残されています。そこでは単に一方的に藤田東湖の薫陶を受けただけでなく、訪ねてきた若者同士がこの国の将来について熱い議論を展開しました。そういう日本の若者達の出会いと自己研鑽の“場づくり”をした意味でも、明治維新に向けて水戸藩士・藤田東湖の果たした役割は極めて大きいと言えます。ちなみに、水戸藩徳川家は親藩の御三家であると同時に、水戸学を奉じる勤皇家として知られており、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦さが起きたならば、躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされ、この家訓が水戸学の基本となっていました。


その藤田東湖は安政2(1855)102日に発生した安政の江戸地震に遭い死去しました。関東地方を襲ったマグニチュード7とも伝えられるこの直下型の地震で、彼は母親を守り脱出させるため、落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死したと伝えられています。実にあっけない最期でした。享年50歳でした。

ちなみに、世にいう「安政の大地震」は、特に安政2(1855)に発生した安政江戸地震を指すことが多いのですが、この前年にあたる安政元年(1854)に発生した南海トラフを震源とする超巨大地震である安政東海地震および、安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、そのほか伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な地震も含めて「安政の大地震」と総称されることもあります。アメリカ合衆国との間で日米和親条約を締結し、日本国が長い鎖国の時を経て開国したのがその安政江戸地震の前年の嘉永7(1854)33日。その開国から8ヶ月後の嘉永7年(1854)114日、5日と相次いで南海トラフを震源とした巨大地震である安政東海地震、安政南海地震が発生し、さらには翌年の安政2(1855)102日には江戸の町に大きな被害をもたらす安政江戸地震が発生したわけです。上記のように安政年間はこのほかにも大きな地震が次々に日本列島を襲い、世情が極めて不安定になった時期でした。そうした中、安政5(1858)から安政6(1859)にかけて「安政の大獄」が起き、安政7(1860)33日には江戸城桜田門外において大老井伊直弼が暗殺(桜田門外の変)。そして慶応3(1867)1014日、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許しました。いわゆる「大政奉還」です。で、その江戸幕府最後の将軍となった第15代将軍徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の実子です。

学校で習う日本史においては幕末を語る際にこの「安政の大地震」について触れることはほとんどありませんが、南海トラフを震源とした超巨大地震が日本列島を襲ったわけです。この地震による直接的な被害や復旧・復興に向けての途方もないく巨額の財政支出が江戸幕府の統治を急速に弱体化させていったことは想像に難くありません。なので「大政奉還」なのでしょう。そういう目で幕末を眺めてみると、幕末という時代も学校で習ったものとはまるで違ったように見えてきます。そして、その幕末、徳川御三家の1つ、水戸藩徳川家が非常に重要な役割を果たすことになります。

小石川後楽園にの赤門があって、そこを出ると、お稲荷さんの祠が建っています。前述のように水戸藩徳川家は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を免除された江戸定府の藩であったのですが、歴代の藩主は藩の財政の悪化もあり、ほとんど水戸藩の領地に帰国することはなかったと言われています。その代わりにこの上屋敷に隣接した稲荷神社で、水戸藩の繁栄を遠くから日々祈っていたと言われています。


九八屋です。この茅葺の建物は江戸時代の酒亭を復元した建物です。もともとの建物は、江戸時代に作られたものでしたが、戦災により焼失してしまい、現在の建物は昭和34年(1959)に復元されたものです。九八屋の解説文には、「江戸時代の風流な酒亭の様子を具した。この名の由来は、『酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし』と酒飲みならず、万事控えるを良しとする。との教訓による。」と書かれています。昼は九分、夜は八分の教訓から、九八屋なんですね。



美女の形容として使われる言葉に「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」というのがありますが、その牡丹(ボタン)の花です。原産地は中国西北部で、中国では唐の時代以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになったと伝えられているのですが、この花を見れば、それも分かります。小石川後楽園は四季折々の花が楽しめる場所としても有名で、小石川植物園が隣接してあります。その小石川植物園は江戸時代小石川養生所だったところです。小石川養生所は、江戸時代に幕府が江戸に設置した無料の医療施設で、第8代将軍徳川吉宗と江戸町奉行の大岡忠相の主導した享保の改革における下層民対策の1つとして、享保7(1722)に小石川薬園(現在の小石川植物園)内に開設されました。建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置されていたのだそうです。


園の北側地域は、景観が一変します。梅林、稲田、花菖蒲、藤棚等の田園風景が展開します。庭園の中に稲田があるのは、この小石川後楽園くらいのもので、珍しいものです。これは農民の苦労を、徳川光圀が彼の嗣子・綱条の夫人に教えようとして作った田圃で、現在は毎年、文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りをしています。


小廬山です。ここは一面笹で覆われた円い築山で、その姿形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたものです。山頂からは庭園全体を見おろせます。


清水観音堂跡です。ここにはかつて京都の清水寺を模した観音堂が建っていたのですが、大正12年の関東大震災で焼失したのだそうです。


得仁堂です。この建物は、徳川光圀が18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置したと伝わっている堂です。得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによります。


愛宕坂です。ここは京都愛宕山の坂にならって造られたもので、47段の石段から成っています。


大堰川です。ここは小石川後楽園で川の景色を代表する場所となっていて、その名は、京都嵐山の下を流れる大堰川にちなんでおり、昔は神田上水から水車で水を汲みあげて流していました。ちなみに小石川後楽園があるあたりは小石川台地の先端に位置していて、近くを神田上水が流れていたことから、神田上水の水を引入れて築庭されました。


円月橋です。徳川光圀が篤くもてなした明の儒学者・朱舜水が設計したといわれる石橋で、水面に映る様子と合わせると満月のように見えるので、この名がつけられました。現在は渡ることはできません。


萱門跡です。この萱門では門外に水車を設け、傍を流れる神田上水の水を汲み上げて小廬山(庭園内)に通したと言われています。この萱門は第二次世界大戦の戦災により焼失しました。


若い大道芸人がコマの曲芸を披露していました。これも江戸の街の1つの風俗でした。いいですねぇ~。


ちょうど5月。小石川後楽園の周囲は色とりどりのサツキの花で溢れていました。綺麗です。



……(その4)に続きます。



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